― 梅 ―
東風吹かば 匂い遺せよ梅の花 主なしとて 春を忘るな 菅原道真作
数ある梅を読んだ歌の中でも、この一首は実に物悲しい。
かの太宰府天満宮の祭神とされ「学問の神サマ」と慕われる菅原道真公が、
右大臣まで昇ったが、摂関家に追い落としにより左遷され九州の大宰府に赴く前に、庭にある老齢な梅の木を見ながら読んだと言われる。
悲壮感と物悲しさ悔しさ。そして憐憫の情すら見え隠れするこの一首を、
二度とは見ることが適わぬかもしれぬ梅の木を見ながら、道真はどんな思いで歌ったのだろうか。
高杉晋作は昔から梅の花が好きだった。
梅が咲くと、近くにいるものを引っ張り引きずり、梅見に連れ出したものである。
梅の下で酒を飲むのを好んだ。
一花びら酒に浮かばすのは風情というものだ。
梅湯にして風呂に入るのもよかった。
高杉は梅が咲いているころは、本当に機嫌が良かった。
本名「春風」の名のままに、正月が過ぎて後に訪れる春が好きで、
静謐の空気の中で咲く梅が、花の中では一番好きだった。
遠き昔に西行が、願わくば花の下にて春死なむ……と読んだが、高杉は梅を崇めながら死ねたら最高だと思っている。
その年の梅は例年よりも儚く見えた。
正月(旧正月)を過ぎたころより萩には梅が咲き、高杉は目を細めながら毎日見つめる。
「桂さん。梅を見にいかんか」
今日は山口の政治堂より二人揃って、萩に戻った高杉と桂小五郎である。
「おまえが少しは働いてくれたら、夕暮れ前にいけるかもね」
桂は苦笑をして、書類の束で高杉の頭をぱさぱさと叩いた。
「そんなんは桂さんの得意とするところじゃないか。自分がやったら……さてさてどうなるんじゃろうねぇ」
と、高杉は右手に三味線を抱いて、それをジャンジャカ弾き始める。
「騒々しい」
「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝をしてみたい。なぁんて桂さんよ。どんな思いでつくったんやら」
「忘れたよ」
いつのまにかその都独逸は、つくった桂よりも高杉の方が多く唄うようになっていた。
「自分はアンタの寝顔に囁きたいと思うんじゃ」
「晋作」
「そしたら桂さん、嬉しいか」
桂は書類に目を通しながら、高杉の額をペシッと叩いた。
「痛いぞ、桂さん」
「聞くが、晋作。おまえは私の寝顔を見たことがあるのかい。いつも私より数段とお寝坊のお前が」
「それを言うか、それを」
「添い寝をしているときに、一度は私より早く目覚めて囁いておくれね、晋作」
僅かにふて腐れていると、不意に湧き上がるような熱いものがこみ上げてくる。
(こんなときに!)
高杉は手で口を押さえ、激しい咳を繰り返す。一向に止まる気配はない。
「晋作」
目の前の桂が顔色を変え、その腕を高杉を抱きしめるようにして背中にあててさする。
「大丈夫かい、晋作」
さすり、少し緩まってきたのに気付いたのか、備え付けの水を茶碗に注いだ。
おさまると同時に水を飲み干し、高杉はあえて笑う。
(……急がないとならん)
もう来年の梅の花は自分は見れんかもしれん。
高杉は自らの手を見つめ、一先ずは安心した。前のように血潮はついていない。
「……晋作」
「そんな顔をするんじゃないよ、桂さん」
アンタにだけは気付かれたくはない。
アンタにだけは知られたくはない。
桂の悲しい顔を見ることが、いちばんに苦しいことを知っている。
「大丈夫じゃ、自分は」
だから梅見に行こう。静謐の空気の中で、二人だけでいつまでも梅を見ていたい。
萩において仕上げねばならない書類を全て終え、桂と高杉は揃って城を後にした。
高杉が急かすように桂の袖を引っ張って先を急ぐ。
桂はつられるようにして歩きながら、おそらく昨年の夏ころから急激に衰えただろう高杉の背に目を細める。
(晋作……)
そんなに肩幅がなくなり、もともと肉付きがまったくなかった胸板など皮だけではないかと思わせる。
頬もこけ、顎元などほとんど肉が見れない。それでも高杉のギラギラとした目には何一つかわりがなかった。
桂はあえてなにも見ない振りをしている。何も気付かない振りをしている。
それが唯一つの高杉の願望に似た祈りであることを知っているから、
あえて桂はその祈りを叶えるために、何も気付かない振りをする。
