憎しみとかつての余韻の愛情




「ねね殿」
 その名で呼ばれるとドキリと胸が跳ねたのは、もう遠き昔のこと。
「ねね殿や。今日はわしの耳の掃除をしてくだされや」
「お断りいたします」
 ねねは冷ややかな笑みをその顔面に刻み、夫たる天下人豊臣秀吉を見据えた。
「そのようなことご側室殿のどなたかにしていただきなさいませ。名だけの古女房たる私など、北政所の名とともにただ飾っておけばよろしいのです」
 スッと差し伸ばされるその手を振り払い続けて何十年になるだろう。
「おまえさま」
 まだ初な少女のころ、ひょんなことから出会ったこの男と何の因果か結婚となったあの日から。
 何一つ変わらぬのは、このねねが夫を呼ぶ「おまえさま」という呼び名だけではなかろうか。
「なんじゃ、おかか」
 そして返されるのは「女房」の意味を込めたこの「おかか」という呼び名。
 時折、ねねは無性に笑いたくなる。
 この自分を縛るのもこの呼び名。自分にあえて夫を縛り付けているのも呼び名。
 心も通い合わず、あるべき場所とてほとんど別々の夫婦が、今なお夫婦と人が呼ぶならば、全てはこの呼び名の戒めとしかいえない。
「はよう淀のお方のところでも、松の丸殿の部屋にでもお渡りなさいませ。ねねはもう休みたいのでございます」
「良いぞ。わしは今宵はおかかと共に休もうとおもうてな」
「ご遠慮申し上げます」
 素っ気無く囁きながら、ねねはその切れ長の瞳に「おぞましい」という感情を乗せ、夫を睨み据えた。
 その場の空気が、初秋とは思えぬほどに冷え込んでいく。
 他のものがおるならば、ねねは幾分は「仲の良い」振りをするが、夫と二人きりならばそんな演技も必要ない。
 心の思いそのままに冷たく見据えることができる。
 心の憎悪そのままに、罵ることもできよう。
「ねね殿や」
「その名で二度とお呼びにならないでください」
 あの少女時代を思い出させる呼び名を、この夫の声で呼ばれるとイライラする。
「そなたの名はねね。わしがおかかの名を呼んで何がわるい?」
「おかか……おかか。その呼び名一つのために……私は今もこうしておまえさまに縛られて身動きもとれない」
「おかかがわしの女房たることは、死ぬまで変わらぬぞ」
「随分も前に本気で縁切り寺に走った妻を、体面からいまだに正室としておられる関白のおまえさま」
「……体面などではない」
「では世間体? これで五千二百三十二度目となりますが、離別してくださいませ」
「却下」
 何一つ期待していなかったため、却下の一言もねねには何の痛みにもならない。
「では尼寺に入ることをお許しを」
「それも却下だ」
「おまえさまは卑怯じゃ」
「わしに言わせれば、ねね殿の方がどれだけ卑怯か知れぬぞ。わしはわしは……どれだけねね殿を思うておるか。そのわしの気持を無碍にするばかりか、離別や尼やら。わしは生涯妻はねね殿だけと誓ったではない」
「どの面下げて言われますのか」
 ……わしは生涯ねね殿だけが傍におればそれでいい。
 いつかわしが出世し、天までのぼって、ねね殿に良い暮らしをさせてやる。
 ねね殿がいつも笑って、良いものを着て、良いものを食べて暮らすのが、わしの一番の願いじゃ。
 新婚のころ、貧乏長屋の片隅で、毎日毎日夫は同じ言葉を繰り返した。
 ……ねね殿、ねね殿や。
 ねねの膝を枕にして、いつも何が嬉しいのか笑顔のまま、そっとねねの髪に触れて愛しげに撫ぜる。
 ……わしはねね殿が好きだ。
 繰り返される甘い響き。甘えてくる夫が可愛くて、ねねはよくその頬に手をあててゆっくりと撫ぜた。
 新婚の日日はただ甘く、どれほどの貧乏に苦しんだか知れぬのに、今となっては「うたかたの夢」に等しい。
 今となっては変わってしまったもの。
 あの頃のねねは、確かにこの夫を……愛していた。
『生涯、ねね殿だけじゃ』
 あの繰り返された一言がなければ、まだ許せただろう。
 小指を絡めてあの一言がなければ、どれだけねねは楽だったか知れない。
