拍手044弾:

― 首相小話⑤ 伊藤博文 ―

 第五代内閣総理大臣 伊藤博文。第二次内閣。
 明治二十五(1892)年 八月八日 ~ 明治二十九(1896)年 八月三十一日。


 世に言う選挙大干渉により、閣僚陣が「責任追及」を声高に叫んで辞表を叩きつけ、第一次松方内閣は倒閣した。
 世情不安定の中、次なる組閣の大命は政府の一番手にあげられる大物伊藤博文に下ると言われている。
 政府の現状に目を光らせながら、山縣有朋は鴨川に面したこの京都無鄰庵で状況を高見の見物でいた。
 誰に組閣の大命が下ろうとも、山縣には関係がない。誰がなろうとも大干渉にめげずに勢力をつけた民党と対峙するのが目に見えている。
 ここで様子見をし、なにかあれば元老の一人として物を申せばいい。
 そんな時に、この要請状が届いた。
 差出人に伊藤博文とあるのを見て、
 まずは読まずに放り投げておいた。
 三日後にまた書状が届いた。今度もそのまま放り投げた。
 読まずとも分かる。あの男とは付き合いが長い。
(次の内閣の閣僚要請状。ほぼ事後承諾に等しい)
 伊藤らしいやり方だ。
 次は翌日に書状が届いた。おそらく返信がないのに焦れたのだろう。その書状は今度は中身を見ずに燃やしておいた。
「一人で民党と戦え」
 下野し自らの与党と為す政党を作ろうなどということを考えている伊藤には似合いだ。


「今日も返書が来ないよ」
 廟堂の一室。次期内閣総理大臣として、第二次政権を打ち立てることが内定している伊藤博文は、親友の井上馨を招いて茶を飲んでいる。
「読んでないんじゃないのか」
 入れられた茶をふーふーと必要以上に息を吹きかけている井上は、あいも変わらずに猫舌だ。
「なに? この僕からの恋文をあの男は読んでいないというの」
「そうだよ」
「なんという奴だ」
「こうじゃないか。伊藤さんからお手紙きたよ、山縣さんたら読まずに捨てた~。しっかたがないから、もう一度かいた。さっさと返事よこしたらどうだ……ってな」
 井上は歌うようにいってニヤリと笑う。
「もう五通も書いたんだけど」
「また伊藤さんからお手紙きたよ。山縣さんたら読まずに焼いた~。怒りまくった伊藤さんは、今度は京都に押しかけていく」
「他人事だね、聞多」
「まぁ押しかける前に次は呪いの手紙かな」
「当たり前さ。ちゃんと僕は司法大臣の地位を用意して山縣が上京してくるのを待っているというのにさ。梨のつぶて」
「まぁ山縣としたら、閣僚になる気がないんだろう。要職もほとんど退いて、今では陸軍と官界の黒幕などと言われるのに気分が良いらしい」
「人に厄介なことをやらせるんだから、協力してもらわないとな」
 山縣がやらせるわけじゃないだろう、という心の声は井上は飲み込んだ。
「超然主義の山縣の主義どおりに、藩閥の主要人間を並べて民党と戦う決意をしてやったんだ。要請状を焼いているって……許せん」
 それは井上の勝手なる推測なのだが、伊藤の頭の中ではそれは事実になっているらしい。あながち間違ってもいない。
「もう一通書いて返信をよこさなかったら、呪ってやる。ついでに事後の事後承諾で勝手に司法大臣にして、次官には……そうだね。 あの山縣が寒気を催す児玉源太郎を無理やりつけてやるから、ざまぁみろだよ」
 ……伊藤さんから手紙がきたよ。山縣さんたら押し黙ってみたよ。その手紙からふきつな気配、かんじとったから仕方なく読んだ。


