夏の月外伝 安土編-本能寺-




 天正十年、水無月二日。丑の三つ刻。本能寺。
 星ひとつない暗闇。桔梗の旗を映えさせるのは、松明の灯り。
 濡れ縁より桔梗を目に映しながら、この日は早かったのかそれとも遅かったのか、と考える。
「上様」
 森乱丸が一振りの槍を差し出すさまに、口元に重い笑みを刻んで、信長は「お乱」と呼び、その頭にポンと手を置いた。
 打ちかかる敵を前にし、今日は実に体が軽いとふと思う。自由に動く手足。鉄砲の弾ですらこの目がとらえ、避けるのも造作もない。
 あぁこれが行き着いた先か、と信長は思った。
 これほどに身軽に動く体はまるで自分のものとは思えず、現実と認識しながらも今は夢のような心地よさに浸るこの身。
 槍先が折れた際、縁の先を見据えれば、見知った男の甲冑姿がある。
 物静かなその目に、どれだけの思考があろうが熟考があろうが、今は信長にはさして興味はない。
 此処が行き着いた先の終わりだとすれば、ここにたどり着く時は早かったのか、遅かったのか。
「上様、中へ」
 小姓頭であり黒母衣衆の一人である毛利新介の叫ぶ声が聞こえた。
 わずかに肩越しに見たその顔は、あの桶狭間の合戦で今川義元の首を挙げたときの精悍さも若さもない。老いた、というほどの年ではなかったが、 今毛利の目には「終わり」を見据えたせめぎ合いしかなかった。
 本能寺の本殿に足を踏み入れたときには、乱丸がつけた火の手がすでにまわっていた。煙が急速に館に浸透していくさまが信長の目に映る。
 戸を封じ、敵を内部に踏み込ませぬために、多くのものが生きた壁となり、時をつくろうとしていた。
 ただ、信長が自害して果てるための「時」をつくるために、死んでいく。
 寝室に戻れば、一人付き従っていた乱丸が一瞬力なく頭を垂れたが、ふと顔をあげ深々と頭を下げ、襖をゆっくりと閉ざした。
 すでに刃を受け、矢を受け、乱丸の命の風前の灯たることは見て取れる。
 炎が本能寺を焼く音が聞こえる。煙がすでに此処まで浸透し、生き物を包み込み、取り込む。
「早かったのか……遅かったのか」
 その答えは自らでは出ぬものらしい。
 鞘より抜いた刃を見据えれば、そこに映し出されるは自らの苦味きった顔。
 さていかがするか、と刃に問う。
 明智ごときの家臣らにこの首をくれてやるつもりはない。だが、もはや本能寺を包み込む炎の勢いが激しすぎて、この場にたどり着けるものがあろうとも思えぬ。ただ一人を抜かせば……。
 ならば今ひとたびまとうではないか。
 終わりのこの場でにおいて、最期の問いの答えをくれるだろう男が、この場に現れるその時をいまや遅しとただ待つ。


