風誘う時




「俺のためだけに美しくなれ」
 そんな台詞をサラリと流す許婚が、お玉はとても好きだった。
 幼いときからの仲のよい幼馴染で、子供から少女になるころに「許婚」と定められた。織田の御屋方の媒酌のもと華燭の典をあげたときは共に十六歳。少し悋気持ちだが、それでも精一杯自分を愛してくれる夫忠興をお玉は一途に慕っていた。
「お方さま。潔く自害を」
 お玉はゆっくりと首を横に振る。
「ここで死せば父には孝となりましょうが、夫の許しなく死せば三従に反することになります」
「お殿様は、忠興殿は織田家に対する忠義のためにお方さまを幽閉された方ですよ。しかも、このように厳重なまでの見張りまで」
「……それは致し方なきこと」
 言葉では淡々と口にしつつも、お玉の胸の中は激しく揺らいでいた。
 一年前のあの日……天正十年六月二日。
 すべてはあの日に運命という歯車は大きく動き出してしまった。
「お方さま」
 お玉は静かに目を閉じ、ゆるりと目前に面影を浮かばせる。
 お玉の父は明智日向守光秀といった。織田家一の知将と呼ばれ、礼儀を重んじ古風を尊ぶ人といわれる。世間の評判はさることながら、お玉にとっては理想の父といえた。戦国の世の武将としては珍しく、父はただ一人母だけを愛し、その他の女性に目を向けることはない。子供たちにも頼もしく、優しく、温かい父。お玉は長き間「夫とするなら父のような人」と心に決めていた。
 自分だけを見てくれる人がいい。
 父が母ひろ子を思い続けたように、ただ一人だけを思ってくれる人がいい。その人に自分は精一杯の愛情を注ぎ続けるだろう。
 その父があの日、主君右大臣織田信長公に謀反を起こしたのだった。
 京本能寺にてわずかな供回りのみで宿泊する信長公を軍勢一万で襲い、ついには信長公を自害せしめた。
 そして父は朝廷に赴き、天下に号令をした。その父が頼りにしたのは丹後の領土を有する細川藤孝、忠興親子。娘お玉の夫であった。
(殿……)
 お玉は父の加勢をして下さるよう、誠心誠意縋った。
 だが藤孝、忠興は「右府さまへの大恩に抗うことできず」と口にし、京都に赴き髻を切って織田家への忠義に二言なきことを誓ったのである。
 明智光秀も友藤孝、または娘の夫と見込み忠興を当てにしすぎたところはあったかもしれない。
 されど細川家の時局を見る目は確かだった。
『父上に加勢くださらず、右府信長公を討ちたもうた父を謀反人とするならば、このお玉は謀反人が子。この場で討ち果たして織田家への忠義となさいませ。それが一番の証となりましょう』
 忠興にそう短刀を差し出して迫ったお玉に、忠興はそっと両腕を差し出した。
『お玉』
 忠興の両腕は短刀もろともお玉の体を抱きしめた。
『そちは俺の宝だ。誰が殺せよう。しかも、身重の体だ。我が身は大切にいたせ』
『殿!』
『これが戦国の習いだ。どれだけこの忠興がそちを大切に思おうと、大義にはそむけぬ。非情と謗るならば謗れ。憎むならば憎め』
 それを最後に忠興はお玉に顔を見せることはなかった。
 領内の味土野の城にお玉は幽閉され、二人の我が子とも引き離されたのだった。
 あれから一年の月日が過ぎた。
 この地で生まれた次男には名もつけられず、それでも父の生まれ変わりと信じ我が手で慈しんでいたその子も忠興は無情にも奪った。
『お方さまはいつも優しく微笑まれて。つらくはないのですか』
 そう尋ねられても、お玉は人形のように微笑むばかり。
 だが心の中ではどれだけ葛藤と愛憎に満ちているか誰も知るまい。
 人はお玉を清楚なる婦人の鏡と称えるが、お玉の心の中身を知らぬからそういえるのだ。
(忠興さま……この玉は貴方を誰よりも愛し、誰よりも憎みまする)
 幼い頃から忠興を見てきた。父光秀にその人柄や才幹、風流を好む性格を愛され可愛がられてきた忠興。それなのに、大義の前には私的な感情は封じるもの、と態度で示した。
 お玉は幽閉の身にある自分を嘆きはしない。
