初恋




 岐阜城下に柔らかな風が吹く、暦は初春。
「千代殿」
 春風とともに木下秀吉の館に颯爽と駆けてきたのは、秀吉の与力山内一豊の妻千代であった。
「ねねサマ。突然で本当に申しわけなく存じますが……お願いにございます。この千代をしばらくお宅に置いてやって下さいませんか。下働きでもなんでも致します」
 風呂敷ひとつで、まさに突然館を出てきたといった風体の千代に、さしもの世の中さしたることには驚かないねねも驚いた。
 とりあえずは館に入れ、茶を差し出したねねはキッと前を向く千代のまだ幼さが残る顔に……にこりと笑った。
「一豊殿となにかありましたか」
 城下でも評判の夫婦仲睦まじい山内一豊と千代である。良妻と評判であり、特に針仕事にかけてはその腕に勝るものはなしという女でもある。
 千代はにこりと笑った。
「はい。だんな様は私以外の女には見向きもしないと誓いましたのに、他の女と浮気をしたのでこざいます」
「あらまあ」
「許せませぬ」
 良妻はだが噂では自らの信念のもとには頑固になるという。
 ねねもそういう性格の千代が好きだった。
 秀吉の女性への悪癖に散々に頭を焼いているねねとしては、素直に「夫の浮気を許せぬ」と家を出てくる無鉄砲ながらも信を通す千代の性格が少しばかり羨ましい。
「いつまでもここにおいでなさい。されど、すぐに一豊殿に居場所は知られてしまいますよ」
 なにせ一豊は秀吉の与力の一人だった。
「ねねさま。灯台下暗しと古人はすばらしい言葉を残しております」
「それでここに来たと。あらあら本当に千代殿らしい」
 千代はにこりと笑い、
「私は今宵よりねねさまのお針子になります」
「それで千代殿。一豊殿が血眼になりあなたを探しているのを、ここで見ておられるのですか」
「それは分かりませぬ」
「迎えにきてくださるのを待てる場所にきたのですから。……ゆるりと留まって一豊殿の迎えを待っていなさいね」
「お世話になります」
「いえいえ。ちょうでよかったこと。私、千代殿がつくる小袖が大好きですのよ。また私のために仕立ててくださいませ」
「はい」
 こうして木下家に一人の「お針子」が住み着いたのだが、千代の読みどおりまさに「灯台下暗し」
「千代……千代」と毎日探し回る一豊はまさか近所に妻があるとは思わずに、実家の不破家まで出向いて大騒ぎになっている。
 千代はのんびりと木下家でお針子をしながら、ねねの小袖を縫い、それと同時に一豊の直垂をそっと縫いながら、
「一豊さま」
 と、そっと囁くその一言。
 帰りたくても帰れない……そんな顔をして千代は毎日遠き目をしている。


