拍手006弾:

― 駆け引き ―

 そう秋風がわずかに肌寒いが、小春日和の過ごしやすいその日とて、
「貴殿の考えは独断過ぎる」
「木戸さん、あなたの理論は絵に書かれた餅に等しい。絵空事も甚だしい」
 明治新政府の一室ではすでに恒例となっている大久保利通と木戸孝允の埒も明かない「言い争い」が展開されていた。
 いたって周りにある高位高官のものはため息まじりで成り行きを見つめることに慣れている。
 ことあるごとに時に子どものけんかに等しい口げんかを展開させ、時に策略をもって相手の弱点をつく政争まで実にこの二人の喧嘩は幅広い。
 これだけケンカを繰り返しているのだ。古人いわく「ケンカするほど仲が良い」という例えが的を射るならば、そろそろわずかに歩み寄る妥協の末の仲の良さを見せて欲しい、と伊藤博文は毎回のように思う。
「どうして貴殿という人は、こう話が分からない人なのでしょう。薩摩人の頑迷さには苛立ちさえ覚える」
「薩摩隼人は頑迷ではありません。頑固ではあるかもしれませんが」
「同じことです」
「言葉の使い方としてはなはだ違う」
 ほら、論点が外れてきましたよ。これから違う方向に話しは向かい、ゆらりくらりとはぐらかされ時間切れとなる。
 大久保はそういう話のはぐらかし方は実に巧みと言えた。
「私は頑なに木戸さんのご意見を退けるおつもりはありません。ただ、貴公のご意見はいつもながらきれいごと。聞いていて実に耳障りがいいが、 それでは国はおさまらないといいたいのです。よろしいですか。貴公という方は洋行の時からそうでしたが……」
「ここで洋行の話など持ち出さないで頂きたい」
「然様ですか。英国で食べたあまいチョコの味でも思い出されますか」
「貴殿は!」
 机をバンと叩いたその瞬間、木戸の身体はよろめいた。
 隣に座っていた伊藤が慌てて木戸の身体を支える。あの馬車の事故以来、木戸の身体は実にもろい。
 本人は「大丈夫」と笑うが、左半身を庇うようにして歩いているのは誰の目にも明らかといえた。
「木戸さん、大丈夫ですか」
 すると木戸は口元にやわらかなきれいな笑みを見せようとしたが、それが苦しみの形に変わり、
「…………」
 その場に崩れるようにして手をつき、激しく咳き込み始めたのだ。
「木戸さん!」
 その場にあるコップを慌てて手に取り、水をゆっくりと飲ませながら背をさする伊藤は、
 昔から比べるとさらにやせほとり、病に覆われたこの身体の頼りなさが、とてつもなく不安をよぎらせ、
 泣きたいほど「悔しい」という感情がわきあがってくる。


