― 執事と陸軍の法王 ―
「閣下」
姪たつ子の婿となった平田東助は、叔父である山縣をこう呼ぶ。
それは俗に言う山縣閥の総裁に対する敬意でもあり、一介の部下たることを自らに徹底させるための呼び名だ。
同じ姪の婿でも、品川弥二郎などは村塾の同門ということもあり山縣と呼び捨てるのだが、
時には一筋縄ではいかない性格を物語るように「義叔父上」などと呼ぶこともある。
品川のその呼び名が、山縣はとても厭うていた。
「本日は桂さんよりお伺いがあります。書状をお預かりしました」
目白台にある日本庭園を基軸とする質実にて趣ある邸宅の名は「椿山荘」という。
元来庭園造りを一番の趣味としていた山縣が、自らのもてる力を思う存分発揮して設計に当たった名高い庭園である。
滝を基軸とし、暇があれば山縣は縁より庭をみることを日課とし、庭園を散策するのが唯一の癒しとなっていた。
「アレからか。……またろくでもないことであろう」
山縣は陸軍においての自らの子分一番手である桂太郎を、決して名前で呼ぶことはない。
私的には「アレ」であり、公的には必ず役職名で呼ぶ。
それを桂は気にしていることを山縣は十二分承知しているが、……桂、と呼ぶことはできない。
書状を受け取り、文面を流しつつ、山縣は吐息を禁じ得なかった。
「なんと」
平田が茶を山縣の前にコトリと置く。
「アレらしいが……私にはため息ものだ」
書状を平田に渡し、山縣はその目をわずかに細める。
「おやおや。夕涼会のご案内でございますか」
「今年は政財界の人間を集め、この椿山荘で実施したいといっておる」
「桂さんは宴がお好きで……しかも政財界の人間をこういう機会に手なずけるのはお上手ですから」
またしても山縣が吐息を漏らした時、
「承知したと文面をしたためます」
「東助」
「閣下は桂さんの要請をお拒みになることは滅多にないことです。ましてやこれは我々の力を見せつけるとき」
山縣はわずかに目尻をあげる。
「伊藤公も招待致しましょう」
「相変わらず」
目の前のテーブルに置かれた茶を手に取り、わずかに冷えた緑茶の口触りに満足しつつ、
「東助は私の意を察する」
「夕涼会の案内がきたよ。発起人は桂太郎、場所は椿山荘」
正院の一室にて、伊藤博文首相は茶を飲みながら、親友の井上馨と会談していた。
「俺のところにもきたな、昨年はいろいろと忙しなくてこんな風流な誘いもまったくなかったけどよ。いいんじゃないか。平穏無事これ結構かな」
冷茶を飲む井上は、伊藤の顔を見てニッと笑う。
「主催者が山縣有朋と書かずに、あえて山縣閥と記されている。おまえの挑戦状かな、これは」
自らの政党を率いることを念願としている伊藤は、現在憲政党を取り組んだ政党を準備しつつある。
それに対して政党政治というものに危機感を抱く山縣は、真っ向から異を唱え、今まで伊藤の政党作りを妨げてきた。
「聞多。僕は政党というものを作るけど、それをもって山縣の人脈で繋がっている派閥と対抗するつもりはないよ」
「どうかな。俊輔はそう思っていても、山縣はそうは思っていないかもしれん」
「派閥と政党。直にぶつかればどちらが強いかな」
伊藤はにやにやと笑い、さも楽しいという顔で茶を飲んでいたが、
「オイ、俊輔。あんまり山縣と派手な喧嘩はしないでくれよ。みていて冷や冷やする」
「派手? 僕は派手なことが大好きだけど、山縣と派手なことはしたいとも思わないし。したこともないね」
「よくいうぞ。おまえと山縣が喧嘩をしたら物が飛び交うだろうが」
「そのどこが派手なの」
平然と言ってのける伊藤に「おいおい」と長年の親友たる井上も吐息を漏らしてしまった。
「まぁ今回の夕涼会で、山縣の人脈というものをお手並み拝見といこうかな」
「人前で喧嘩はよせよ」
「僕も山縣もそこは大人だから大丈夫。喧嘩といっても、きっと嫌味くらいだよ」
それが山縣の火に油を注ぐのだろうが、と思うのだが、あえて井上はいわない。
今年の夕涼会。本当に涼を感じられる一日となるのだろうか。
さんさんと輝く真夏の太陽の日差しを見つめながら、もうすぐお盆だというのに今年も郷里に墓参りにはいけそうにない。
ぞくに山縣の子分ではないが、有能な側近と呼ばれる男がいる。