 六通目の書状が届いたとき、いつも通りに焼き捨てようと思ったのだが、
 その書状から立ち上がるおぞましいまでの妖気が、山縣の手を止めさせた。
 ……この書状を焼いてみろよ。僕、必ずおまえを呪う~~。
 といった声が聞こえてくる。
 今すぐ破り捨てたいが、妖気があまりに陰湿で、ましてや体中に取り巻き「読め読め~」といっていた。
 陰湿な妖気を払いのけるが、それでも体に絡み付いて離れようとしない。
 ここでようやく山縣は封を切り、中より便箋を取り出す。
「民党を打倒するため、藩閥の力を結集することにした。明治政府末路の一戦に貴殿も加われたく……この手紙も焼き捨てたら呪う?」
 ほぅ……随分と読みが深い。手紙を焼いていることをどうして気付いたのだろう。
 山縣はすぐさま書状をしたためた。
 ……首相退陣以降、小生は本来の職分たる軍事に意を注ぎ、政治に関心を断って久しい。
 このような小生の入閣は、国家にも内閣にも益たるものなし。
 したためた書状通りに、山縣は断固として入閣の意志がないことを伊藤に突きつけた。
 呪うならば呪ってみるといい。
 伊藤の呪いなど、さしたる力はないのは体験済みといえる。
「おまえに貸しが百二十五ある。その私を強引に入閣させられると思うか」
 山縣の好みを体現した「無鄰庵」にて、少しだけ離れた場所で国を見ていくのが今の己にはあっている。


「この馬鹿げた書状を見てよ。ようやく返してきたかと思ったら、これだよ」
 放り投げられた書状を手に取り、中身を読んで井上は大笑いした。
「さすがは山縣。貸しは百二十五ある、とちゃっかり書くところがらしいぜ」
「なにがらしいだよ。……僕がこれから組閣する内閣には、山縣は欠かせないんだよ。陸軍の大元締め。官界の黒幕。絶対必要」
「山縣の名がな」
「そう……だぁからこんな書状など抹殺」
 足で何度も踏みつけて、伊藤は書状を破り捨てた。
「山縣さんからお手紙きたよ。伊藤さんたら踏みつけてやぶった。しかたがないから、またお手紙書くよ。今度はいろよい返事がほしい」
「どこまでも他人事だよね。次期内相」
「そうでもないさ。だが結局は引き受けるだろうからよ」
「そうだよね」
「当たり前だ。超然内閣で民党と戦う。ついでに司法相として司法までも山縣閥に取り込める。こんな甘い条件に……あいつが乗らんと思うかよ」
 そこで伊藤は思いっきりため息をついた。
「あの増殖傾向にある山縣閥。また増えるの?」
「そう。そうしておまえの首を絞めるぞ」
「………」
「辞めるか、入閣要請」
「冗談じゃない。聞多、硯と筆。呪いの書状を叩きつけてやる」
「ほどほどにな」
 手をひらひらと振った井上には、この伊藤にはない情報が入ってきている。
 数年前より病んでいる山縣の恋女房友子の容態が、この頃はよろしくないようだ。
 騒がしい東京より離れ、京都の無鄰庵で養生をさせているが、容態は芳しくない。
 山縣としては最善の治療と高価な薬を買い集め、友子の側をよほどのことがないがきりはなれないらしい。
 一回り年が離れた恋女房は、山縣のいちばんの宝物で、
(アイツの今では唯一の鎮静剤だ)
 そして、まだ幼い山縣の三男は、病弱で、いつ倒れるか知れない身という。
「呪いの手紙を綴ってやる。見ていろ~~ 山縣抹殺!」
 井上はやれやれ、と頭をかいた。