 咳き込みながら、この体たらくな身体を木戸は呪った。
 昔からそうだ。心の弱さを指摘されることもあるが、木戸は重大事の前になると体はいつも病に覆われた。
 病弱だった母の血を引いてしまったのだろう。実父とて長くは生きられまい、と自分について諦めたほどだ。
 剣術に励み体を鍛えたとしてかわらない。
 張りのあるといわれる筋肉が多少は身体にはついたが、見かけのほっそりとした女のような華奢な身体つきは変わらず、人は木戸を実に中性的といった。
 いつのまにかそういわれようと腹立たしくもない。まわりに頑健な人間が多く、引き締まった男らしい体格のものもまた多い。
 だが国家の政治を預かる「参議」としては、木戸の病がちな体質は致命傷に等しかった。
 伊藤の手馴れた処置により、ようやく咳が止まった時、口の中に血の味がしてハッとした。
 口端より流れる赤い血に、さすがの伊藤も驚きの顔を見せ、すぐにポケットより無地のハンカチを取り出し口元をぬぐうが、
 再び咳き込むと木戸の右手一面を赤で染めた。
(あっ………)
 咳き込んでいる間に口の中を多数切ってしまったようである。
 周りを見ていると、異様などよめきに満ちていた。まさに不安と心配、または嘲りにも似た雰囲気の中で、
 木戸には滅多に浮かばない悪知恵が頭にひらめいた。
「この……体たらくな……身体では、国家の……重責をになえません……」
 懐の中に絶えず入れてある辞表を、木戸は最高位太政大臣三条実美に弱弱しく差し出した。
「き……木戸、まずは療養を……」
「いいえ……。もはや本復の兆しはないとおもいます。今後のことは……後輩たちに道をゆずって……」
 誰もが血を吐いたと思ってくれているようだ。当の伊藤でさえ蒼白でどう対処したらよいのか分からずに戸惑っている顔をする。
 これを機に、念願の辞表を叩き付け、参議を辞し、そして故郷で仲間たちの墓守をしていきたいという願いが頭に浮かんだ。
 政府において大久保の独裁にあくまでも理想に等しい反対論をもって対立するのも、
 すべてこの国は「独裁」ではなく協議の場が持てるということを知らしめるためである。
 ただ一人の人間によって何事もすすむ事態は起きてはならない。
 またどんな時でも「意見」は誰を持っても口にするりことができるという体制は必要である。
 大久保の意見は「間違い」は何一つないことは知っている。腹が立つほどに正しく、しっかりとした道行を照らしている。反発は多いが、 この国を列記とした「国家」に成立させるためには、かの男の如し人間が必要だ。
 全てを受け入れているわけではないが、国家のために木戸は大久保には協力をする。裏切ることはない。それは一方の長としての役割と言い聞かせてきたからだ。
 だが身体が自分の思うがままに何一つ動かなくなってから、木戸は目に見えて疲れた。
 そろそろ後輩にこの「長」を譲る時が来たのかもしれない。
 木戸はこの見え透いているが、芝居によって自らの辞任を勝ち取るべき動き出した。


「辞任?」
 大久保がその冷徹な顔を一切緩ませずに、微かにだが喉を鳴らして笑った。
 もとより公では表情に乏しいこの男が、喉を鳴らして笑うと嫌な寒々とした雰囲気が満ちる。
「これしきのことで辞任とは」
 彼が立つと、その場にいる男たちは息を飲む。木戸の前に立った大久保は懐紙を取り出し、意外とやさしい手つきで手の中の血をぬぐった。
 そして無感動の瞳を据えたまま、
「死すならばこの廟堂でしなれるといい。それが私と貴公の役目だ」
 すべてお見通しだというその目は無常にも一切の有無を許さない。
 そして三条の手にある辞表を、大久保はその場で二つに破り捨てた。
 息を飲むほどの緊張感に「大久保」と岩倉右大臣が声をかけたが、今日の議論は終わりだとばかりに大久保は部屋を出ようとする。
 わずかに振り向かれたその眼差しは哀れみではない。嘲りでもない。
「木戸さん、大丈夫ですか」
 伊藤が背を支えようとしたが、その手をやんわりと断って木戸はその場に立つ。
「すこしのあいだ、休養するか、木戸よ」
 岩倉の声に木戸は首を振った。休養では意味はない。必要なのは「辞任」なのだ。
「お騒がせ致しました」
 頭を下げて木戸も部屋から出ようとする。
 今日は残念なことに予備の辞表を用意してきていない。そこが自分の不手際だ、と心底より思った。
 あの目は木戸にだけ突きつけるように告げていた。
『ここが私たちの仕事場であり、同時に棺桶だ』と無情な一言を。
 笑いたくなる。そして妙にいい得て清清しいほどだ。
 破り捨てられた辞表を手にして、決意も新たに木戸は微笑んだ。
(ではどこまでも逃げて見せましょうか)
 追いかけてみなさい。
 逃げて逃げて、貴殿の捕まらないところまで逃げきって、
 この世には「公」ごとでも、貴殿の思いのままにならぬことがあることを知らしめましょう。
「楽しそうじゃな、木戸」
 岩倉の呼びかけに木戸は穏やかに答えて見せた。
「これが私と大久保さんの駆け引きですから」
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WEB拍手一覧 006 「駆け引き」

WEB拍手 駆け引き

  • 【初出】 2006年12月14日
  • 【終了】 2006年12月20日
  • 【備考】 拍手第六弾・小説五区切りで御礼SSとしています。