 この手を差し出した人間は、生涯ただの二人だけだったろう。
 一番に幸せになって欲しい男と、一番にこの手で幸せにしたい男。
 大切すぎた養い親と、特別すぎた保護者。
 その二人が信長にとっては人であり、この胸に人としての感情をよぎらせる相手でもあった。
 養い親を失い、その失ったことを認められないために狂気に身を落したときも、この左手は保護者の袖を握り締めて離さなかった。
 例え憎んでも、恨んでも、この手がこの保護者の袖を離したならば、なにが残る?
 長い間保護者であった男。保護者であり続け、それ以外にもそれ以上にもなりたがらなかった男。
「いらぬというまで、傍にいよう」
 時に縁側でその男の肩にもたれるようにして身を預けると、男は何を思ったのかそんな幼い時の約束をよく口にした。
 袖を握り締め、手が青くなるほどきつくつかめば、男の手はそっと信長の頬にあてられる。
「此処に居るだろう」
 あの男はどこまでも正しく、どこまでも確かで、そしてどこまでも容赦が無かった。
 確かにあの男がいなければ、この心には何一つ残らない。
 傍に在るか。離れていってはいないか。肩越しに振り向き、必ず確認していたのは自分自身。
 執着と言われようが、愛憎といわれようが、この胸はこの心はあの男がいなければズキリと痛むのだ。
 この茶色がかった瞳は絶えずあの男を追い、男は時たま気まぐれに振り向いて漆黒の瞳を重ねてくる。
 その目が欲しいと望んだ。この自分だけを見つめ続ける目を欲しいと望んだ。他の誰も見ずに、いつどんなときでもこの自分だけをみていよ、と思わずには居られないほど、 その目は、その漆黒は、何一つ感情を宿さず冷めている。
 此処にいるといいながらも、その心は此処にない。
 どれだけの葛藤を抱いただろうか。
 どれだけ、せめてこの男の目に入るだけの存在になりたい、と足掻いただろうか。
 だが信長は知りすぎていた。
 この男が「保護者」の仮面を外したときは、我々の立場が「対等」となる時。
 そのおりは、どれだけこの手を伸ばそうとも、二度と袖すら触れられない間となり、我らは「敵」となる。
 知っていた。
 あの男は、この世に対して執着も一欠片の愛情すら持てぬことを。
 気付いていた。
 あえて、その身を奈落の底に落とした織田家に対して復讐を抱くことで、この世に精神を留めようとしたことも。
 そして生まれながら「復讐」の相手に選ばれた信長は、どれだけ復讐に感謝したか知れない。
 復讐あるゆえに、あの男の漆黒の目は自分に注がれる。
 復讐を遂げるために、あの男は自分の傍におり、自分に両腕を差し出し抱きとめ続けた。
 ……永遠を望み続ける。
 この手は死を得てみなお、あの男の手を離すつもりはない。
「昔、おまえに告げたはずだ」
 我が死すときは、おまえを連れて逝く。
 おまえが死すときは、我が共をしてくれよう。
 互いが互いの道連れだ。決して一人では黄泉路を歩かせはしない。
 自分がいないこの世であの男が生き続けることを許すことができない。あの漆黒の瞳が、自分以外を見つめ続けるなど許せるはずがない。
 そして、あの男がいないこの世に息を吸い続けるのも、無益なこと。心のない人形の如し自分はただ生き続けようと、何一つ得るものは無かろう。
 この手は今、あの男だけを求めている。
「……筆頭よ」
 刀を畳に突き刺し、信長はその左手を真っ直ぐ前に差し出す。
 襖がゆっくりと開かれ、ここが炎の中たることを忘れさせるかのような、ただの羽織袴姿の男が一人目の前に立った。
「遅い」
 男はその象牙の如しきれいな顔に、わずかに冷めた微笑を刻んだ。
「待っていてくれたようだな」
 信長自らが追放した織田家前筆頭家老林通勝が、低く囁いた。
「当然であろう。我は一人では黄泉路は渡らぬ」
 差し出されたままの左手に触れるは、此処が炎の中たることを忘れさせるほどに冷めた手。
 ああ、と懐かしさに心が震えた。
 いついかなる時も冷めたこの男の手が、これほどに恋しいものとは今まで知らなかった。
「死なぬのか、信長殿」
「おまえが死なぬならば、死なぬ」
「死ぬのか」
「おまえが死ぬならば、死す」
 当に予想できただろう答えに、その男はフッとらしく笑った。
「では、行くとするか」
 冷めた手が強く握り締めてくる。
「俺は此処で死すわけにはいかぬ。未だ織田家が奈落の底に堕ちるのを見てはおらぬ」
 復讐の果てを見ねば、何のためにこの退屈なこの世に留まったか知れぬだろう?
 男は抱えていた風呂敷よりなにやら小道具を取り出し、自らは黒の羽織袴であろうに、信長に打ちかけを被せ髷も解かせた。
「日向守とは話はできている。行くぞ」
「何の話だ」
「織田信長は此処で死す」
「そうでなければならぬであろう」
「ただの織田吉法師は、俺とともに行く。それだけだ」
 冷めた手が強引に引っ張り、その漆黒の目は拒まぬことを知りすぎた傲慢の光を宿した。
 やはりこの男はどこまでも正しく、そしてどこまでも自らに容赦がない。
 この本能寺における変事をすべて裏で操った男が、こともあろうに「殺さねばならぬ」織田信長を救い出すか。
 いや、今、この男が握り締めるのは、ただの「吉法師」の手ということか。
 復讐の種を宿し、それに水をやり続けたころの、まだ小さな織田家の主席家老と、世継ぎの若殿。
 いちばんに愛しく、いちばんに還りたいと望み、未来に希望だけを宿した「吉法師」の自分。
「筆頭……」
「どうした」
「おまえがおらねば、我は息を吸うのも厭う」
「知っているよ」
「おまえがおるならば、それでいい」
 どこへなりとも連れて行くといい。
 例えこの本殿より抜け出た瞬間、明智の兵に弓、鉄砲を向けられようとも、
 例え、この本殿より抜け出し、新たな道を歩くことが適おうとも、
 この手と手が結び合っているならば、それ以上は何一つ必要がない。
 必要なことはこの目がこの男の目を捕らえていることだ。
「この終わりは早かったのか、遅かったのか」
 胸にある疑問はそれだけだ。
「そのようなこと考えなくともいい。思うはこれから、だ。今までは霧散させて良いのだよ」
 炎に包まれ、煙が充満する本殿。
 部屋から出れば、襖にもたれるようにして森乱丸の未だに幼さが残る顔があった。
「お乱」
 名を呼ぶと、わずかだが瞳が開いたかのように思えたが、それは錯覚だったか。
 頬に触れようとも、ピクリとも動かず、ぬくもりは残ろうとも命の灯火にすでに残りはない。
 その男が羽織を乱丸に被せ、信長の口元にひとつの布を突きつけ、「行くぞ」と手を引く。
 炎の中においても、まるで熱さを感じさせぬこの男の横顔は、
 この男ともう一度共に在ることができる先を、わずかだが信長に信じさせた。

 遠き昔、一方的に突きつけた約束。
 生も死も共に。
 それが今、現実になろうとしている。
 ……おまえが生きるならば、我も生きよう。
 おまえが死すならば、我も死す。
 ただそれだけの容易で、最も困難な約束。
 こんな約束の実現に、数十年の月日を必要とするとは思いもしなかった。
 そしてかなえられようとは、思ってもいなかったのかもしれない。
 京都洛外より見つめる本能寺は、日が昇る時刻まで焼け続け、そして塵となって消えた。
 並んでその光景を見据えながらも、その手はかたく握り合ったまま、離されることはない。
 二人の新たな時代は、今、本能寺より始まる。

夏の月外伝 安土編-本能寺-

夏の月外伝 安土編-本能寺-

  • 【初出】 2007年6月2日
  • 【修正版】 2012年12月02日(日)
  • 【備考】