拍手041弾:

― 首相小話② 黒田清隆 ―

 第二代内閣総理大臣 黒田清隆。
 明治二十一(1888)年 四月三十日 ~ 明治二十二(1889)年 十二月二十四日。


「黒田いる?」
 廟堂の内閣総理大臣室に軽くノックをして入ってきたのは、七五三とも見える大礼服を着た小柄な男だ。
 だがその男の顔を見た瞬間、仏頂面の黒田清隆がわずかに笑った。
「山田さん」
「ちょいといいか」
「どうぞ」
 長州閥の重鎮の一人にして現司法大臣の山田顕義を、首相たる黒田が腰を低くして招き入れる。
 山田は部屋の中をチラリと見て、誰もいないのを確認し、中に入った。
「どうかされましたかな」
「うーん。まわりが騒然としているだろう? 僕、そういうのは好きではないからさ」
 山田は思いっきり両腕を宙にあげて体を伸ばし、黒田にニヤリと笑った。
「早く言えば伊藤さんの得意顔が見られたものじゃないというかさ。それで一番静かな此処に来たってわけ」
 山田は異国製のソファーにゴロリと横になり、慣れない革靴をポイッと放り捨てた。
「長州の人間が、長州一の功労者に面白からずですかな」
「僕は伊藤さんが好きではないからね」
 初代首相にして長州閥の一番手に立つ伊藤博文と、元は陸軍中将として戦略の申し子と言わしめた山田顕義。
 この二人の共通点は共に長州閥で、あの松下村塾の吉田松陰に教えを受けたということだろうか。
「それにさ。もし木戸さんが生きていたら、今のように伊藤さんは決して得意顔ではいられなかったさ」
「山田さん」
「そうだろう、黒田。この日を伊藤さんは枢密院議長。おまえは首相で迎える。けどさ、大久保さんと木戸さんが生きていたら……それはなかった」
 山田は軽く起き上がり、テーブルの上に乗っかっている飴籠に手を伸ばす。
「繰言だけどさ。それでも……嫌なんだよな。伊藤さんが」
 重い吐息をこぼした山田の顔を見つつ、黒田は長州閥の一番手たる男の顔を思い出す。


 考えることもなく、黒田は伊藤博文という男が苦手だ。
 それは数年前のあの日。
 明治十年五月の京都より続いている。
(……今日はおかしなことばかりを思い出す)
 おそらく国家の歴史に輝かしき記録を刻むこの日において、黒田の胸には焦燥という二字しかなかった。
 あと何時も経たずに、大日本帝国憲法が公布される式典が催される。
 陛下の名で発令され、首相たる黒田に陛下より憲法書が手渡される。それは型どおりのことだ。
 黒田は憲法制定にはほとんど携わっていない。
 この国家の体型は、枢密院を設立し、自らが「法の番人」と称した枢密院の議長となり、草案を組み立てに尽力した伊藤博文の手によるものだ。
 それは誰もが認めるものであり、これよりの式典において黒田は「首相」という置物でしかなく、光はただ伊藤とその側近たちにあたる。
 ソファーにまた横になった山田を見つめ、山田さん、と声をかけた。
「北海道はよかところでごわした」
 と、無意識にお国言葉でもれた一言は、本音だった。
「北海道? 僕はあの五稜郭の時しかいっていないけどさ。あの寒い未開の地のどこがいいのさ」
「未開の原野は実に美しかった」
「ふーん」
「この黒田は……北海道開拓使が一番に性に合っていたとおもっておりもす」
 かの開拓使払い下げ問題により責任を問う形で開拓使長官を辞任した黒田であった。
 それ以降も、あの未開の原野を黒田は夢見る。
 ほとんどを東京で事務一般を取り仕切ってきたが、時に訪ねたあの地の広大さには胸が押しつぶされるほどの感動を味わった。
「内閣の首相までのぼったおまえが言うのか、そんなこと」
「この座とてお飾りなもの。俺にはさして政治家としての器はない。一介の官僚がよくあっていた」
「黒田」
「山田さん、この黒田は到底長州の長たる伊藤には政治では及ばん。あの男は策士でありすぎる」
「そして策士は策にうぬぼれて、必ず失敗ばかりをするんだ。それに黒田、そんなに気にかけることはない。この僕は伊藤さんという人間が好きではないのさ」
 こうまで伊藤を容赦なく糾弾することができるのは、同じ長州の人間たちだけだろう。
「前から言っているけどさ。僕はうそつきは嫌いだ。政治には裏表があり平然と嘘が飛び交う世界でも、嘘は大嫌い。どんなに優しい嘘でも僕は憎む。 伊藤さんは笑って嘘をつくよ。どんなに痛い嘘でも国家のためならば、よりいっそうにっこりと笑う。そこが気に食わない」
 山田の目には、一瞬だけ明らかなる剣が含まれた。


