― 新政府の夫婦物語 ―
「先日、探さないで下さい、と置手紙ひとつ置いてまた家出したそうですね」
此処は新設された内務省の一室。
内務卿たる大久保に話があり、自ら足を運んだ木戸は、今、大久保が入れた茶を微笑みながら飲んでいる。
大久保がいれる紅茶は実に木戸好みにあわされていて、木戸は大久保のもとを単身訪ねる理由はこの紅茶が飲みたいからともいえる。
「家出? 私がですか?」
「この廟堂から家出をし、どこか落ち着く先を探すのは貴公くらいですね。実に……笑えない趣味といえます」
「別に家出をしているつもりはありませんよ。ただ……時に虚しくなり此処にいたくなくなるだけです」
「それを家出と普通は言わないでしょうかね」
「失敬な。此処は私の家ではなく仕事場なので家出とは言いません」
にこりと笑い、木戸は大久保におかわりを要求する。
「探さないで下さい、とわざわざ書き置くということは、探して欲しいということでしょう」
「まさか。一生、探さないで下されればこれほどありがたいことはありません」
「……これからはこの私にその置手紙を置いていかれるといい」
はい? と木戸は僅かの間瞬きを繰り返し、
「探してくださるのですか」
ふわりと微笑むと、
「政府の相方にして片割れを探すのは私のつとめと存じます。なにせ我々はこの政府の父と母やら夫婦やらしまいには……」
コトリと木戸は紅茶カップをテーブルに置き、スッと立ち上がる。
「その話は聞きたくはありません」
「木戸さん」
「それに何があろうとも大久保さんにはそんな置手紙を致しませんのでご安心を。これではまるで……家を出て行く妻のようではありませんか」
「そうだと思いますが」
出入り口にさっさと向かい、振り向いた木戸は壮絶な微笑みを顔面に称えた。
「私はその表現は好きではありませんので、二度と仰せになられませんように」
「木戸さん」
「紅茶ご馳走様でした」
「またいらっちゃい。私の方が一勝多いですからね」
「今日の夜には取り返します。……大久保さんの邸宅に今日は厄介になりますね」
そして木戸は廊下に出ると、あぁ本当に大久保の入れる紅茶は後味も爽やかだと思った。
あの紅茶が飲めるから此処に来る。そしてある勝負をつけるために。きっと明日も明後日も。
「ねぇ市。この頃、妙に大久保さんと木戸さん仲が良いと思わないかい」
そして此処は廟堂。主なしの木戸孝允の部屋。
「……洋行から戻り団結して政変を潜り抜けて信頼が生まれたとでもいうの? 笑えないね、伊藤さん。
あの洋行でもできうる限り大久保さんの顔は見たくないといった木戸さんだよ。
まさかまさか。たかが政変を手に手を携えて乗り切っただけで信頼なんか生まれるはずがないよ」
自己完結し、山田顕義はお気に入りのソファーにゴロリと幸せそうな顔をして横になる。
「昨日も一昨日も内務省にわざわざ書類をもって出向いているんだよ。今までは僕に渡していたのに」
伊藤博文は至極面白くないという顔で、見慣れた同郷の山田の顔を見据える。
「ふーん。伊藤さんは木戸さんの感心が大久保さんにいっているのが面白くないんだ」
ニタリとした山田はヒョイと起き上がり、
「そういうのを嫉妬っていうの知っている?」
すると山田よりは幾分年を重ねている伊藤は、わずかに余裕を見せ、
「僕よりもずっと市の方が面白くないと思うと思ったけど、違う?」
と返した。
木戸に弟のように可愛がられている山田も、この頃はとかく木戸と会えるときが少なく内心かなり面白くない状況が続いている。
以前ならば、この昼時に顔を出せば必ず木戸と会うことが出来たというのに、ここ数日は木戸は内務卿のもとに日参しているのだ。