 矛盾はするがこれも戦国の習いと割り切れる。
 だが夫に対する感情は別儀であり、愛憎の葛藤に苦しむお玉にさらなる追い討ちをかける報せが届いたのだ。
 忠興に寵愛の側室がいる、と。
『俺のためだけに美しくなれ……俺以外の男を生涯見るな。その代わり俺はお玉だけを慈しもう』
 その誓約さえも、夫は反故にした。
(許さない……許せない)
 長い間願ったのは、ただ父光秀のようにただ一人を思う人を夫にと願ってきた。忠興は父のように、他の戦国の武将とは違い側室を持たず、自分だけを見ていてくれると思っていた。
 こうまで心がもろく……人の絆とは無残に途切れるものなのか。
(私は父上が子ということを誇りに思っています。ゆえに自害はいたしませぬ。されど……生ある限りこの愛憎の葛藤に苦しむことでしょう)
 胸が張り裂けそうなほど痛い。
 いっそ憎しみだけ抱ければどれだけ楽だろうか。
 この身の歳月の、忠興への愛情が消えてしまえば、どれだけ楽だろうか。
「この世とは無常なもの。戦国の世ではよくあること。誰も恨まず、ここで静かに暮らしていければよいのです」
 お玉はこの味土野の地に幽閉されて以来、自我を表に出すことをしなくなった。
 ただ毎日穏やかに微笑みつづける。
 誰にもこの胸の中にある思いを晒しはしない。いつまでも「忠興の貞淑なる妻」を演じ続けよう。忠興その人にも心を与えず、感情を表に出しはしない。それが忠興に対するお玉の愛憎の形ともいえた。


 本能寺の変より二年後。羽柴秀吉のとりなしで、お玉は大阪玉造の細川邸に迎えられた。
「お玉」
 忠興は優しく微笑んで、宝物のようにお玉の体を抱いた。
 二十代前半のお玉は少女の可憐さから、女性としてのしなやかな咲き開いた花のように美しく、そのことが忠興には一番の喜びであり、一番の心配だった。
「殿にはご機嫌麗しく」
 と、優しく優雅に微笑むお玉に、ふと何か違和感を忠興は感じる。
 才媛の美しき妻が何よりもの自慢だったが、かの本能寺にて明智光秀の謀反という未曾有の出来事がおき、光秀の娘たるお玉を世間体もあり遠ざけたが、忠興のお玉に対する思いは何一つ変わってはいない。この二年、どれだけお玉のことを思ってきただろう。
 細川家のため、と思い会わずにきた。
 いずれは誰かがとりなしてくれる、と心の中で願い別離を耐えてきたのだが。
 そして天下人たる秀吉自らのとりなしでようやく家に戻すことができた妻。
「お玉……どうしたんだい。どうして、そんな風に笑うのか」
「殿にお会いできてうれしゅうございます」
 何一つ表情を崩さず、まるで決められた言葉を繰り返すように抑揚のない声。
「……お玉」
「はい?」
 二年の別離があろうとも、お玉は変わるまい、と信じていた忠興だった。
(これでは人形ではないか)
 その体を強く抱きしめようとも、強引に体を開かせ愛撫を続けようとも、また苛立ちのあまりその体に手を上げようともお玉の反応は何も変わらない。ただ穏やかに微笑み、その口は一度たりとも感情を声にしようとはしなかった。
 どれだけ憎しみの言葉を突きつけられた方が楽か。
 どれだけ形相険しく罵られた方がいいか。
 これでは、忠興には手の打ちようがない。
 忠興のお玉の愛情はさらに強まり、それは一種の異常なる妄執となっていった。決して心を明かさぬ妻を、幽閉同様に屋敷に閉じ込め誰一人として男子の目に触れぬようにしてしまったのだ。
 もともと女性に対しての悋気は人よりも激しい忠興だが、その激しさをお玉の「人形の如し」態度が火に油を注いだのである。
「俺だけを見ていればいい」
 人形を抱くのと同じだ、とため息をつきながらも、忠興はお玉を離そうとはしなかった。子供たちよりも離し、ただ一人独占することをやめない。
「そちは俺だけのものだ」
 そう独占が強まれば強まるほど、お玉の心は閉じられていく。忠興の思いと、お玉の愛憎はまったく触れ合わずすれ違うばかりだった。