本人この呼び名をはなはだ面白くなく思い、ましてや「側近になったつもりなどない」と豪語してやまない児玉源太郎である。
「夕涼会か。相変わらず風流なことが好きな無骨な陸軍の覇王だな」
陸軍切手の頭脳の権威たる児玉は、今日も今日とて大量の書類と格闘している。
「で、発起人の桂。おまえさんの思惑はどこにある」
目の前でにこにこと笑いつつ、お菓子をぱくぱくと食べている桂太郎は、
「別段、思惑などないよ、児玉」
まさに鉄壁のにっこりを見せたが、児玉には実にうさんくさい。
「政財界のお偉方が来るんだろう。山縣閥の幹事長としては金集めのまさに好機だな」
「みんないろいろと思惑を持っているね。閣下も平田も……思うことがあってこの夕涼会を承諾したし。参加をいち早く伝えてきた伊藤・井上も同じ。
僕が動くと裏があると思われる。たんに……みんなで夕涼会をしたいと思っただけなのにな」
などとにこにこと、どこまでも笑いながら少しばかり寂しげに囁く桂の肩をポンとたたいて、
「では下心がない桂。その夕涼会を椿山荘であえて実施する心はいかに」
「決まっているじゃないか。僕と閣下の仲の良さを内外に宣伝するためだよ」
やっぱりか、と児玉はぐたりとなった。
「そうだよな。単なる夕涼会を椿山荘で実施するんだ。閣下病のおまえなら……それくらいは思うよな」
「じゃましないでよ、児玉」
心外な、という目をし、児玉はわずかに剣を含んだ目を桂に向けた。
「児玉のいたずらに閣下は頭を悩まして、そればかりを考えているの知っている。それに閣下は児玉の才を本当に評価しているから……」
「ありがた迷惑だ」
「僕としても怖いんだよ。いつか児玉は僕の地位をも奪い取る」
「あのな」
山縣の一の部下の座なら、借金で苦しむ児玉をして一万円で譲り渡されても、いらんと言い張るだろう。
それをいつからかこの桂が勘ぐり、ことあるごとにこうして牽制してくるのだ。
「俺は閣下にいたずらをしてからかうのが好きなだけさ」
「陸軍の覇王にいたずらができるなど児玉だけ。そのいたずらをもって児玉は閣下に近づいて」
「あのさ、桂。俺は閣下より桂の方がずっと好きだし、大事だぞ」
嘘偽りのない言葉を児玉はこれで何度口にしただろう。
もう少し単刀直入にいえば、友達の桂と上司の山縣なら、確実に桂の方に児玉の心は向いている。
「裏切らないでね、児玉」
「あぁ」
「裏切れば全力で僕は児玉を排除しないとならないからね」
桂を裏切るつもりがさらさらない児玉はニッとらしく笑う。
「夕涼会。俺は悪戯は今回は引き込めておとなしくしているよ」
「発起人は桂さん。主催は山縣閥って……なに考えているんだよ」
内務省の警察官僚たる大浦兼武が、好敵手ともいえる平田に詰め寄った。
「そのままですよ」
襟元をつかむ大浦の手を振り払い、平田はその怜悧な表情に冷ややかなものを付け加える。
「主催は山縣閥としたのは私です。この名を出し寄ってくるものと近寄らぬものを判別しようと思いました」
「平田、おまえ」
「桂さんはあくまでも閣下の第一の側近を気取り、あえてこの夕涼会を提唱してきたのでしょう。
私は……閣下の傍にあるものとして山縣閥の名を表に出すことで、桂さんを牽制したのです」
山縣閥はおよそ陸軍閥と官僚閥に分かれており、もとより軍人たる山縣ゆえに陸軍の人間が重きとされていた。
「陸軍閥の専横は認められません。ましてや私は大浦とは違って桂太郎を全く信用していない」
するとクックックッと大浦はその男らしく彫りの深い顔に愉悦の笑みをつくり、
「陸軍に対抗するか。閣下の寵を一に欲する桂さんと、おまえ……戦えるのか」
「戦うつもりはありません。同じ山縣閥の人員同士です。ですが牽制は今後のためにしていかねばならない」
「桂さんはいっていたよ。閣下のまわりにいる人間で一番に恐ろしいのはおまえだってな」
「まさか……」
「閣下の執事気取りのおまえを、どうやったら排除できるかってな」
山縣閥は人脈より成り立つ。陸軍省をはじめ、内務、司法、貴族院、枢密院、そして宮内までの進入をはかる。
おもに貴族院を預かる平田、清浦に対する山縣の信頼は絶大なものであり、昨今は陸軍派閥の人員よりも山縣に近いとされていた。
