拍手009弾:

― 箱根で静養中 ―

 夏の箱根湯元は炎天下の東京に比べれば数段と涼しい。
 温泉好きの木戸が、大村などの反強制「療養」を命じられ箱根に押し込められて十日ほど。
「箱根はやはり冬がいいね。芦ノ湖に雪が落ちるのをただ見ているのが、私は好きだよ」
 今回の療養には妻松子が同行している。これも大村の反強制的有無を言わせない無口のもとの命令だ。
「あなたは温泉があればどこでもお好きなはずですよ」
「その通りだよ。ここで松子とゆっくりするのも悪くはないね」
「あら……数日前までは一刻も早く萩に戻りたいと」
「考えたら……すべてから解放されて一休みもいい。私はこの仕事が終わったら楽隠居するつもりだったのだから」
「お若すぎる隠居ですこと」
「一生分の働きはしたよ。もう……私はいい」
 ということで楽隠居よろしく、国内の重大事をすべて忘れて、今、木戸は箱根の温泉に浸っている。


 温泉に毎日五回ほど入るだけでは暇である。近くに住む老人の囲碁や将棋の相手をしたり、子どもたちの世話をしたりするようになった。
「いっそここに隠居しようか」
 風土もなかなかに好むところ。夏は涼しく、冬は木戸が好きな雪が降る。渓谷であるためそう簡単に人が訪ねて来れないのも気に入った。
「あらあら。ここは東京に近く萩に遠いですよ」
「松子?」
「萩に頻繁には戻れず、あなたの部下たちはこのような山、簡単にのぼって迎えに参ります」
「簡単にはのぼれまいよ」
「あの方たちを甘くみてはいけませんよ。……今日は井上さまですよ」
 飛脚が毎日一通ずつ木戸のもとに書状を届ける。
 仲間たちからのものだが、おそらく皆が謀っているのか。必ず毎日一通。同じ人間から二日続けてくることはない。
「……聞多から」
 井上馨こと旧名聞多からの書状ははじめてのことだ。
 松子から渡され、そっと開いて見ると、そこには一文。
 金貸してくれ! ばい聞多。
「聞多ぁ……」
 思いっきり脱力してその場に崩れた木戸はすでに気付いている。
 長州の仲間たちは、どうしてか世情など一切書いて寄こさず、毎日毎日他愛もないことばかりを書いて送ってきている。
 本当は大事がなにか起きているのではないか、と頭の片隅で木戸は心配になってきていた。


 翌日、近所の老人と碁を五番ほど打ってきた木戸が静養所としている旅館に戻ると、
「松菊さん。お手紙ですよ」
 ここでは号の「松菊」で通しているが。昔から馴染みにしている旅館のため女将はそれなりに木戸の素性は心得ていた。
「今日は俊輔」
 何度か送ってきているために、木戸は内容がおおまかに予想できてため息が出た。
「お友達が多くて羨ましいです」
「友達……なのでしょうかね。皆は手がかかる私に過保護になっていて……」
「よろしいですね、お友達がたくさん」
「……はい」
 友達といえるのかどうか木戸は考えながら、部屋に戻って書状を開くと、
 ……渡欧中の山県に書状をしたためることにしました。土産、何か欲しいものありますか。
 またしても思いっきり脱力してしまった。
 届けられる書状を読むたびに自分は腑抜けになっていく気がする。
 数日前の山田の手紙も似たり寄ったりだった。
 ……あの山県に土産の催促状を送ることにしたんです。なんか思いっきり高価なもの買って来るように言いましょうよ。
 みんなみんな……書面が似たり寄ったりの世間話の範囲から出ないのは画策なのか。
(私が心配してかえるように……という)
 長州の人間は木戸の性格をいやというほどに心得ている。
 いざ重大事を並べ「帰って来て欲しい」と言おうとも、木戸の性格なら「私でなくても大丈夫だね」と微笑んで一歩引く。
 だが何も伝えてこないと思いっきり気になる。
「誰かまともな書状を送ってくれないか」
 温泉あがりのポカポカとした体が、脱力してグタリとなる書状はもう見たくはない。