「千代殿が来ているときいてにょ。このわしもちょいと千代殿と話したくなった」
 秀吉がぽりぽりと頭をかいて千代の前に座った。
 ねねは「また美しい女には愛想がいい」と手をギュッと抓った。
「いたたた……。おかかよ。そう抓るな。わしとて一豊の妻に手を出したりしない。一豊に殺される」
「おまえさまは一豊殿とはりあっても手も足もでませんからのう」
「わしは口だけにゃて」
「ほんに……なれどそこがおまえさまらしいのです」
「おかかも口がうまいのう」
 と、ゴロリとねねの膝を枕にして寝転がった秀吉は、千代をちらりと見てニッと笑う。
「一豊が血眼になって探している」
 千代はわずかに……視線をそらしていく。
「千代、誤解じゃ。千代ゆるしてくれ……とあの男は周囲など気にせずにそう叫んでばかりじゃて。そろそろ許してやったらどうにゃ」
「……木下さまは……もしもねねさまが他の男と……そういうことになりましたら許せますか」
「ああん? おかかはそんなことせんよ」
 秀吉はねねの顔を見て、その頬に手を伸ばす。
「おかかはわしに惚れている。わし以外の男など眼にもかけんわ」
「……お仲がよろしいことで」
「じゃがのう。もしも万一わしより違う男をおかかが選んでおったら、わしはその男を生涯許しはせん」
「また、そう嘘を言って」
 秀吉の頭をポンと叩いて、だがねねは微笑む。
 あなた以外の男に惚れたりしませんよ、とその目は優しく物語るが、同時にねねの心底はまたかなしみをひとつ閉じ込める。
 夫秀吉はこうしてねねに甘え続けるが、同時にその心は絶えず「違う女」に向いていることを知っているのだ。
「千代殿。女とて自由に生きていいもの。男に縛られることもないのです。思うがままにいきましょう。同時に……おまえさま。いつでも見捨ててさしあげましてよ」
「それは困る。おかかはわしの宝じゃ」
「また心にもない嘘をついて」
「嘘ではなか。わしは生涯連れそうはおかかときめちょる。おかかだけがわしの宝」
「千代殿。口だけの男はたのしいですが、これほどあてにはならないものはなくてよ」
 またポカポカと秀吉の頭を叩き、さすがに「いたた」と起き上がった秀吉は千代の顔を見たと思うと、
「初恋かね、千代殿。たかが浮気のひとつで家出するほどに一豊が好きだとは」
 その言葉に千代は視線を下に下げ、耳まで真赤にした。
「わしの初恋はのう。近所の小さな女の子じゃった。可愛くてのう。じゃが、その子はわしよりも弟の小一郎が好きじゃった。それで終わりじゃったのう」
「まぁそのようなこと私は聞いたことありませんでしたよ」
「おかかには言うと妬くからじゃて」
「物はいいよう」
「それから今川の松下さまにお世話になっとるときに妻を娶ったが、これが悋気持ちの気が強い女じゃて。ネコを抱くだけでわしを引っかいてのう」
「その話もはじめて聞きました」
「おかかに言うと妬くじゃろう」
「妬きませぬ」
 少しだけ秀吉に前妻がいたことにねねは驚き、だが心はなにひとつ感情を抱きはしない。
 この男を私は好いている。そして同時にこの男を私は憎んでいる。
 ねねの微妙な心の葛藤は、どこまでもあの空のように続いていく。そうそれは秀吉が天下人になったときも耐えに耐え、沈めに沈め、そして爆発したとき、北政所といわれたねねは「太閤殿。私はあなたの政所にあることが耐えられなくなりました。尼になります」と言い出し、秀吉を散々に慌てさせるという事態となる。
 憎く…憎く……されど恋しい。
 ねねの葛藤はまだ始まったばかりといえた。
「おかかは妬かぬというて……妬いておろう。わしは妻にするなら妬かぬできた女がいいと思っていたが、おかかに惚れた。生涯おかかを大切にする。おかかを城の奥とするがわしの夢じゃて」
「また嘘ばかり」
 ねねの言葉に、思わず千代は笑ってしまった。
「一豊が初恋じゃとすると、他の男は誰も知らんか。一豊だけか。羨ましいのう……千代殿ほどの女性を妻にできてのう」
「だんなさまは……」
「一豊は生涯千代殿以外の女は女性とはおもわんといっておった。今回のことは、戦場でたけった男の一夜の過ちと思ってのう」
「おまえさま」
