拍手022弾:

― 人物性格物語 ⑤ 伊藤博文 ―

 伊藤博文は一人称で「僕」と使う。これは松門の人間たち特有だが、伊藤に関しては一貫してその生涯「僕」で通している。
 伊藤はたいていの場合は笑う。にこにこ、と。時にはニヤリ、と。
 人は伊藤を「快活」と称するが、この男の前ではその快活は息を潜めたように表に出ない。
「それでさ、山県」
 ソファーにゴロリと横になり、金平糖を上に放り投げる。それが開けた口の中に入り伊藤はニヤリと笑った。
「次の宴はおまえのところの椿山荘にしておいた」
 山県はこの伊藤は何を考えているか、至極わからないことが多い。
 この国の初代首相の地位に就き、憲法制定などの偉業を成し遂げた男が、おそらくこの国で一番にそりが合わないだろう己の所に来て、 なぜ金平糖片手にソファーに寝転がっているのか。
 これは一種の嫌がらせであろう。顔を見るのも互いに面白くないというに、自らの「面白くない」を凌駕するほどに、山県が伊藤の顔を見て 「面白くない」と思う顔を見るのが楽しいのだ。
「我が邸宅は宴会を為すために建てたものではない」
「そんなの知っているさ」
「宴などごめんだ」
「だからおまえのところにしておいた。なぁ山県閥の総帥。たまにはみんな集まってどんちゃん騒ぎをする意義分かっているかな。 どんなに嫌われ者の山県でも、僕は仲間はずれにだけは絶対にしないよ」
 むしろ仲間はずれにしてくれ、と山県が顔をあげると、そこには相変わらずの人を食ったような伊藤の顔があった。
「僕は寛大だからね」
 ニタリと冷たく笑ったかと思うと、今度は声を立ててケラケラと笑う。
 ひとつ金平糖を投げつけてきたので、呆れながらも手で受けると、
「美味しいよ」
 甘いものが好きでないことを承知の上での、これも嫌がらせの一つだろうか。
 この伊藤ほど付き合いを「切って捨てたい」と思う相手は山県にはいない。


 そんな伊藤が狂ったのではないか、と思うほどおかしくなったときのことを山県は覚えている。
 井上が洋行より戻ってからだったか。
 大久保の手となり足となり政務を行い多忙な伊藤が、時折山県の九段の館に訪ねてきては、
「木戸さんは?」
 と、邪気のない笑顔を見せて言うのだ。
 五月に京都で倒れ、そのまま息を引き取った木戸の死を確認し葬儀の差配もした伊藤が今更何を言う。
 山県は吐息を漏らし、下男を麻布の井上馨宅に走らせた。
「僕、あれだけ木戸さんに染井の別宅で療養してくださいといったのにいったいどこにいったのかな。自宅にもいないというし。 まさかお前のところで酒でもと思って確かめに着たんだけどさ」
 中に入れ、ととりあえずは酒を出し存分に飲ませ、潰してしまう作戦だ。
「本当に木戸さんは僕を困らせる厄介な人だ。困らせて……でも不思議だよ、山県。困らされることがどうしてか僕はいやじゃない」
 ずっとこうして困らされていくのかな。
 それもそれで僕は頭を抱えながらも、楽しいな。
 にこにこ笑いながら酒に飲まれた伊藤は、その場に倒れた。
 ちょうど井上が馬車で到着し、伊藤の惨状を見て「またか」とため息をつく。
「コイツは誰よりも桂さんがいないことを分かっているのに、相当認めたくないんだな。たまにこうして狂った振りをしなければやり切れんのだろう。 すまんな、山県」
 そのうちこういう異常はなくなるだろう。
 今は少しだけ不安定なだけさ。
 そう言って伊藤を抱き上げて連れて帰る井上の肩は、心持下がって見えた。
 伊藤だけではない。長州の人間は「木戸孝允」の死に捕らわれている。それがどう表に現れているかの違いだ。
 一番に素直で、そして行動派の伊藤は、認められない、ために狂気に身を任せた。
 おそらく一生認めまい。狂気を心に沈めて生きていく、そういう男だ、伊藤は。
 明治十一年に入り、これで四回目の「木戸さんは?」
 さすがの山県も辟易していたが、どうしてか追い出す気にはなれずにいた。