 渡欧中の山県より書状が届いたときには、今度こそは、と木戸は思った。
 予想通り異国でのことがことこまめに書かれており、西園寺公望とも偶然に顔を合わせたなど書かれてあった。
 異国……洋行は木戸の望みでもあり、書状は心躍ったが。
「山県……」
 ……きちんと一日二食食されておられるか。また痩せておられたら無理やり食べさせる。貴兄のために甘い菓子などを購入した。 なにか欲しいものがあれば書状に書き添えて欲しい。
 異国に渡ろうと山県は山県だ。まるで目の前に北国の永久凍土の冷たさに覆われた山県がいて説教されているかのような気分となり、 木戸は思わず重いため息をこぼしてしまった。
「……少しは食べておこう」
 温泉玉子を入れた籠を手にし、いそいそと玉子の殻をむき出した。
 最期に山県と会ったときから間違いなくやせた。ずいぶんと痩せた。これでは……また言われる。
『口移しでよろしいか』
 半ば脅しの言葉が頭によぎり、木戸は玉子をいそいそと食べ始める。


 一月が経つ頃、箱根湯本は穏やかで心地よく、療養には最高の場所で、木戸は馴染んでしまった。
 周辺では「美男美女」のお似合い夫婦と名高く、滞在場所には毎日のように人が押しかけてきては話しこんでいく。
「ここに移住してしまいなさいよ」
 勧めに木戸は「ぜひともに」とまさに本気な顔をしてこたえるゆえ、松子は心配げな顔をする。
 木戸の居場所は東京の廟堂であり、楽隠居する場所は萩と松子は思ってきた。
 そして萩には、木戸が一番に大切に思っている人が眠っている。
「萩に帰りましょう」
 松子が花をいけながら軽く語りかけてみる。
「萩の椿が見たくなりましたの」
「松子、萩の椿はいつでも見られるから。私は冬の椿がいちばんに好きだけど」
「見に帰りましょう。あなたには萩がいちばんお似合いですよ」
 そういうと、木戸は視線を下に向けた。少しだけ耐えるように、辛そうな顔をする。
「あなたの帰りを待っておられますよ」
 吉田の地で眠る幼馴染が、きっと小憎らしい顔をして「桂さん」といつまでも待っているような気がした。
「……松子。ここはいやなのかい」
「いいえ」
「私は……私を知らない場所でいきたいと」
「あなたには無理ですよ」
 松子は両腕を木戸の首もとにかけ、木戸の顔を胸元に引き寄せる。
「あなたは人一倍寂しがりやですから」
 本当は二人きりで過ごしていたい。誰にも邪魔されず、誰にも渡さず、二人だけで世情から離れて過ごしていたい。
 それが松子の一番の願いであり、一生涯の夢でもある。
(一生……適わないから夢)
 この人は平穏な場所で埋もれる人ではないのだから。
「伊藤様から御文です」


 他愛もない文でも、木戸は仲間たちが送られてくる文を読むことをかかさない。
 思いっきり脱力しても、届けられる文に一瞬だけ嬉しげに微笑む。
 離れていても、心はいつも長州の仲間たちのもとに飛んでいっているのだ。
「ま……まつこ」
 されど今日もたされた文は、
 木戸を違う意味で、その場に沈ませた。
 書状を何度もそれが偽りであることを願うように読み、だが最期の希望も奪われたのか。木戸は涙をポトリと落とした。
「蔵六さんが……」
 その日、届いた伊藤博文からの書状は木戸が望んだ「世情」の重大事を報せてきた。
 ……大村益次郎、暗殺。重体。
「あなた」
 松子は今にも精神が崩壊しそうな木戸をギュッと抱きとめて、心を現に繋ごうと必死になった。
 平穏な療養生活はこうして幕を閉じた。最悪の知らせをもって……。
 世がまだまだ「楽隠居」を、この世捨て人になりたい長州の首魁に許してはくれないようだ。
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WEB拍手一覧 009 「箱根で静養中」

WEB拍手 箱根で静養中

  • 【初出】 2007年01月21日
  • 【終了】 2007年01月28日
  • 【備考】 拍手第9弾・小説五区切りで御礼SSとしています。