 初めて恋した相手を、「おまえさま」と生涯ただ一人を呼び続けると誓った相手を、
 なにゆえに、これほどまでの憎悪を抱かねばならなかったのか。
「……ねね」
「まだおかかの方がよろしい。名前はお呼びなさいまするな」
「姉さまたちは未だにねねさぁではないか」
「お義母さま。ともさま、旭殿たちはおまえさまとは別です」
「同じ血がつながっている身内には違いなかろう」
「まったく別でございます」
 キッとねねは睨みすえ、その場にスッと立ち上がった。
「あの方たちとおまえさまに同じ血が流れているとは思えませぬ」
 ねねは姑たる大政所たるなかとも、夫の姉である「とも」、妹である旭。弟である秀長とも実の姉弟のように仲が良い。
 みな「姉さま」「ねねさぁ」と慕ってくれる。姑も娘同様に可愛がってくれるため、血の繋がった家族同様の思いを抱いていた。
 その思いの中に夫たる……関白豊臣秀吉は微塵もない。
「ねね」
 去りかけたねねの小袖の袖を握り締め、
「ねねよ」
 小さく囁くようなその声音に、肩越しでも振り向く優しさを一切ねねは持たない。
「おまえさまがこの大坂城におられるならば、私は聚楽第に参ります」
「別居はそろそろよそう」
「私がいなければ、若い側室の皆さまと羽を伸ばせましょう。どうぞ、お好きに」
「ねね……ねね殿」
 寂しげなその声に引っかかってやるほど、この夫と過ごした月日は短くはない。
「……それとも、また違う女子がほしゅうございますか。そういえば孝蔵主殿の姪殿はとても美しく……」
「ねね!」
 驚くほどに強い声音で、強引に夫の手がねねの手を掴んで、握り締める。
「長浜よりおかかはどうしてわしに女ばかりを勧める? 自分はわしと同じ蒲団に入るのを拒んで……なぜじゃ」
「それは何度も申しました」
 もう一度申し上げましょうか。
 冷え切った心そのままに、ねねは夫の手を強引に振り払い、醒めた目のまま今宵も告げる。
「おまえさまがこの世で一番……好きだからでございまいよ」
 それは根も葉もない言葉ではない。
 ねねは夫を憎んで憎んで呪いつくすほどに憎んで……心の片隅でかつての「愛」の余韻を大切に抱いている。
 愛憎とは裏表。憎みつくせる理由は、それほどに心に愛をいだいていた所以であろう。
 だからねねは、情け容赦のない憎悪をぶつけながらも、この夫を徹底して無視することだけはしない。
「憎まれて憎まれて……それでもいうのじゃな、ねね」
「えぇ。おまえさま」
「もう……どれだけ待っただろうな。いつになれば、昔のようにねねは笑ってくれようか。いつになれば……わしを許すのじゃろうか」
 答えず、今度こそねねは部屋を後にするために歩き出す。
「好きじゃて、ねねよ」
「………」
「わしにはいついかなる時も、おかかだけじゃ」
 せつなる声もねねは軽く流し、衣擦れの音だけを響かせて、一歩一歩夫から離れていく。
 憎しみだけならば、楽だった。
 愛情だけを抱き、ただ夫の光だけを見ていられる女ならば、幸せだった。
 ふと濡れ縁に立ち止り、地上をやんわりと照らす三日月を見上げ、
 今宵の月の冷たさ同様の笑みをその口元に浮かべた。
「憎んで憎んでまた憎んで……」
 憎みすぎて、憎むことに飽きたとき、ねねは復讐を誓った。
 もう随分昔のこと。
 復讐の相手たる夫は、この心に気付いているのか気付いていないのか。
 胸に復讐を飼ったあの日から、ねねの夫に向ける目は何一つ変わりはしない。
 憎んで、憎んで……一握の愛の余韻を心で楽しんで。
 今も夫を「おまえさま」と呼び続けるこの心の矛盾。
「ねねは……おまえさまがこの世でいちばん憎うございますよ」
 クスクスと小さく笑ってねねは自らの部屋に向かって歩を進めていく。


憎しみとかつての余韻の愛情

憎しみとかつての余韻の愛情

  • 完結
  • 連載予定
  • 【初出】 2008年6月17日
  • 【修正版】 2012年12月1日(土)
  • 【備考】