「……伊藤さんに言われるのは面白くないけど、この状況はむかつく」
「しかも昨日も一昨日も木戸さんは帰りは大久保邸に寄ったみたいで、二人して僕をのけものにして何の密談をしているのかな」
「まさかと思うけど、あの大久保に木戸さんは懐柔されたなんてないよね」
「それはないと思うけど……」
伊藤と山田がジッと互いの目を見つめあったときに、当の噂されている本人は戻ってきた。
「おや、市」
木戸は山田の顔を見て微笑み、そして手に持っていた小さな包みを手渡した。
「今、大久保さんのところでお菓子を頂いてきたよ。あまいクッキー。市は好きだろうから一緒に食べようか」
内務卿室にはいろいろとお菓子もそろい、美味しい紅茶もあって、お茶をするには最高の場所だね。
そう木戸は始終にこにこと語り、伊藤と山田は互いに視線を向け二人してコクリと頷きあう。
(大久保さんのところにいかないように、美味しいお菓子と紅茶をそろえよう)
「内務卿のもとに日参している? 木戸さんが」
此処は陸軍省。陸軍を完全に統括している山県は、ネコを抱いて入ってきた三浦梧楼に眉をひそめた。
陸軍省を住処としているこの黒猫は別名を「災厄を呼ぶネコ」といい、ほぼ陸軍卿室でゴロゴロしている。
このネコに触れたおかげで事故にあったやら、大怪我にあったやら……という話はよく聞くが、
『おネコさまは大事におし』と祖母に言われている山県は、全くといって信じてはいない。
この黒猫は牝で、名を木戸が「三鷹」と名づけた。
「伊藤や市が顔色を変えているよ。この俺の記憶だと、三日前……あれ三日前?」
「三浦。三日を遡らせればおまえの記憶はあてにならん」
この三浦。パッと思い出せない記憶は曖昧なことが多く信じてはならないというのが長州閥の常識だ。
まだ二十代だというのにボケているという噂すらある。
「とにかく日ごと日ごと大久保と顔を合わせ、夜も大久保邸でなにやらしているらしい」
「あの二人は政治家だ。それぞれに話す事も多くあろう」
「そうだけど、山県。それも毎日……。俺は木戸さんと囲碁をしたい」
木戸邸に通い続け、夜な夜な木戸と囲碁をするのが三浦の楽しみといえる。
きれいな顔立ちをしどこかボーとしている風情だが、激情で動いたならばどこまでも飛んでいく。そんな三浦を木戸はいつも心配している。
「それで三浦。伊藤はなんといっている」
わざわざ三浦が滅多に足を踏み入れない陸軍卿室にネコを抱いて入ってきたのだ。
これはおそらく「長州閥」の総意として何かしら計画を持ってきたとしか山県には思えない。
「伊藤さんはこういった。まさに拳を握り締めてこう力説をしたよ。木戸さんと大久保の親密な関係は長州閥として多大な損害著しく、これは一致団結して打破せねばならない」
僅かに吐息を漏らし、なにを伊藤は騒いでいるのだ、と山県は頭を抱えた。
「そのためには毎日内務省に日参する要因を消さねばならない。そのため伊藤さんは毎日紅茶の研究を今まで以上に励み、市は毎日甘い洋菓子を……」
「三浦!」
そんなくだらないことを言いにこの場にきたのか。
そんな思いを込めて睨み据えると、三浦はにこりと笑い、
「そして山県にはこのネコを連れて昼と午後の休憩の時には必ず木戸さんの部屋に来るように」
「なんだと」
「木戸さんはネコが好きだから。ネコがいれば大久保の部屋などに行かなくてすむだろうって」
「そう言ったのか、伊藤は」
「うん」
三浦は黒猫を抱きしめて「今となっては救いの神」とその口元にチュッとする。
見事に黒猫「三鷹」に頬を引っかかれた。
「と、いうことを伝えたから。山県、これは長州閥の総意だからよろしく頼みますよ」
事後承諾を伝え、三浦は嫌がる三鷹を抱きしめたまま出て行き、山県は重い吐息を漏らした。