 井上馨は伊藤とはそれはそれは長い親密な付き合いを続けてきた。
 東京の「名所」である幽霊屋敷を度胸試しで二人で訪れたことさえある。井上は「やめておけ」と止めたのだが、伊藤が「全ては体験」といって 渋る井上の腕を引っ張って訪れたのだが。
「怖い、聞多。こわい……うわぁぁぁぁ」
 どうして怖がりであることを忘れて、こんな無謀をするのだろうか。
 思えばあの英国への密留学の時もロンドン塔に夜中「肝試し」といって周囲に赴き、ついに「肝試し」が幽霊体験になってしまった。
 あのときに山尾庸三に助けられ、以来伊藤は山尾に頭が上がらない。
『世の中、非現実などありえない』
 それを理論で証明しようと弁舌巧みに言葉を紡ぐが、実情はコレ。大の怖がりであり「非現実」を心の中で恐れているのだ。
「おい、そんなにしがみつくな」
 怖い怖い怖い、と井上の袖にしがみつき、ガサリと音が僅かに鳴っただけで体に飛びついてくる。
「あのな、俊輔。俺様は」
「うわぁぁぁ聞多ぁぁぁぁ」
 しがみつかれ、「帰ろう帰ろう」と小さく呟かれるはめになり、いったい誰が誘ったんだ。俺は止めたぞ、と井上は呆れつつも、 伊藤の襟首を引っ張ってとにかく幽霊屋敷より脱出した。
 俺は「子守か」と井上は睨みつけるようにして伊藤を見ると、
「あぁ怖かった」
 伊藤は呼吸を整えつつ、それからニタリと笑い、
「次はどこに肝試しに行こうかな」
 この性格がきっと将来「伊藤博文」を壊すことになろう。
 そして最後の最後までこの自分が「子守」になるのか? 勘弁してくれ、と井上は叫びたかった。
「付き合ってくれるよね、聞多」
 だが井上はどこまでも伊藤に関しては「自分が面倒を見てやらんと」という思いがある。
「しゃあないな。俊輔の面倒は俺様しか見れんし」
 そして井上も泥沼にともに足を突っ込んでいく。


 こんな伊藤を扇子一本で指図した男は、きっと長州の魔王「高杉晋作」しかいないだろう。
「俊輔、酒じゃ」
 はいはい、とせっせと酒を運べば、
「芸者が足らん」
 分かりました、と色町に出て行き、芸者をとにかく「質よりは量」といった感じで確保し帰れば、
 扇子片手にくかくかと鼾をかいて寝ている高杉は、
「桂さん」
 と、名前を呼び、
「桂さんに逢いたいんじゃ」
 せつなげな声まで出す。
 たまに伊藤はこんな身勝手な高杉を本気で殴りたい、と拳を握り締めることもあったが、
 自分にない天才性と自由気ままに唯我独尊に生きる高杉に憧れもあり、やはり好きだという思いもあったためせっせと動いた。
「俊輔、桂さんはどこじゃ」
 連れてきた芸者などそっちのけで、高杉は今は三味線片手に「桂」のことばかりである。
「京都ですね」
 伊藤は素っ気無く答えてみる。
「京都か。ちと遠いのう」
 赴くには時間もかかるな。旅費はどれくらい持っていけばいいかな。
 いつのまにか京都まで桂に会いに行く算段となっており、とんでもない、と伊藤は思った。
 藩の許しもなく京都にまで出向けば、それは「脱藩」だ。
 今まで高杉の素行のため何度も切腹の危機に面した伊藤だったが、
 桂さんに逢いたい、という私的理由で「脱藩」となり、切腹になるなどお笑い種ではない。とんでもない。
「高杉さん。確かに桂さんに会いたいという気持ちは分かりますがね」
「なんじゃ、俊輔。おまえは桂さんに逢いたくないんか」
「会いたいですよ。桂さんは僕が会いに行くといつも微笑んでくれて、あぁぁいつも晋作がすまないねって言ってくれて。 僕は桂さんのあの微笑で高杉さんの傍若無人も、いつものあの足蹴の痛みもすべて帳消しに……」
「なんじゃと俊輔。おまえ……」
「なんですか高杉さん?」
「桂さんが微笑むのは自分だけでいいんじゃ」
 生意気じゃ、と背中に足蹴を食らわされ、うげっと伊藤は仰け反った。
「そうやって……足蹴にするのやめてくださいよ」
「避けんおまえが悪いんじゃ」
「よければさらに腹蹴りや頭突きをするじゃないですか。あまり僕を苛めると桂さんに言いますよ」
 すると高杉晋作。見るからにその口元にニヤリと魔王然とした笑みを乗せ、
「言ったのう、俊輔」
 伊藤はビクリとなり、その場から逃げ出そうとしてもすでに遅い。
「うぎゃあぁぁ。どうして僕ばっかり」
 魔王の鉄槌を受けた伊藤は、まさにボロボロになるまで打ちのめされへなへなになる。
 これが井上や山県なら上手に高杉を抑えるのだが、伊藤はいつも余計な一言を言う。
 高杉に足蹴にされるのは、いつも伊藤と決まっていた。