「あぁぁ、山縣の奴がいちばんにずるいな。内務大臣辞してこの日を見ずに洋行なんかにいきやがって」
 思えば、山田がねぐらにしているのはたいていは山縣のところだ。
 俗に言う「陸軍の法王」たる山縣有朋は、現在全ての職を辞して洋行中にある。
「昔から脚光を浴びる場所が苦手でさ。……伊藤さんがこの日に山縣がいないことに随分お冠さ。自分と山縣との差を見せ付けてやろうとでも思っていたのかな。 そうなら山縣はちょうどよい頃合を見て国外逃亡。いい気なものさ」
 長州閥と一括りされているが、その権限は主に二人に分散されている。伊藤博文と山縣有朋という政と軍の巨頭に、だ。
 黒田はかつては同じ階級にあった山縣とさして親交はないが、伊藤と比較すれば十二分に理解できると思う。早く言えば「伊藤よりはましだ」なのだ。
 伊藤という男は、自らも策士を気取るだけあり頭の回転が非常に早い。あの男の打ち出す策も政治も実に凄味すらある。そのため伊藤には崇拝者が多いが、不思議と子分はできない。
 伊藤という人間は自らを中心とした派閥をつくることに無頓着であり、仕事面で接する人とその仕事に際しては最良の付き合い方をするが、仕事を離れれば「それで終わり」という明朗な対人関係とする。
 それに比較すると山縣には多くの子分があり、その子分たちの人脈網をめぐらして一大派閥「山縣閥」が形成される。
 同じ長州の人間でも面白いくらいの対極な二人だ。
 一度面倒を見たならば死ぬまで面倒を見る山縣と、仕事面は仕事面と割り切る伊藤。
 もとより長州という国には、目上のものが目下のものの面倒を見る風習が戦国の世より他国に比較してもより深く藩内に広がっていた。
 山縣が風情からして暗闇を背負ったかのようで、寡黙にして喜怒哀楽を表さぬというのに、面倒見だけはよいのは、その藩の風習によるものなのだろうか。
(あの方も……とても面倒見が良かった)
 脳裏に浮かぶ穏やかな面差しは、この冬の一日にはそぐわない春の香を伴い、黒田はらしくもなくフッと笑みを刻んでしまう。
「伊藤さんが自らの立場や地位を一番に見せ付けたいのは、山縣だろうね」
 人臣の極みにあり、誰とも対等に肩を並べぬ男が、ただ一人気にするならば……。
 それは同じ長州閥の一人にして、幕末の昔からの長い長い付き合いとなっている「天敵」
 一歩前を進むものと、もう一歩で肩を並べられるもの。
 黒田には伊藤の背中はあまりにも遠く、並びたいとも思わないものだったが、山縣にはその背中はもうすぐそこだ。
「山田さんは山縣さんがお嫌いと聞いていたが」
「嫌いだよ」
 ニッと笑うと、山田はその童顔過ぎる風情もあいまって少年のような幼さをかもし出す。
「けれど山縣は僕に嘘はつかないさ」
 そして飴を二個口にいれて、山田は天井を眺めていた。