「確かに木戸さんを大久保に近づけるのはよろしくない」
銃刀を片時も離さずに在る鳥尾小弥太は、戻ってきた同僚の三浦の話を聞きそう感想を述べた。
「そう言ってくれると思っていたよ、小弥太」
今回は長州閥の連絡係となっている三浦は、黒猫をなつかせようと煮干をやり始める。
「だが梧楼。そのネコは……つまみ出してほしい」
「どうして?」
「俺は……ネコは……」
「あぁ小弥太はネコがダメだものね。でも傍におけばなかなかにかわいいものだよ。俺も黒猫などと思っていたけど、こうしてみると可愛い」
三浦のいる場所より一番遠くに椅子を持って離れた鳥尾は、
「それで俺はなにをすればいい」
「小弥太の役割は俺と一緒。特に無し」
「山県、伊藤、市に役割があり俺にはないのか」
若干面白くないという思いとなったが、それはあえて口には出さない。
「そう、ない。けれど俺と一緒に木戸宅に将棋とか囲碁をしにいくという役目はあるね」
「………そうか」
わずかに役目があると分かりホッとした鳥尾は冷ややかな顔を緩め、ひたすらネコを注視する。
「でもどうしてこの頃木戸さんは大久保のもとにばかり足を運ぶんだろう」
それは鳥尾にも疑問であり、長州閥全員の疑問とも言える。
「俺たちを放ってまで大久保のもとに。……苛立つ」
「梧楼」
「木戸さんは俺たちの木戸さんなはず。それが俺たちよりも大久保のもとに近寄ることは……嫌だよ」
木戸を崇拝し尊敬し、それは兄を思うよりも濃く上司に向ける目としては異常な三浦だ。
いつもボーとしてさして人に対する善悪を口にする男ではないというのに、
こうして下を向いて「嫌だよ」と口にするときは、かなり心は波風が立っている。
いつもならば鳥尾はその肩をポンポンと叩いてやるのだが、今はネコが怖くて近寄れない。
「小弥太」
「なんだ」
「俺は木戸さんが笑ってくれるならばそれでいいのに。けど、どうしてこう腹が立つのだろうね」
「梧楼」
「なに?」
「昨日の夕飯はなにを食べた」
エッ? と三浦は見るからに顔色を変え、指を折りながら今日の昼食から思い出し始める。
三浦はいい。なにかあればこの手の話題を振れば、昨日の夕飯を思い出す頃には全て「嫌な思い」は忘れている。
そして三日後、
「皆、どうしたのだい?」
昼食時、部屋に集まった人間を見て木戸は目を点にした。
「木戸さん、紅茶です。これ僕の自信作ですよ」
伊藤が紅茶カップに練習に練習を繰り返した紅茶を入れ、木戸に渡し、
「これは僕が買い求めてきたビスケットとチョコレートです。きっと木戸さんの口にあうはずだよ」
山田はせっせとそれこそ風呂敷いっぱいのお菓子を差し出す。
「二人ともどうしたのだい? それに市、そんなにたくさんのお菓子は廟堂中に配らないとなくならないよ」
「木戸さんに食べて欲しかったんだ」
紅茶を飲み「美味しいね」と木戸は微笑み、山田の差し出すビスケットも一枚手に取る。
そして今日の重箱係である鳥尾が、妻特製のお弁当を広げ、全員のために茶を入れ始めるのが三浦である。
ビスケットを紅茶に浸して食べ、そしてもう一枚手に取り、
「はい、崇月さんと三鷹ちゃん」
四等分して山県の腕の中に静かに抱かれている三毛猫の「崇月」と黒猫の「三鷹」に差し出す。
にゃあと鳴き、機嫌よくビスケットを食べる二匹のネコを見て「かわいい」と木戸はご満悦だ。
伊藤と山田が練った作戦は見事に功を奏し、木戸は大久保のもとに顔を出すことはしなかった。
八つ時のお茶の時間にもまた山田がお菓子風呂敷持参で顔を出す。
今、異国にある品川がもしこの場にいたならば、
「おぅ市、まるで風呂敷に背負われているようだな。俺が背負えば普通に見える風呂敷包みも市が背負えば至極大きく見える。けっこうなことだ」
