花波 ― 家康と瀬名 ―

序章

 駿府の地に梅が優雅に薫るそれは正月の年賀の初め。
 宴の末席に座すは、駿河の太守今川義元の人質としてこの地を訪れた松平竹千代、八歳。
 領地三河の岡崎城より駿河に向けて立ったは六歳の秋だった。
 途中田原で捉えられ、駿河に向かうはずだった竹千代は、敵対する尾張の豪族織田信秀に売り渡された。
 竹千代の命をもって今川との縁を切り、織田に随行するようもとめた信秀の話を、
 竹千代の父松平広忠は、その場で断った。
 例え嫡子の命を奪われようとも、仇敵織田への随行は拒み、
 今川の「縁」に縋り、多大な恩を「借り」ようとも、織田に奪われた旧城安祥城奪還に執念を燃やした広忠も、家臣に村正で斬られ死した。
「竹千代。ここに参られよ」
 今、今川義元という男のお歯黒に彩られた歯を見ながら、この人は武者ではない、と竹千代は思った。
 わずか数ヶ月前まで尾張に捕らわれ、熱田の加藤家の館で小姓たちとひもじい思いをしつつ暮らした日日が頭によぎる。
 少量しか与えられぬ食に苦心し、腹が空くという人間の摂理と、食に対する浅ましいほどの貪欲さに竹千代は笑いたくなったものだ。
 それでもまだ道理と情をわきまえられたのは、岡崎より一緒についてきた小姓たちが居たから、だ。
 みな、あの田原で捕らえられたときも、十に満たないものばかりだというのに、必死に竹千代を守ろうと身を取り囲み、短刀を敵に突き刺した。
 あの時に知った。この身は一つではない。思った。一人ではない、と。
「御所さま。松平竹千代にございます。新年賀詞たてまつります」
 頭を下げ、諸侯の好奇と嘲りに似た笑いを身体全身で受けつつ、
 この駿府の空気は一見おだやかで優雅に見えて、実は生臭い匂いが漂っている、と心で呟く。
「年若くしてしっかりしているのう。よいよい。この駿河でよい武将にしてつかわそう」
「ありがたき幸せ」
 どのようなことにも「ありがたき」といわねばならない人質の身。
 これより目立たず、息を殺して、ひっそり質実に生きていかねばならないと老臣たちに叩き込まれてこの駿河の地に足を踏み入れた。
 もしも目立てば、それだけで岡崎の老臣たちの苦労が増える。
 領内の年貢の大部分を本丸を占拠している今川勢に奪われている我が岡崎の臣。自分ができるのはひっそりと生き、彼らに金の苦労などをさせぬことだ。
 ただでさえ今川の先方として使われ、戦のあるごとに馴染みの顔が消えていく壮絶な日日を生き抜いてくれている。
 八歳の名ばかりの岡崎城主竹千代は、もはや子どもであることが許されなかった。人質の苦労は真っ直ぐな子どもを老成させるには十分だった。
「……頭ばかりを下げていては、お顔が見えませんことよ」
 その時、傍らよりしっとりとした声が聞こえてきた。
 ハッとして思わず頭を上げそうになり、慌てて身を抑える。
「織田家に捕らわれ、無事に生き延びた運強い男(おのこ) この瀬名はお顔がはようみたいと楽しみにしておりましたの」
 腐臭の匂いが漂う中に、ただ一陣。柔らかに香り立つ梅の香りのような。
 鈴のような音色。からかい口調だというのに、声音に潜むやさしさと艶やかさを感じられて。
 ここより逃げ出したいという思いが消え失せた。
「竹千代。顔をあげよ」
「はい」
 ゆっくりと「恐れ多い」と言うかのように顔をあげると、また小さな笑い声が聞こえてくる。
「子どもは子どものままの方がよくてよ」
 その時、傍らを振り向くと、その少女はニコッと竹千代に笑った。
 美しく手入れさせた黒髪。華やかな着物に、手に持っている扇は趣向が実にこっている。
 竹千代が思わず息を飲むそれは完璧な「お姫様」だった。
「竹千代。そのものはこの義元が姪。そなたの世話役となる関口親永の娘瀬名姫という」
 にこにことどこまでも楽しげに笑うその少女瀬名より、目が離せず、
 義元の声を耳半分で聞きながら、目はチラリチラリと視線は動かさずに瀬名に向けてばかりいた。



