夏の月短編集8

十五


「お方さま」
 その名を苦々しく受け止め振り返った濃姫は、その場に親しき相手の顔を見いだし、にこりと笑った。
「お珍しいこと。どうしました五郎左殿」
 およそ少年のころより知っているその男は、ゆっくりと濃姫の傍に寄ってくる。
 ゆっくりの歩調は、先の戦で傷ついた足が原因だ。
 今は安土城の普請奉行として激務にある男が、このような奥に姿を現すのは珍しいことだ。
「お方さま。岐阜に戻られるそうで」
 立ち話はこの奥ではどんな噂が立つか知れない。
 しかも相手は織田家四天王の一人たる丹羽長秀である。もう二十年来の付き合いといえど、今では容易な立ち話も気遣う。
 侍女に茶を運ぶように頼み、風通しの良い部屋に丹羽を案内する。
「この安土は華やか過ぎて好みませんの。やはり濃は、生まれ育った岐阜の地が住みやすくて」
「それを御屋形さまに直に申されないのですか」
「これは異なことをおっしゃいますのね。この濃のもとに姿すら現わさない主殿には、言いたくても言えませんのよ」
「お方さま」
「ただの正妻。子供も産めぬただの……古女房。もう何の役にも立たぬ女に、信長殿は興味はございませんの」
 これは自嘲でも嫌味でもなく、濃姫の本音だった。
 美濃の領主斎藤山城守……通称マムシの道三の娘として生を受け、十四歳で織田信長の正室となるべく尾張に嫁いだ。
 以来、「大うつけ」と名高い夫の奇行を手を打って笑い、時にからかいながら生きてきたが、
 残念なことに濃姫は流産して以来子どもを得ることができず、信長の妾たちが生んだ子たちを手元に引き取り慈しんで育てたが、その子たちも育っていった。
 信長と言えば相変わらず好き勝手に、天魔のごとく空を駆け、地を蹴り、どこかに飛んでいくばかり。
 振り返ることを知らぬ信長は、その妻がどのような心境にあるのかなど気にも留めない。
 昔からそうだった。
 信長が心に止める人間はただ一人で、その人が去ってからは、心は硝子のように粉々に砕けた。
 心に「迷い」が何一つなくなり、情をも斬って捨て、ただ天魔のごとく前に前へと進み、この世を焼きつくそうとしている。
「安土城完成の際は、類を見ないこの壮大な城を……その天主をその目で見ていただきたく存じます」
「五郎左殿。主殿は……この城を見せたいと思う人がいるならば、ただ一人でございましょう」
「………」
「その方は、都で楽師の君など称されて気ままに生きているようですけど……。主殿は……どうされるおつもりですの」
「私には何も申されません」
「諦めるはずがない。心を壊すほど狂うほど大切だった人ですから。主殿は昔から変わらぬのかもしれませんね、変わらずに求めて、変わらずに……愛して」
「お方さま」
「その人は思いのために主殿を見限り、けれど……敵になろうとも主殿はその手を伸ばし続けるでしょうね。楽師の君。どうやって手に入れるのかしら」
「御屋形さまは、筆頭殿がお傍にいないと……人でなくなります」
「そうですとも。昔から……そうでした」
「本当に大切な人は、それこそ縛ってでも止め置かねばいけませんでしたのよ。主殿はもう……人を人とは決して見ません。誰の死体を見ても同じ。 そんな主殿にしたあの方を濃は……憎いとは思いません」
「不思議なことにこの五郎左も、憎いとは思えません。ただ文句を言いたい。楽師の君などしておらず、御屋形さまをどうにか……」
「濃も言いたいですが、岐阜に戻ります。もうこれ以上悪鬼たる主殿は見たくない。狂えるほどに狂って、こわれて、それはあの方に……終わりを突きつけるために」
「………」
「もう見たくないのです。あんな主殿はごめんです。通勝さまが去った時に、濃も一緒に去りたかった」
 されど一人、その人の背中をどこまでも見続けている信長の目が、あまりに無で透き通るほどの無が……哀しみを誘った。
 もうこの人には誰もいない。
 およそ七歳の時から、付かず離れす傍にあった人を手放した信長。
 濃姫は知っている。いつもその手は欠かさずその人に向けられ、不安に凝り固まるとその人の袖を握り締めて、哀しき時はその人の傍らで眠っていた。
 それは年を重ねるとも同様で、人は慣れやら癖やらと称しながらも、濃姫に言わせれば、その人が好きで、好きで、たまらないほどに好きゆえに傍に置く。
 ただ、それだけだったのだろう。
「人として生かす最期の手札を持った人が、あえてその手札を捨てたのです。あとは終幕は濃には関わり知らぬこと。岐阜の地で、静かに過ごしますわ」
 生まれ育った地には、父の時代を知る側近たちも数多くいる。
 なによりも改築はされているがその城は、濃姫の幼いころが染みついた……それは思い出の場所。
「五郎左殿もお忘れなきことを。鬼に心をつくせぬ時は、そう……岐阜にまいられませ」
「私くらいはどこまでも、御屋形の傍におります」
「こわれつくして狂った鬼でも?」
「えぇ。こうなれば一蓮托生。どこまでも……でございます。この五郎左も十五歳で御屋形と筆頭殿に仕えました。もういまさら、人生は代えられません」
「……五郎左殿」
「今は楽師の君と御屋形を再会させることがすべて。私はその一手で、御屋形の心に希望がよぎることを願っています」
 丹羽という男は思慮深い男だが、最期の最期で楽観的に物事が見れる。そこが濃姫との違いだった。
 もはや絶望しか見いだすことができぬ濃姫と比較し、未だに最期の望みを捨てはしない。
 鬼たる信長を人に戻す一手を。
 それができる人はこの世にただ一人しかいない。
「ご武運を五郎左殿。濃は岐阜の城で、いつも……思っておりまする」
「お方さま」
「奇跡と宿命はどちらが勝るのでしょう。人の心にある愛情と憎悪はどちらが上回りましょう。それを探して……濃も生きてまいります」
 安土城の天主が完成する間近、濃姫は安土を去り岐阜に戻る。
 それは信長の異に逆らう行為であり、濃姫自身も信長への一種の警告の意味を持っての立ち退きとも言えた。
 信長は何も言わぬ。
 ただ天主よりその先に見ゆる琵琶湖を眺めて、なにひとつ感情を灯しはしない。
 丹羽の知っている信長は、確かにただ一人以外に興味はないが、それでも人の心を持っていた。情と言うものを忘却することはなかったのだ。
「御屋形さま。お会いになりたいですか……筆頭殿に」
 その背中は完全に世俗を無視している。
 もはや公的なこと以外は、信長は何一つ興味を持たず、言葉も発しはしない。
「この五郎左がお合わせ致します。必ずや……」
 都に名高いかの楽師の君に。
 ただ一人、信長がその心に入れたその人を……。


夏の月短編集8

夏の月短編集8

  • 【初出】 2012年1月15日
  • 【修正版】 2012年12月8日(土)
  • 【備考】 短編十五収録。