城を後にした時は周囲は薄闇に包まれていた。
今では城の周りに咲き誇る梅を、月が淡く輝かせている。
「桂さん」
高杉は昔から梅が好きだった。
幼い頃は桂の背に背負われ、必死に梅に手を伸ばしたものだ。
(……おまえは、梅の花に触れるだけで……)
決して手折りはしなかった。
「やっぱりじゃ、桂さん。月が出ているときの梅は奇麗じゃ」
本当に嬉しいようで、両手を広げ、無意味に高杉はくるくるとまわりだす。
「晋作」
目が回ってきたらしい高杉の体を背中から両腕で受け止めると、
高杉はグイッと顎をあげて、桂の顔を見つめた。
「桂さんと梅の花が見たかったんじゃ」
ニヤリとらしく笑った高杉の温度は温かい。
このままずっと抱きしめて、その鼓動を桂は確かめていたかった。
喪失。
という二字からいつまでも逃れていたかった。
「なぁ桂さん」
抱きとめてくれる桂の温度が穏やかなまでにやさしい。
体に伝わる鼓動が、子守唄のように耳元に響く。
いつのまにか二人は梅の木に寄りかかるようにして、座っていた。
幼かったときのように、桂の膝に座って、真上の梅の花を見つめている高杉は、
華々しくはないが質実にして、月の淡い光が彩りとなり、実に綺麗な梅よりも……、
少しばかり後ろを振り向いてみる。
月夜の梅よりも、桂の姿の方が数倍も綺麗だと思えた。
うっとりと見惚れ、だが先ほどの喉に沸きあがる熱を思い出し、
焦燥と心地よさの中で、高杉はつい口にしてしまったのだ。
「自分が桂さんより先に逝くなら、その時、アンタがその体に何も背負ってなかったならば」
長い間、決して口にしなかった言葉が、口から飛び出る。
「アンタを連れて行っていいか、桂さん」
口にしてからまず後悔した。
おそらく幼い時から思っていた思いだが、道徳と理性で必死に留めてきた思いである。
心の中で桂を置いて逝ってはならない、と思い続けてきた日日。
今、目の前に迫りくる「死」を前にして、たまらなく悲しく、
悔しいほど虚しくて、
言ってしまったのだ。
驚いたように桂は、視線を真上の梅より高杉の瞳におろした。
そしてまるで生を確かめるように高杉の頬に触れ、唇に触れ、額に触れ、瞳に触れ、
たまらなくなったかのように、高杉の体を抱きしめてきた。
「晋作」
耳元で発せられる言の葉は、あまりにも痛すぎる。
「ごめん、桂さん」
泣きそうな声で、顔で、高杉は謝った。あやまずにはいられない。
「ごめん。自分が……ひどいこといった。桂さん、悪かった。ごめん」
何度謝ろうとも尽きぬその謝罪とともに、
高杉も桂の体を抱きとめて、
いつのまにか二人して泣いていた。
もしも、と桂はあえて仮定の言の葉を続けた。
「おまえが私を置いて逝かねばならないのならば、その時、私に重荷がないのなら」
その時は、何一つ迷いはない。
この手はきっと、おまえの手を握り続けるだろう。
「私を置いては逝かないでおくれ」
「……桂さんはそうやっていつも優しいな」
「私はおまえと一緒に年を重ねて、おまえと一緒に生きていくのだから」
「それが自分にとっても願い……じゃ」
思わず願いだった、と言いそうになり口を抑えた。
「けれど今のこの長州のままでは、ダメだね。晋作はいっぱい生きて、私がもういいやと思うまでいきなさい」
桂の手が高杉の頭に乗せられた。
くすぐったくて、高杉はニヤリと笑う。
「とりあえずは、梅の節句は一緒に梅酒でも飲もう、桂さん」
「節句は女の子の祝いだろうに」
「自分は三人……妹がいるからな。昔からこの日はよく酒を飲んだ」
「私も治が小さい時は、飲んだような記憶があるよ」
気まずさを取り返すように、高杉は言葉を綴っていく。
「ひな壇などどうでもいいけどな。お祭り騒ぎができる行事は大事じゃ」
桂さん、必ず一緒じゃ、とまるでネコのように桂の胸元にすりすりしてくる高杉。
一緒だね、と桂も口ずさむ。
いつまでも一緒に梅酒を飲もう。
いついつまでも共に騒いで、抱き合って、遊んで、怒って、喧嘩をして。
桂はこの手を高杉に差し伸ばすことができるこの時を、いとおしいと思った。
「来年も再来年も共に、梅見も。梅の節句もしよう、晋作」
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