 今川の人質となり駿河に暮らすようになり数年。今日も竹千代は瀬名姫に蜜柑の皮を剥いてあげている。
 竹千代は十歳。岡崎の領地に一度として戻ることも許されず、この駿河の地に留め置かれ、日日勉学に勤しんでいる。
 駿府臨済寺の高僧にして義元の軍師雪斎長老に教えを受け、またお付側小姓と日日鍛錬し武術の方にも力を入れているのだが。
「それで尾張の大うつけどのは、竹千代さまに馬を下されたの」
 瀬名は竹千代が剥いた蜜柑をはむはむと食べている。
「一頭くだされた。黒毛のよい馬だったよ、姫」
「気前がよろしいのね。今川の叔父さまなら、馬は下されないわ。同じように所領も取り上げて返してくださらないと一大事ですね」
「縁起でもないことをいうね」
「ほんとうのことでしょう」
 クスクスと笑いつつ立ち上がった瀬名姫は、コチラは竹千代のために蜜柑の皮を剥いている平岩七之助の背中に引っ付いた。
「七之助。姫にも蜜柑を剥いて」
「若君が剥いておられる」
 十四歳の七之助は無表情で、ひたすら蜜柑の皮を剥いている。
「七之助に剥いて欲しいの」
「私は若君のためにしか剥かぬ」
 離れてください、といささか素っ気無い七之助に、瀬名姫は少しだけふくれっ面となった。
 室町幕府の名高き補佐今川貞世の血を引く今川一門関口親永の娘にして、その母は駿遠三の太守今川義元の妹という血筋の瀬名姫は、駿府御所では一番のはねっかえりのじゃじゃ馬姫で、雅な都風を尊ぶ義元の頭痛の種となっている。また、風変わりという名そのままに松平竹千代の人質館に足しげく通っては、こうして一日中なにやら雑談を楽しんで過ごすのだ。
「姫、竹千代が剥いてあげるよ」
 と、自分は一切食べずに蜜柑の皮を剥く竹千代は、七之助の背中に寄りかかって蜜柑を見ている瀬名に少しだけズキリと胸が痛む。
「瀬名姫。若君に悋気を持たせる方策に七之助を使わないでいただきたい」
「そんなことはないよ。姫は七之助が好きですもの。美少年で頭も切れて馬の手綱さばきも優雅」
「それでも若君がよいのでしょう」
 瀬名姫は少しだけ頬を赤らめたが、すぐに竹千代の側に戻り、手を差し出す。
「蜜柑をくださいな」
「いいよ。竹千代は姫のために蜜柑を剥いてあげるから」
「それはずっと?」
「ずっとだよ」
「姫以外のために剥いたら嫌よ」
「もちろん」
 ニコッと笑い、竹千代はせっせと蜜柑の皮を剥く。
「蜜柑も桃も葡萄も林檎の皮も剥いてあげるよ。姫は不器用だから刃物なんか持たしたら大変だしね」
「……不器用?」
「小刀一つ満足につかえないし」
「若君!」
 七之助の制止の声は虚しく響くだけで、竹千代が顔をあげたときには瀬名姫はスクッと立ち上がっていた。
「竹千代さまなんて大キライ。どうせ姫は何一つ満足にできない不器用な姫ですこと……」
 小袖の裾が衣擦れの音で響く。
 あっ……と竹千代が手を差し出したときには、すでに瀬名姫は部屋を出て行ってしまった。
「……不器用だけどいつも一生懸命だって言おうと思ったのにな」
「若君」
 七之助はポンポンと竹千代の肩を叩き、淡々とした口ぶりで告げる。
「口は災いのもとです」
「知っているよ、そんなこと」
 そして七之助が剥いた蜜柑をやけ食いのように食べる竹千代に、七之助が茶を入れてやるのもいつものこと。
 この二人の幼いちいさな恋を、こうして見守るのが七之助の役割となっている。