「あのさ、黒田。前々から聞こうと思って聞けなかったことがある」
「なにか」
「いや……なに。あのさ、もう十年以上も昔のことだけど……おまえがあの鹿児島で参軍を辞して京都に向かったとき」
 西南戦争の際、黒田は援軍を率いて鹿児島に向かった。
 大恩ある西郷に刀を向けることに踏み切れず、また体調などの面もあり、率いた軍勢をもう一人の参軍たる山縣に渡して自らは京都に退いたのである。
 あのとき、鹿児島を去る際に、山田が言った。
『木戸さんに会えるのだね、黒田は。僕たちが毎日毎日会いたいと思ってやまない人に会えるんだな』
 軍服がまさに七五三の衣服にしか見えず、長身の黒田は五尺ほどの背丈の山田を見下ろす形で見つめる、と。
『必ず伝えろ。木戸さんの見まいをして必ず伝えろ。いいか、僕たちみんな木戸さんに会いたい』
 それを我慢して一刻も早くこの戦争を片付けるから、
 戦が終わったら真っ先にあなたに会いに行きます。
 それまでにはどうぞ元気になり、僕たちを迎えてください。
 山田は、その時必死に泣きたいのを我慢し、黒田に千羽鶴を渡した。
『長州のみんなで作った。木戸さん、折鶴好きだから……喜ぶと思う』
 こういう長州勢のいざとなると団結する力は、今もって健在である。
「今まで怖くて聞けなかった。認めたくなくて……聞けなかった。おまえがあった時の木戸さんは……」
 朝から脳裏によぎる薄幸なきれいな人の面影。
 最期のやせ細った哀しげな面差しと同時によぎるのは、あの怒りに満ちた伊藤博文の顔だ。
「千羽鶴を喜ばれて、貴方方が戻るまでには元気になろうと微笑まれた」
 ……ありがとう、黒田君。私は……この千羽鶴を折ってくれた人たちに恥じない生き方を最期までするよ。
 その一言は、黒田の胸にのみおさめられ、あえて山田には違う言葉を渡した。
 淡く今にも消え入りそうな微笑をしたあの人。
 かつて酔いに酔ったこの自分を放り投げたとは思えぬ……衰えだった。
 その傍らにて介抱をした伊藤博文は、怒りの感情を何一つ隠さずに黒田に投げつけていた。
 黒田は木戸に「八代口戦記」「戦闘図」を贈り、しばしの後に近衛別邸を辞去した。
「そう喜んでくれたんだ。……なんでだろうね。僕はそれを聞くのが、今までとても怖かったんだ」
 よかった、と素直に喜び、かの人の面影を思い出してか目頭を潤ます山田を見つめ、
 黒田の思考は、あの木戸が静養していた近衛別邸を辞去して後のことを思い浮かばす。


「黒田君、待ちなよ」
 後を追って走ってくる伊藤の姿を肩越しでとらえ、歩を止めた黒田には嫌な予感がした。
 先ほどの怒りに満ちた伊藤の表情はなにを意味しているかは掴めなかったが、今までの少なからずのこの伊藤との付き合いの中で、あのような視線を送られたのは始めてだったのだ。
 山田ほどではないが小柄な伊藤は、振り向いた黒田を憎らしげに見つめ、そして襟元を掴んだのだ。
「なにをするでごわすか」
 伊藤の目は、怒りをむき出しにしたまま、だ。
「ようやく木戸さんに少しばかり生気が見えてきたところに君が来た。軍服を着て、しかも戦に匂いを染み付かせて」
 木戸さんには静養が一番に必要で、なによりも血なまぐささは禁物だというのに。
 君のせいで、またあの鹿児島のことを思い出し、見るからに気にやむようになった。
 おそらく木戸の介抱と、大阪中を名医を探して駆け回っているせいか。伊藤は誰にも分かるほどにやつれていた。
「戦の状況なんか毎日のように報せてくる山縣の電文と、ついでに書状で分かっているんだよ。それは遠い遠いものであるから僕は許してた。 けど、よりにもよって君が来た。鹿児島の匂いをつれて、君が来た」
 もしこのまま木戸さんが鹿児島の戦に精神を捕られ、狂気に身を沈めるか、
 自らが鹿児島に赴き西郷と刺し違えるなどと言い出したら、
「僕は君を一生涯許さない」
 人をもし視線の矢で殺めることができるとするならば、この時の伊藤の目はまさしく黒田の心臓の真ん中に突き刺さったものであった。
「市たちも何を考えているのか。思いを込める千羽鶴。そんなものはいらない。木戸さんはなおるのだから、病を思わせるそんなものは贈って欲しくなかった」
「戦地にいるものは死と隣りあわせだ。明日は我が身かも知れぬという中で、人一人の命を気遣う心がどれだけ貴いか」
「そんなのは知らない。僕には戦地の死よりも、木戸さんを取り囲もうとしている死の気配の方が大変だ」
 死を思わせるもの、死に近いものは二度と近づけないで欲しい。
 伊藤はそういってくるリと身を翻し、家の中に戻っていった。
 黒田があえて山田にあの日のことを報告しようとはしなかったのは、この伊藤の言動だ。
 京都府知事の槙村正直によれば、この時、伊藤は「精神の限界」だったという。挙動もおかしく伊藤らしい快活さはどこにもなく、 ただ「木戸さんは死なない」という一点に捕らわれ、死の匂いを認めたくなくて足掻いていたのだ、と。
 だが黒田には一生忘れられぬ伊藤の素の顔だった。
 あれほどに人より憎しみの感情を投げつけられたのは、後にも先にもあれが最初で最期だろう。
「山田さん」
 心地よさげにソファーでうたた寝をはじめた山田。
「眠られれば式典に遅参することになる」