と、でも評して、また堂々巡りの口げんかとなっていただろう。
だが山田と一通りお菓子を食べた木戸は、「少し出てくるね」と腰をあげた。
「えっ木戸さん……また内務卿のもとですか」
すると木戸はにこりと笑い、
「美味しい紅茶を飲めるのだよ」
と、上機嫌で内務省に向かっていった。
「伊藤さん、紅茶全然ダメじゃないか」
「僕はこれでも頑張ったんだよ。でも僕は飲めれば結局はなんでもいいからね。味の機微というものはどうしても分からない」
「あぁぁぁ! これじゃあダメだよ」
ビシッと山田は立ち上がり、伊藤を睨みすえ、
「偵察にいこう」
そそくさと木戸の後を追い始めた。
「待って、市。僕も行くよ」
内務卿室の前に耳を立てて陣取った二人は、
「木戸さん、気配に敏だから気付かないといいけど」
伊藤はそれが心配となり、また廊下を通っていく内務省の職員に「なにごと?」と不信な目を向けられるのが居たたまれない。
山田は真剣そのもので、ジッと聞き耳を立てている。
だが話し声は聞こえてこない。山田の耳を捕らえるのは「パチリ」という音ばかりだ。
(これは……まさか)
立ち上がりノックもなしに扉を開けて山田は内部に侵入した。
「うん? 山田君、無作法だ。ノックくらいはしたまえ」
「木戸さん」
だが山田は大久保の言葉など聞いていない。木戸のもとに駆け寄り、開口一番、
「こんな男と囲碁をするくらいなら、僕がいつでも相手をするよ」
と、大久保に人差し指を突きつけ、まるで宣告するように叫んだ。
大久保と木戸は二人して床に正座し、碁盤を挟んでいた。
「市。これは私と大久保さんの勝負なのだよ。先に相手より五勝差をつけたら願いを一つ叶えてくれる」
木戸は黒石を置いた。
「そうです、山田君。邪魔はしないで下さい。私は木戸さんより辞表を出す権利を取り上げねばならないのですから」
大久保は冷徹な顔のまま、碁盤を見て考えている。
「なにを言いますか。私が勝ち私の辞表に大久保さんも賛同するという願いを聞いてもらいます」
「それで今の勝敗はどうなんですか」
半ば飽きれて伊藤は二人に尋ねると、
「五十二勝、五十一敗」
木戸が答え、
「五勝も先に進むのはかなり困難ですね」
大久保は白石をパチリと打った。
「木戸さん、昼も夜もずっと大久保さんと囲碁の勝負をしているの?」
山田は木戸の腕にしがみつき、キッと大久保を見据えると、
「この勝負は譲れない。それに大久保さんの入れる紅茶はとても美味しいからね」
にこりと木戸は微笑む。実に楽しげだ。
「囲碁で島津公に近づいた私としては面子にかけて負けるわけにはいきませんよ」
「毎日、梧楼に市、小弥太と囲碁を打ち続けた私も負けるわけにはいきません」
もう勝手にしてくださいよ、と伊藤はなぜか大久保を敵視して憚らない山田の腕を引っ張り退散する。
だが山田はというと、
「伊藤さん、もっと紅茶練習してくださいよ。明日は木戸さんの部屋に碁盤を持っていく。大久保にまけるものか」
おかしな対抗意識なのか、それとも木戸を独占している大久保に対する嫉妬なのか。
その翌日より木戸を挟んで廟堂で囲碁の勝負となるが、誰がかかろうとも勝負にならない。木戸は強い。
山県が三度勝負し、一度勝つことができるくらいで、後の人間は全滅だ。
「大久保さんと打ってくるよ」
と、木戸が大久保のもとに行く度に、更なる長州の人間たちの悋気は強まり、
「囲碁強化作戦だ」
木戸と互角に渡り合うために、全員が囲碁の実力向上に尽くすことになる。
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