ましてや平田は山縣の姪の婿という不動な地位を得ている。
「私は執事という言葉を気にいっていますよ」
スッと立ち上がり、窓辺によった平田は、大浦に背中だけを突きつけ、
「決して私以外この地位を得ることはできない。私ゆえに特別なこの執事ですから」
「おまえも桂さんといい勝負な山縣病だ」
「大浦、桂さんよりは私は君を信じていますよ」
「それはありがとさん。……俺も平田が利益を得るがために閣下の傍にいるとは思ってはいない」
「当然でしょう」
閣下の死に水をとるのは、きっと私ですから。
平田は窓に自らの冷めた笑みを映し、それをみる。
振り返った時は、いつもの怜悧な平田東助の顔でいなければならない。
「それでは大浦。追加の招待状、君も手伝ってくださいね」
彼岸が過ぎたとある日。目白台にある椿山荘には朝から招待客の馬車が連なっていた。
すべてを平田に任せていた山縣は、あまりの盛況な様子に眉をひそめる。
「東助、いったいどれほど招待した」
「はい。それは推測できかねます」
「どういう意味だ」
「家族、友人をお誘いの上としたためましたから」
「………」
自らの右手と頼む平田が、一瞬山縣は奇怪な生き物に見えた。
「どれだけのものが顔を見せるか。縁を頼みに寄ってくるか。見物にございます、閣下」
これを機に平田は派閥の増員も頭に入れ、また違う方面への進出も考えているようだ。
「盛況でよかったね、山縣」
そこに今日は羽織袴を着こなす伊藤博文が顔を出す。
「お招きありがとう。……僕が主催してもこんなに人がくるとは思えないしね」
「……伊藤さんらしくないご謙虚なことで」
「さすがに山縣の片腕の平田。質よりは量を集めたということだね」
「お褒めのお言葉、痛み入ります」
この二人は顔を合わすとなにかと嫌味を言い合い、すぐに視線を離す。
では、と頭を下げ、平田は招待客に挨拶回りに出た。
「おまえは実に大変だよ、山縣」
自らの傍らを指さし「座れ」と目で告げた山縣は、続いて「何がだ」と目で問いかけた。
「そうだろう。桂太郎も平田東助も有能すぎるし、役割は違うけど。おまえの寵を争っている。今回のこれは二人の対決じゃないのかな。
発起人となった桂、人集めをし自らの力を見せた平田。さてさて陸軍の覇王、どちらをかうかな」
「別段」
「ついでにこの人脈を僕に見せつけたつもりならおあいにく様。僕は……力を得るためだけの人脈など欲しない」
そこで児玉がなにやらにやにやして顔を出し、
「閣下」
と、笑った瞬間、山縣はぴくりと背筋を伸ばした。
「このごろ、異国渡りの手品というものを俺は覚えたんですよ。閣下にぜひとも」
「けっこうだ」
この児玉が近寄れば九分九厘は悪戯と思う山縣は、早々に児玉から逃げにかかる。
「なぁ閣下。この児玉がわざわざ手品を見せちゃるといっているんだ。親切はありがたく……」
「いらん」
児玉をみればよほどの大事でなければ逃げるべし。
それがこのごろの山縣の「座右の銘」に等しい。
前方に進み、招待客に挨拶をと思い始めた山縣に、
「閣下~」
後方から聞こえる甘えた声。
「あのですね閣下。僕ですね……」
桂の声に山縣はさらに歩を進ませ、どこか人のいない場所に雲隠れしようとした。
静謐を好む山縣が、夕涼会という行事に乗ってしまったそのこと事態、今では後悔だらけだ。
とても涼みそうにない。実に頭が痛く、ため息ばかりの会だ。
それぞれの思惑が蔓延して、とてもとても息をすうことすらできない。
そっと人より離れ、邸内に戻り息を吸った山縣に、
傍らにそっと置かれる冷茶。
平田は何も告げずに頭を下げ、少し下がったところで山縣を見つめる。
「どれだけの策が、思惑が、この会には込められているか」
「しかし閣下。心あるものは、閣下とともに夕涼みのこの会を過ごしたいだけと存じます」
私もその一人。策も思惑も今は捨て、ただこの一時を楽しみたい。
陸軍の覇王とその執事は、視線をあわせた。
「……物好きな」
山縣は庭をみる。平田はその山縣の背をみる。
二人の距離はいつもこのくらい。変わらずに……この距離が心地よい。
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