 そろそろ宮中に参内しなければならない時刻だ。
 寝顔がまさに無邪気で、さらに顔を幼く見せる山田をゆすり起こそうとしたときに、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
 声をかけると、黒田に負けぬ長身の男が入ってきた。
 逓信大臣榎本武揚。黒田にとっては数少ない友人であり、そしてかつては敵だった男だ。
「首相はどこだ、と伊藤さんが叫びまくっておりますよ」
 そうか、と黒田は軽く笑んだが、さて山田をどのようにして起こせば良いのか、迷っているようだ。
 榎本は山田を見て、そして黒田を見つめる。
 かつての五稜郭の将は、箱館戦争の際、自らを陥落せしめた薩長の将の顔を見て感傷めいたものでもよぎらせたか。
「山田さんくらいの大きさならば、おいが担ぐか」
 黒田は山田の寝起きは最悪とは知っていたため、とりあえずは起こさずに担ごうと思ったのだが。
 ぱちりと目覚めた山田は、
「誰が豆粒のような背丈しかなく、軽軽と担げるほど小さな山田司法大臣だ」
 一通り捲くし立て、後に黒田の横に榎本の顔があるのを認め、にたりと笑った。
「これは榎本逓信大臣。お見苦しいところをお見せしたよ」
「……いや……」
 榎本と山田は表面上仲が悪いということはないが、腹の中ではいろいろと思うところがあるようだ。
 遠くからは「市、どこにいる市」という井上馨の声も聞こえてくる。
「さて、と」
 ヒョイとソファーより飛び降り、山田は放り投げていた靴をはいた。
「伊藤さんの一世一代の晴れ舞台を見てやろうかな。この式典が終わったら、首相はおまえなんだから。好きなように鹿鳴館でいってやれよな」
 あとでな、と山田はひらひらと手を振り、室内より出て行く。
 やはり誰が見ても大礼服が七五三の衣装にしか見ることができない山田顕義だ。
「それにしても不思議なものですな」
 黒田も榎本と肩を並べて部屋を後にする。
「何がだ」
「かつてこの榎本を攻め立てた両雄と、憲法制定の式典に出ようとしている……この時がです」
「……確かに」
 黒田は友の肩をポンと叩き、首をわずかに振った。
「だがそれはもう遠き昔のこと、だ」
 たった二十数年。それでも昔のことにせねばならない。
 榎本の感傷的な目に触発されつつも、廊下の先にある男の顔に黒田は現実を思い知る。
 大礼服に身を包んだ伊藤は、誰よりも輝いて、黒田の前にあった。
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WEB拍手一覧 041 「首相小話②黒田清隆」

WEB拍手 首相小話②黒田清隆

  • 【初出】 2007年10月04日
  • 【終了】 2007年10月20日
  • 【備考】 拍手第41弾・小説五区切りで御礼SSとしています。