― 出奔 ―
『成実殿』
片倉は人前では二本松城主伊達成実をそう呼ぶ。
これが二人だけや、当主政宗を入れて三人だけになるときは通称の藤五郎から「藤五」と気軽く呼ぶ。
およそ幼少のころから、成実はこう呼ばれることを気に入っていた。
それは仲間内での親しみや気軽さが全面に出され、
まして常日頃から自他ともに厳しく、自らを律して生きる片倉が、徹頭徹尾無表情な片倉が、
僅かなときといえども、親しみを表すその呼び名が「特別」なような気がして、成実は嬉しかったのだ。
その日は伏見の藩邸の一室で、一人酒を飲んでいる所に、片倉が顔を出した。
「どれだけ強かろうとも、深酒は身体に良い影響をおよばさぬ」
顔を合わせば、まずは小言が自然と口に出るのもこの男らしい。
成実は幼少のころから、片倉に説教ばかりをされてきたような気がする。
杯を軽く上げ、共に飲もう、と目で片倉を誘った。
それを察したのか、襖を閉め、片倉は成実の正面に座る。
「小十郎」
およそ二歳ころからか、呼び続けてきた男の通称を呼び、おもむろに成実は笑った。
片倉景綱……通称小十郎は、その笑いに僅かだが眉間に皺を刻む。
「殿となにがあった」
珍しいこともあるものだ。単刀直入の問いに、僅かに時をかせぐようにもとより用意してあったもう一つの杯に酒を注いでやった。
「藤五」
冷静だがその口調には責めるような響きがある。
急くな、と心の中で片倉に呼びかけ、成実は自らの杯にもなみなみと酒を注ぎ、
「飲もう、小十郎」
今度は表情に満面の笑みを乗せ、この話はコレで終わりだ、と暗に告げた。
決意という言葉が胸に宿ったは、およそ一年前であったか。
相次いで流行り病で妻子を亡くしたその時から、成実をこの世に縛る確かなものが脆く儚く消え失せた。
妻子の亡骸を見て、思わず声なき笑いがもれるかと思った。
この十数年、あの天正十三年から胸に蓄積されてきた思いが、不意にはじけてしまった。
なんのために生きているのか。誰のために自分は在るのか。
幼い時より『いずれは伊達の副将軍に』といわれ育った。猛々しい武者であれ。智謀ある武将であれ、と父実元に言われ続けた。
己は伊達一門として恵まれた立場でありながらも、一種微妙な存在だったかのかもれしない。
父実元は、政宗の曽祖父稙宗の子どもにて、一時は上杉家に養子に行く手筈となっていたが、伊達家本家の内紛によりそれは流れている。
その父が遅くに娶った母は、父にとっては姪にあたる、兄晴宗の娘だった。
成実はまさに伊達の血を純潔なままに受け継ぎ、若くして当主となった政宗ともさして血的には変わらぬ立場にいた。
政宗とは母方の血を辿れば、従兄弟。父方の血を辿れば成実が小叔父という立場になろうか。
それでも主従たることに変わりはなく、
さりとてまだ分別がつかぬ幼いころから共に育ってきているため、主従というよりも、友よりもなお濃い兄弟のようなものだった。
政宗の傅役であった小十郎や、近習の鬼庭綱元をあわせ、政宗の近くに誰よりもあったことを成実は自負する。
毅然とした武者なれど、時に危なっかしいほどにな無邪気で脆くなる政宗を、
いつまでも成実は守れる立場と場所にあることを、自分に律していた。
自らの生涯は政宗の傍らで送り、死すのは政宗のためであると成実は信じて疑わない。
あの天正十三年……成実にとっては叔父であり、先代伊達家当主輝宗が、畠山義継の虜になったあのときまでは。
『藤五郎。わしを撃て。藤五郎!』
虜となり畠山の領地に強引に連行される輝宗が何度も叫び、
『藤五郎』
かわいがってくれた伯父だった。よく成実を膝の上に乗せてくれ、四書五経など読み解いてくれた。
頭を撫ぜる力強くもやさしい手が大好きで、その温厚にして篤実ある性格を成実は尊敬している。
『……大殿!』
今、ここで判断を下す立場には成実しかない。
家臣たちは鉄砲を持ちながらも、火縄に火を灯すことを誰もが恐れている。
分かっていることは、このまま輝宗を畠山領に連れこまれば、輝宗を人質として畠山はどんな要求をしてくるか知れない。
元は伊達家と親しい仲にありながらも、先の戦では大内に唆され、伊達と敵対した畠山だった。
戦の勝敗により侘びをいれた義継は本領安堵を嘆願したが、政宗はあえて傲慢といえるほどに「領土の半分」を要求し、
追い込まれた義継はとりなしを頼んでいた輝宗を、今こうして虜として領土に連行しようとしている。
川を超え畠山の領土に輝宗を連れ込まれるも罪ならば、
それを阻むために此処で義継を撃てば、義継は虜の輝宗を生かしてはおくまい。
伊達成実にとって最たる地獄が、そこにはあった。
戦場にて命の危機を何度も味わおうとも、見せしめのために城内のものを撫で斬りにされるのを見ようとも。
地獄を思ったことは一度してなかった。
自らではない誰かがこの二択の判断から答えを導き出して欲しいと思おうとも、周りに地位あるものは誰もいない。