「頼む、なにか感情を見せてくれ。泣くでもいい、笑うでもいい。俺を蔑もうが、罵ろうが……」
「殿をお慕いしております」
 まただ、と忠興は唇を噛んだ。
 貞淑な妻の仮面をかぶったままだ。何も口を出さず、何も反せず、何も思わず。
 いっそ引き裂いて、その心の中を暴き出せればどれだけ楽だろうか。その思いが忠興を狂わせ、せめて体だけはと強引な抱き方を続けさせた。
(これがそちの復讐か)
 どれだけ側室をもとうと、感情を表に出しはしない。一度、その側室を連れてきて、お玉の目の前で情事を繰り広げたこともある。
『殿をよろしゅうお頼みします』
 と、お玉は微笑んだ。
 やりきれぬ、とこのごろ忠興はため息が多くなった。
 寝屋で友人高山右近が傾倒しているバテレンの話を口にしたのも、何も話すことがなく、会話も成り立たぬゆえのことだったのだ。
「バテレン?」
 それは初めてではなかったか。お玉が反芻する言葉ではなく、反応を返してきたのは。
「そうだ異国の宗教でな。神の愛やら隣人愛やら俺にはよくわからん。高山右近などが傾倒して、熱狂的に語っていたが父が嫌いでな……ゼウスやらイエスと聞くだけど寒気がするとよくいっている」
「それはどのような宗教なのでしょうか」
 ハッと忠興は腕の中の妻を見据えた。
「どのような教えがあるのでしょう?」
 忠興はお玉が反応示した「バテレンの教え」に多少嫉妬を抱いたが、同時に心が沸き立つほど嬉しかった。
 これをきっかけに人形の心に人の感情がよぎるかもしれないと、手振りで高山右近から聞いた教えを伝えていく。
 特にこの宗教には神によって定められた伴侶はただ一人で、その他の愛人は許されず、離別も教えに反する。自害という自分を殺すことを禁じている、ということにお玉は目を輝かせて聞いていた。
「お玉……」
 関白秀吉が「バテレン」の教えを禁教とする考えであることも忠興は忘れた。
 事実、キリシタン大名と呼ばれる大名が、自らの領土を傾倒するキリスト教の本山「ローマ法王」に寄贈し始め、これが秀吉を大激怒させるのだが、まだこの時期、キリシタンの教えは暗黙の了解ということで禁令とまではなっていない。
 人形のように意思のない目ではなく、喜びに満ちた目をしたお玉を忠興はいとおしく思った。
「殿、教会というところにいってみとうございます」
 暗黙の了解といえども、公然と大名の奥方を教会に赴かせれば、キリシタンに傾倒していると思われるではないか。
「だめだ」
「殿」
「そちをここから出すつもりはない。どの男の目にも触れさせはしない。そちは俺だけのもの、俺の宝だ」
 だがこの数年後に、キリスト教に深く感心を示したお玉は、忠興が九州征伐出陣の留守を見計らって裏門より抜け出し、教会に赴く。そこでキリストの教えに深く傾倒し洗礼を受けることを希望したが、身分を隠してのことだったため許されなかった。
 そのため侍女たちを教会に通わせ洗礼を受けさせ、その侍女とともに忠興の目に見えないところでキリストに祈りを捧げ続けた。
 だが奇しくもこのお玉が教会に赴いたこの年、天正十五年に秀吉は伴天連追放令を出している。
 宣教師が異国に去る前に洗礼を受けることを希望したお玉だったが、屋敷より抜け出すことは適わず、宣教師はお玉の侍女の清原マリアに洗礼の方法を教え、マリアの手でお玉は洗礼を受けた。洗礼名は「ガラシャ」という名が与えられ、これは恩寵を意味するという。
 それも数年後の話。今このとき、はじめてお玉は「バテレンの教え」を耳にしただけだった。
「涙など……たかがバテレンの話になにを心揺るがされている」
 忠興は少しばかり人形より戻ったお玉の姿を喜びつつも、「バテレンの話」に涙を流し喜ぶのが許せないほど苛立った。
「なんの涙ぞ」
 すると涙を流していることに気づいていなかったお玉は、またすっと表情を戻していき、人形に戻った。