 七通目の書状にはこうある。
「内閣に加わらないならば、小生も組閣せず、下野し、生涯政府に関らずわが道をいく。その際、必ず呪う……だと」
 ……井上馨ならばこういうだろう。
 伊藤さんからお手紙きたよ。山縣さんたらしゃあなく読んだ。それはかなしい呪いの手紙、さっさとあきらめ上京したらどうだ?
 だが伊藤の呪いの手紙も功をそうせず、もたしても藻屑になったとき、
「だんなさま」
 病んだ身には夏の暑さが実にこたえるようだ。
 春よりは幾ばくかこけた妻の顔を見て、胸に迫る危機感を山縣は無理やりに腹の底に押し込めた。
「寝ておれ」
「今日は少しだけ体調がよろしいのですよ。きっと快方に向かっているのです。朋輔さんのお体もよろしいようですし」
「………」
「京都の静謐な空気は私たちにはあっているのでしょう。大丈夫ですよ、必ずよくなります」
 そう儚く微笑むたびに、山縣の胸に到来する「恐怖」を友子は理解しているだろうか。
 五十を過ぎて後の子どもたる朋輔は、病んでからの友子の子であるからか生まれつき病弱だった。
 姉寿子の次男伊三郎を養継子とし、山縣家を継がすことは朋輔が生まれたその時には決まっていた。
 そのため朋輔は山縣が一時変名として名乗った「萩原家」を相続させることにし、長ずれば分家させる。
「……友子」
 そっと妻の痩せ落ちた肩を抱き、その手を取って、山縣はいった。
「私を一人にはするな」
「……」
「友子」
「だんなさまには掛替えのない友人がおられましょう。天敵とかいいましても、伊藤さまや井上さま。いつも気にかけて、なにかあれば一緒に飲んで。 大切な昔馴染み。……一人ではありません」
 あのようなものが「大切なはずがない」と思ったが、
 友子が咳き込んだので、背を摩りながら、この感覚をまたしても味わうのか、と胸が痛む。
 喪失の恐怖。
 何人もの子を失うたびに嘆きを抱いた。
 十数年前に木戸孝允が死した時、胸にコトリと氷塊が落ちたあの感覚は……二度と味わいたくはない。
「私より先に逝くな、友子」
「大丈夫です。……上京して、伊藤さまたちをお助け下さい。友達に呪われたらいけませんよ」
 友子が微笑むその儚いまでの静謐さは、木戸が死す数ヶ月前に浮かべていた微笑によく似て、
 胸が痛んで、痛んで……山縣を苦しめる。


 山縣は妻子を無鄰庵に残したまま、上京した。
 それは、司法大臣就任を受諾と暗黙のうちに伊藤に突きつけたも同様のことだった。
「あと三通書状を送って、もしも計十通の書状を燃やしたら、事後の事後承諾で次官は児玉君にでもしてやろうと思っていたんだよ」
 政府の一室でその恐ろしい企みを聞き、山縣は悪寒が駆け巡った。
 児玉源太郎を次官? あの監軍のおり参謀長として側にあったときの恐怖が再び到来していたかと思うと胸がキリキリとする。
「よかったね。この次期に上京して。次官はおまえに任せるよ」
「当然だ」
 井上はまたしても茶をふーふーと冷ましている。
「伊藤さんからお手紙きたよ。山縣さんたら観念したね。しかたがないから、上京したよ。ようやく一件落着だよね」
 などと歌う井上を、山縣はスッと瞳を細めて睨みつけた。
「司法省を好き勝手にできるんだ。そう恨むなって」
「私は無鄰庵の生活が気に入っていた」
「そう長らく高見の見物はどうせできんのさ。観念しろ。こうまで俊輔に呪わせたんだからよ」
「そうだよ。久々に念を込めておくった手紙どうだった」
 あの妖気が凄まじい手紙のことか。思わず読んでしまった己を今更ながら後悔した。
「僕の計画の一翼を担ってもらうよ」
「これで貸し百二十六だ。倍にして返してもらおう」
「僕にのしをつけて貸しを返させる人間になってみな」
 山縣は吐息をひとつ漏らし、伊藤手ずから入れた茶を飲む。


 第二次伊藤内閣はその半ばにして日清戦争がぼっ発する。
 この国難は乗りきるが、板垣退助の入閣などをめぐり改造内閣は機能せず、ついには瓦解する。
 山縣は内閣発足の一年後、枢密院議長に転じた。それと同時に連れ添った妻を失っている。
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WEB拍手一覧 044 「首相小話⑤伊藤博文」

WEB拍手 首相小話⑤伊藤博文

  • 【初出】 2007年11月18日
  • 【終了】 2007年11月25日
  • 【備考】 拍手第44弾・小説五区切りで御礼SSとしています。