政宗には報せを走らせたが、ついには間に合わなかった。
『……撃て、畠山義継を撃て』
涙ながらに決断を下した成実の心中は、
この二択どちらを選ぼうとも罪は生涯己が背負うものであり、
悲しいかな。政宗が当主としてあるのに不利益にならぬ決断を下した。
留まらぬ涙が目をかすませ、輝宗の姿を滲ませる。
だが最期の瞬間まで、輝宗は笑っていた。
それは幼き時に、我が子政宗同様に成実を可愛がってくれた大好きな伯父の笑みだった。
どれだけ政宗に憎まれようが、呪われようが、それは自らが受けることと覚悟した成実に、
政宗は優しく慈悲深い顔でねぎらいの言葉をかけたのだ。
家中よりも成実をどこまでもかばい続け、顔をあわせば「おまえは悪くない、お前は正しい」と目で伝えてくる政宗。
だが成実はよく知っている。
成実が政宗に背を向けたとき、政宗がどんな目をして成実の背を見ているのか。
今までの慈愛もやさしさもすべて霧消し、冷えた眼差しは常に憎しみと責めを繰り返す。
『藤五。おまえがいてなにゆえだ』
いっそ、と何度思ったか。
この顔を見て責めてくれればどれだけ楽か。憎しみの刃を突きつけてくれた方が潔い。
だが最愛の父を失った政宗は、どこまでも成実が苦しむ方法をとった。
……おまえを楽にはしない。
一生を自分の傍らで地獄の業火を浴びるといい。
それを十数年続けた。
どこまでも兄弟同然の従弟に対する礼節と親しみを持った接し方を変えはしない政宗を、
いつ頃から冷めて見ている自分があった。
奥羽の毅然と優雅であり知略も猛々しさもある真っ直ぐな覇者政宗の心を歪ませる自らの存在を、
冷めて、憎く、呪わしく……全てがどうでも良くなった。
この三十年。伊達成実を培ってきた全てがこの十数年で皹が入っていき、ついには壊れた。
最期の砦が妻子であったとは、成実にも意外過ぎたが、
壊れて「無」に帰り、そして今、此処で酒を飲みつつ「伊達成実」の最期の夜を遂げようとしている。
一人で飲むのも結構と思っていたが、願ってもないことだ。
注しつ注されつ、飲む相手が現れてくれた。
「何か悟りを開いた顔をされている」
杯を飲み干し、片倉は一言言った。
「武将たるもの。最期の時まで決して到達することはない境地に至ったか」
「小十郎よ。この成実がそんな悟りの境地にいけると思っているか」
「今の今まで思ったことなどない。藤五はどこまでも武者であり続けると思っていたゆえ」
「今は違うか」
「違う」
「どんな風にか」
「悟りとは諦めたものがいたるものやもしれぬ。今の藤五がまさにそれだ」
片倉は勘が良い男だ。僅かな表情の変化で悟るものがあろうが、今の自らの決意を悟られるはずがないと成実は笑う。
この決意を遂げるまでは、自分は伊達成実である。
最期の最期の境界の「決意」ともいえた。
「小十郎」
むげに名を呼ぶ。
無言で注しつ注されつを繰り返していた二人だったが、
成実はもう本人を前に呼ぶことができるか知れない名を、名残とばかりに呼ぶ。
片倉は杯より視線を離し、フッと視線を成実の顔に寄こすくらいだ。
「殿はどこまでいくだろうな。いまだ天下というものを諦めず、独眼竜でいてくれればよいが」
「殿は殿であるしかあるまい」
「小十郎の言い方はたまに分からんことばかりだ」
「ならば藤五」
酒を手にし、空になった成実の杯の中になみなみと注いでいく。
「藤五は伊達の副将軍伊達成実以外の何者かになれようか」
まるでこれでは心が探られているようだ、と苦笑いを浮かべ、さてな、と成実は軽く流す。
「御身にはできまい。その身に流れる血が許しはしない」
「俺はな、小十郎」
十数年前にこの身に流れる「伊達」の血を呪い、
今この時点でこの血を洗い流すことばかりを考えている。
この血が消えたならば、伊達成実はいきなおせようか。
この血を流せば、この身に培われる罪という烙印は消えようか。
「人は自らがなそうと思えば、己以外の人間になれるのではないかと思うことがある」
「無理だ」
片倉は即答した。
「そうして足掻こうとも、人は己以外の何者かになれようはずがない。どのような生き方をしようが、最期にはそれに気付こう」
「小十郎の方がずっと達観しているではないか」
クックッと喉を鳴らせば、片倉は変わらぬ顔で静かに成実を見る。
「飲もう、小十郎よ」
あぁ、と小さく頷きながら、片倉は時折成実に視線を送ってきた。
「二人で飲むのは久しぶりだな」
「藤五よ」
「なんだ」
「……次は殿と三人で飲もうではないか」
応、と答えながら、それは永遠にないことを知る成実は胸にチクリとした痛みを感じた。
あぁ何もかも壊れた自分にも、まだ人としての傷みは残っているのか、と驚きもあったが。
心にある「決意」は微動だにしない。
その日は明け方まで飲みに飲み、早朝、伊達成実は伏見の伊達屋敷を出奔した。
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