 秀吉はいつも何気なく一言多い男でもあった。
「おかかの初恋はきいておらんかったのう」
 またねねの膝にごろりと横になった秀吉に、まだ幼くして秀吉の妻になったねねはわずかに笑い。
「内緒にございますよ」
「意味深じゃ。わしより先に好きになった男がいるにゃあか。ますます……知りたい。どんな男じゃ。わしより背が高いか。わしより……」
「あなたの方がずっとよろしい男で」
「おかか」
「………なんですの」
「おかかはわしのものじゃて。わしだけのものじゃて」
 こうして男の独占欲はわずかにねねの心を上向かせるが、だが秀吉の女遊びを思い出し心に暗雲がかげる。
「千代殿よ。こうしておかかの話し相手になってくだされや。おかかは……わしに心の内を最期まではさらさんのじゃ」
 そこがわずかに寂しいことよ、と秀吉は暗く笑った。
 どの夫婦にも夫婦の形がある。秀吉とねねは、少しばかり心底を隠し、心底に溜め込み、それが確たる歪をこの後に産むことになる。
 そこまでいかねば、どれだけ連れ添った女房が一に大切か秀吉はついに分からなかった。
「……だんな様のもとに戻ります」
 千代は小袖を仕上げ、ねねに差し出し、同時に洒落た直垂を一着秀吉にも差し出した。
「それがよいよい。一豊は人がよいし顔もよい。なによりも優しいしお人よしじゃで。見張っておらねばどこかの女に……」
「はい」
 木下さま、木下さま。
 表から疲れきった声が聞こえてくる。
「噂をすれば影じゃて」
 秀吉は立ち上がり、ねねは「羨ましいこと」と笑った。
「木下さま、木下さま。千代が……どこにもおりませぬ。千代が、私の千代が……」
 秀吉は縁に出て、転がり込んできた山内一豊に「バカ」と笑いかける。
「そんなに女房の名を昼間から呼んで慌てる奴があるか」
「千代が……千代が」
「浮気をしたのじゃろう」
「……男の見得もすべてかなぐり捨てて申します。確かに女とよい雰囲気になり抱きました。この腕に抱いたというか、だきしめるはめになったというか。だが私には千代がいる。千代を裏切ることはできるはずがない」
「ほぉぉぉ据え膳を食わなかったか」
 慌てふためいている一豊は目の前にある千代にまったく気付いていない。
「千代は私の守り神でございます」
「一豊さま」
 その一言に千代は駆け足で庭に飛び降り、一豊の傍らに寄った。
「ち……千代。おまえ……こんなところに」
「千代は……千代は……一豊さまが千代以外の女をと思って……それで訳も聞かずに。ただ腕に抱いたとおっしゃったので」
「腕に抱いただけだ」
 一豊はそう答え、なんとか荒れている息を整え。
「私にはおまえだけだと前前より言っておる」
「一豊さま」
 千代はそこで大胆不敵にも一豊の腕元に抱きついて、その腕元にスリスリと頬を摺り寄せ、
「な、な、な、……なにをする。人前で」
「大好きでございます、だんなさま」
「ち、ち、ち、……千代……」
 と顔を真赤にした一豊はそのまま千代をパッと離し、そして下を向いてしまった。
「なんて初々しいご夫婦ですこと。千代殿、これほど律儀でかたいご主人も滅多におりませぬよ。大切にされませ」
「はい」
 そうして一豊と手を結んで帰っていった幼い夫婦を見ながら、
 ねねは羨ましげに目を細めた。
「おかか、おかか。どうしたんじゃ」
 秀吉はというと、また……ねねの膝に頭を乗せて目を閉じていく。
「やはりおかかの膝が一番じゃ」
 と、大鼾をかいて寝てしまった……無邪気なねねのただ一人の夫。
「私の初恋は……」
 私の目の前にいつのまにか現れて、私を口先だけで楽しませてくれ、私をはじめて好き、といってくれた貴方に、
 十四の私は胸がドキドキして……惚れたのです。
 そんなこと、
 貴方が死すその時に枕元で、
 一言だけ呟いてあげます。
 それまで私はいちばんにおまえさまを愛し、おまえさまを憎んでいきます。
「ねねの……ねねだけのおまえさま」

初恋

初恋

  • 完結
  • 一陣の風に登場
  • 【初出】 2008年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月1日(土)
  • 【備考】