 忠興はもはやお玉を昔のお玉に戻すことをあきらめた。
『忠興さま』
 幼いお玉はそう呼んで、忠興にニコニコと笑んだ。
 初めて会ったとき、なんと可憐できれいな女の子だろうと思ったか。おてんばで、泥だらけになって駆け巡り、父光秀に抱かれることが大好きだった女の子。
 許婚となり、華燭の典を挙げられることがどれだけ喜びだったか。
 一生、この手で守り慈しみ、お玉だけを思っていこうと決めた。
 他の女を明智光秀の娘のみ寵愛していると思わせれないために側室を置いたが、それも細川家のため。しいてはお玉のためだったのだ。
(お玉……)
 そんなある日、関白秀吉より茶会にお玉を出席されるようにやんわりと命じられた。
「忠興殿が誰の目にも触れさせぬほど溺愛する奥方を見てみたい。どれほどの宝か」
 忠興が他のどのような目からもお玉を隠した一つの理由として、天下人にて大の好色の関白秀吉とお玉を会わさないためといえた。秀吉は美しき女人を好み、たとえ人妻であろうとも手を出すと有名だ。
「関白さまの茶会でございますか」
 なかなか忠興は言い出せず、その日当日に忠興は茶会のことを話した。
 関白秀吉はかの山崎の合戦で明智光秀を撃ち破った男、お玉にとっては父の敵ともいえる人物だ。その男に身一つで会いに行け、とどうして忠興が平然といえようか。
 されど、お玉はいつものように穏やかな微笑を忠興に向けてくる。
「殿のご命令ならば参りましょう」
「関白に会いに行くのだぞ。心は痛まぬか。関白は……」
 そちの仇ではないか。
「殿がおっしゃるのならば参ります。それだけにございます」
「それで心は痛まないのか」
「……なにゆえでございましょう。お玉には殿しか心にありませんのに」
 そう貞淑の微笑で、穏やかに言ってのけるというのに、どうしてその言葉に何一つ感情がないのだろう。
 お玉は質素な打ちかけを纏った。暦の秋にあった紅葉の刺繍がされた打ちかけは、よくお玉には似合う。
「では、参りまする」
 と、淡々と口にするお玉が立ち上がったとき、忠興はその袖を握り締めた。
「……お玉」
 行くな、とはいえない。
 これは関白秀吉の命令なのだ。されど、今まで誰の目からも覆い隠してきた宝をあの関白に蹂躙されるかと思えば、忠興の胸は怒りで狂いそうで、それを必死に理性で制御した。
「……殿」
 ふとお玉が振り向いて、いつもの穏やかな微笑みを浮かべたかと思えば、その後ににこりと笑ったのだ。
「忠興さま」
「お玉」
 昔の始めて会ったときと変わらない屈託のない可憐な笑みに、忠興はわれを忘れて両腕を差し出し抱きしめようとしたが、それをスッとお玉は避け、笑顔を消し無表情で口にした。
「ご安心くださいませ。お玉は殿以外の誰のものにもなりませぬ」
 そのまま二度と振り向かずにお玉は秀吉の茶会に出向いていった。
「……お玉」
 ニコリと笑ったかと思えば、すぐに人形に戻ってしまう。
「それがそちの葛藤か。愛憎か」
 忠興は右手を強く握り締めた。
 お玉の心の中の葛藤を矛盾をはじめて見たような気がして、少しだけまだこの後お玉の心を取り戻せる、と希望を見出すことができるような気がした。
「お玉……俺の宝だ、そちは。誰にも渡しはしない」
 茶会に招かれたお玉は、秀吉を牽制するため、茶会でわざと懐より短刀を落として見せた。
(お玉は……殿のだけのもの。それだけは変わりませぬ。憎しみも殿だからこそ)
 どんなに矛盾な思いを抱えようとも、お玉は忠興を愛している。
 秋風が心地よく頬を撫で、久方ぶりに表に出たお玉は、どことなく楽しげに見えた。
 敵ともいえる関白と顔をあわせるというに……

風誘う時

風誘う時

  • 1話完結
  • 連載予定
  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月1日(土)
  • 【備考】 いつか「鬼と蛇」の夫婦の駆け引き話を書こうと思っています。