 伊藤が一番に尊敬し、大好きと晩年になろうとも語った木戸孝允という人は、
「晋作、あまり俊輔を足蹴にするのはおよしね」
 と、足蹴にされる伊藤をそっと庇ってくれ、あの高杉を制止できる得がたい人である。
「そうなんですよ、木戸さん。高杉さんは僕を見ると足蹴にばかり……」
 泣きつくとよしよしと頭を撫ぜてくれるやさしいやさしい木戸。
 だがその懐きが高杉のお気に召さずに、またしても足蹴にされる悪循環にはまっていることを伊藤はついに知ることはなかった。
 木戸孝允、旧名桂小五郎は、幕末のおりは伊藤などの若手の揉め事を起用に処置してくれる頼もしい人だったが、
 明治に入り木戸と名を改めてから、それが一転し、
「もう私を放って置いてほしい。……萩に帰りたい」
 一種の操か鬱かの状態著しく、木戸は事あるごとに悲鳴のように「帰りたい」と泣いた。
「木戸さんがいないと僕ら長州閥はどうなるのですか」
 その木戸を宥め、時にはすかし、時には少しばかり説教をして伊藤はどこまでも木戸を政府に留めた。
「僕たちには木戸さんが必要なんです」
 伊藤が口説くたびに、木戸の気高い精神は悲鳴をあげ墜落していくその様を見ながらも、
 この片手は決して木戸という存在を離してはやれない。
(いつか僕が、あなたをこの国の名実ともの首班にして差し上げます)
 気高く美しいまでに崇高な貴方の精神は、この国そのものとなる。
 そのために、今どれだけ嘆こうとも離してはやらない。逃がしてもやらない。
 伊藤はそう自分の心に「言い訳」を繰り返した。
「私を帰して」
 木戸が悲鳴をあげればあげるほど、伊藤は自らの心を強くする。
 この人を支えるために強くあろう。この人の心を守るために自分は悪にでもなろう。
 例え今、この大切な木戸を傷つけるのが自分であろうと、それは輝かしき未来のための単なる一時の感情に過ぎないのだ。
「僕は木戸さんが大好きですよ」
 傷つけてなお伊藤は笑う。
 自らの意志に何一つ揺らぎがないため、伊藤は一貫して動じずに動いていく。そんな男だ、伊藤博文は。
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WEB拍手一覧 022 「人物性格物語⑤伊藤博文」

WEB拍手 人物性格物語⑤伊藤博文

  • 【初出】 2007年04月26日
  • 【終了】 2007年04月30日
  • 【備考】 拍手第22弾・小説五区切りで御礼SSとしています。