「今、瀬名姫が突風のように駆けていきましたね」
 いつも人の良いニコニコ顔をした穏やかな酒井忠次が、ひょいと顔を出す。
「また若君。やりあったのですか」
「言うな。……ついつい言ってしまったというか……」
「若君」
 にこりとさらに人の良い顔をした忠次は、竹千代の身体をひょいと抱きとめ、その耳元に囁く。
「あのようなじゃじゃ馬ではなく、若君には三河の大人しくやさしい娘がお似合いですよ」
「忠次殿」
「ご命令とあらば忠次、三河に立ち戻り若君お似合いの一門の姫君を探して参りますが」
 七之助はついつい頭を抱えた。
 これもいつものこと。石川家と並ぶ三河松平衆最古参の重臣酒井家の跡継ぎたる忠次は、今川家一門の瀬名姫を全く快く思っては居ない。
 ことあるごとに竹千代と瀬名姫の間柄を裂こうとするのも、竹千代の将来を思ってのこと。いずれは松平家の当主となる竹千代には、今川一門の姫瀬名は重荷だと切れすぎる頭は判じている。
「竹千代は瀬名姫がよいのだよ」
 変わらぬ竹千代の答えに、ここで押さず引くところも忠次の心得の一つ。少し短気で熱しやすいところがある竹千代には押しは愚の愚であった。
「信長殿と遊んだときの話しをしてあげるはずだったのにな」
「心配されることはない、若君。姫は必ず明日も顔を出す」
「……嫌われたかな。今日の姫は怒っていたし」
「大丈夫だ」
 七之助は何一つ変わらぬ無表情の中で、竹千代の肩を叩いて励ました。
「いつも最期はこうなり、そして次の日は何食わぬ顔をして顔を出すのだあの姫は。よほどのことがない限り顔を出す」
「若君が他の女子にお心を移したならば、来ないでしょうね」
 竹千代より十六歳年上の忠次は、肩書きこそ側小姓だが、岡崎より駿府に旅立つ際に「お傅役」という役割を言い渡されている。
 竹千代を養育し、立派な三河の武辺ものに成長させる役割を担っているのだが、この切れすぎる「剃刀」の如し男は、竹千代を決して甘やかさずに自他ともに厳しい。
「忠次殿。あなた様はそういう性格ですから、女の一人も寄ってこないのだ」
「なにを言いますか七之助。女子が近寄ってこぬのではありません。私が近寄らせないのです。お間違いなきように」
 それなりに好青年であるが、武者としては体つきはほっそりとし、体力仕事よりも頭を動かす方が似合う酒井忠次には、いまだに縁談話は何一つ舞い込まない。二十六歳という今が盛りの年齢にしては、いささかわびしいこととも言える。
「爺が手紙で言っていたぞ。あまりに女運がないから……爺が勝手に縁談を決めるそうだ」
 忠次の父酒井忠親は、家老として岡崎の城を守っている宿老中の宿老でもある。
 そろそろ老臣ということもあり孫のことを考えるらしく、一刻も早く忠次にはよき嫁を、と考えているようだ。
「余計なお世話です。私が本気になれば女のひとりや二人……」
「若君……若君!」
 そこに今まで竹刀を振るっていたらしい鳥居鶴之助が飛び込んできた。
「ひ……姫が、此処に来たおりの輿ではなく、馬に乗って帰って……」
「馬!」
 竹千代は驚いてすぐさま飛び出していった。
「三国の太守今川義元の姪。見事な三国に鳴り響く姫君でございますな」
「忠次殿。それよりも……馬に乗れる姫など、おそらく丈夫なお子をお産みになる。嫁としては喜ばしい」
「お子……。万が一にもお二人が結ばれ、もしも姫が誕生したならば……当代一のじゃじゃ馬二世。先行きが危ぶまれることです」
「忠次殿も七之助も何を悠々と。姫の後は徳千代と又五郎殿に追わせましたが……姫は姫は馬を乗りこなしているわけではなく、 たんにすがり付いているだけなんですぞ」
 岡崎の老臣鳥居忠吉の三男鶴之助は、その美丈夫な身体を小刻みに震わせ、思いっきり重い息を吐いた。
 この時、ようやく事の次第を知った二人だが、七之助は茶を三人分いれ、差し出された茶を忠次はのほほんと飲む。
「今更追いかけても、なるようにしかなりませんね」
 美味しい茶です、と忠次はわずかに微笑み、
「怪我などないことを祈るばかりだ」
 七之助は茶を鶴之助に差し出すが、その鶴之助。拳を握り締めてふるふると震えた。
「二人とも! 義元公の姪に怪我でもされたら……若君がどのようなことに」
「惚れた姫の怪我くらいどうともできねば、若君もまだまだということだ」
 とは七之助。
「怪我をおい、嫁にいけぬ顔になれば万々歳でございますよ。怪我を負わせただけで、戦の先方ともいえる岡崎の世継ぎ竹千代君を如何様に処罰できましょうかな。……じゃじゃ馬姫には怪我がお灸です」
 この二人……と鶴之助は思うが、駆けて行った竹千代も気になることもあり、身を翻した。
「鶴之助殿。若君をよしなに」
「若君には怪我を負わせてはいけませんよ」
 鶴之助はさらに拳を握り締め、慌しい乱雑な足音を立てて竹千代を追っていった。
「静かですね、七之助殿」
「……えぇ。いつもこうであればよろしいのだが」
 この松平家の逗留館より半里もいかぬところでは、大騒ぎとなっているということを、この二人は無視してのほほんと茶を飲んでいる。



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花波― 家康と瀬名 ― 序

  • 【初出】 2008年3月16日
  • 【修正版】 2012年12月1日(土)
  • 【備考】 現在1章まで。休止中。