― 食事バトル? 木戸VS山県 ―
「これだけは、お食べください」
「嫌だ」
「……これだけで今日は良いとする」
「……今日は食べたくはないのだよ」
「だが食べねば……また肉が落ちる。よろしいか……」
またいつもの山県の説教が始まると、木戸が心の中で身構えたときだ。
ここで長々と説教に入るのはいつものこと。しかも二の句も告げられないほど説得感のある話が展開され、
最期には「食べられぬというのならば」という伝家の宝刀に、くたりと頭を垂れるのだ。
されど、寡黙な山県にしてみれば饒舌とも言える口ぶりは今日は一向に始まらない。
「…………」
怪訝に思った木戸が頭をあげると、なぜかジーッと凝視する山県の視線とぶつかった。
「狂介?」
どうしたのだい? と首を傾げると、唐突に山県の手が木戸の手を掴み、
「貴兄……」
「なんだい」
「また痩せられたな」
ギクッとなった木戸は、咄嗟に山県の手を振り払ってしまった。
「あっ……ごめん」
「その痩せ方は尋常ではない。やはり……この二倍は食していただかねば」
ギロリと睨み据えてくる山県の目に剣呑なものが浮かぶのが見え、
木戸はこの時、くたりと頭を下ろした。
「考えてみたら、狂介。私は痩せたかもしれないけど、逆に所々に筋肉がついたと思うのだけど」
和服の袖をめくり、木戸は「ほらほら」と山県に見せる。
「どこが?」
「少しだけ肉が落ちたけど、その分筋肉がついたのだよ。
最近はよく大久保さんを追いかけているし、ついでに刀も振り回すから良い運動になっているのだよ」
つい昨日も大久保を廟堂内で追いまわし、最期には打ちのめした。
三日に一度はこの「追いかけっこ」をしており、この頃では全力疾走をしているのにさして息も上がらなくなった。
よいことだ、と木戸は内心思っていたりもする。
こんな思いを大久保が耳にしたならば、げっそりとし「いい迷惑だ」と低く呟いただろう。
「運動は悪くはない」
家に引きこもり、一歩も外に出ない状況と比較すると格段に健康的だ。
それが木刀や刀や十手……最近になり伊藤がどこからか入手してきた「はりせん」を振り回し、
廟堂の廊下を全力疾走であの大久保を追いかけようとも、運動は運動。
非健康的な木戸が全力疾走に耐えうる体になっていくことは山県としては喜ばしく、
むしろ追いかけられる羽目に陥っている大久保に一握だけだが感謝したい気持にまでなっている。
されど、だ。
「よろしいか。今まで何一つ運動をしなかった貴兄がよく動かれるようになった。
となれば、運動をした分も食事を取っていただかねば、今以上に痩せる理屈となる」
「運動と食事は別であって」
「別だが共通項ではある」
さらに瞳を険しくすると、見るからに木戸はビクリとし、頭をあげようともしない。
「本日はこれだけ食べられればよい。この後、食事は増やさせていただく。
食欲がわくように運動を十分にされるといい」
大久保にはわずかに同情する心もどこかにあったりもするが、
あの「追いかけっこ」は、木戸の気晴らしになっているため、山県はあえて「大久保のことは」無視した。
「狂介は私に肉付きをよくさせて、どうするつもりなのだい」
木戸としては、このままやり込められてしまったならば、「食事が倍」にされてしまうという危機感を抱いた。
ここで何らかの反撃に出ねばならない、と頭をフル回転させたが、理は山県にある現状である。
『私の体なのだから、放っておいておくれ』
と、かつて思わず口にしてしまったことがあった。
その後の恐るべき山県の言動には、木戸は震撼さむからしめた覚えがあり、決して口にはできない。
ここは一つ手法を変えてみようか。
押して駄目ならば……引いてみろ、と昔から言うではないか。
「私はそれほど痩せているわけではないと……」
「十分痩せているではないか。みな、貴兄を華奢と言っているほどだ」
「それでも……昔は私のような体型の人はたんといたのだし。私はやつれている訳ではなく、また適度に食事は取っている。
このままでも何一つ不便はないのに、どうして狂介は私を肉付き良くしたいのだい」
この手法はことのほか効力を発した。
山県はわずかに詰まる顔をし、腕を組み、考え出した。
よしよし、と木戸は口元に微笑みを刻みたいのをここは我慢し、真剣な顔で山県を見る。
「……今のままではよろしくない」
山県は吐息をひとつ落とし、
「国家の参議たるものが、風が吹けば倒れそうな体でいかがする。長州の人間は毎日心配ばかりだ。
よろしいか。後輩たちに心配をかけ、奥方まで不安にさせ、貴兄。本当に何も感じられぬのか」
相手も手ごわし。
木戸の手法に山県は「長州閥と妻松子」を掲げ、情による攻撃を仕掛けてきた。
情にはめっぽう弱い木戸だが、ここで引き下がっては「食事二倍」の恐ろしき現実が待っている。
「みなが心配をしすぎなのだよ。痩せたやらヤツレタやら言うけど、昔とさして変わっていないのだから」
「……貴兄は」
「私は肉付きがよくなくていい。ちゃんと運動もするし適度に食事も取る。何日も食さないで心配はもうかけないから。
ねぇ狂介。それなら肉付きをよくしなくてもいいでしょう」
最大の武器「上目遣い」手法に木戸は打って出た。
「それはな、桂さんよ」
ここにこのバトルから忘れられた存在が一人。
何一つ口出しもせずに、一人窓より外の風景を見て「部外者」を気取っていた井上馨が、
そこでようやくこの話に参戦した。
「山県はよ。アンタに肉付きをよくしてもらってな。程よい感じになったら……食べるつもりなのさ」
ニタリと笑いつつ、井上はパイプを口にくわえた。
「食べる……食べる?」
「おかしなことを言わないでいただきたい井上さん。私は大陸に存在するらしい人食い種族ではない」
「なにを言うかね。昔じゃねぇ……つい何十年前まで、この国じゃ飢饉があるたびによ。
食べ物がないあまり……餓死した死体の肉を売っていたじゃないか。それ食べて生き残った人間も多いだろう」
「飢饉と木戸さんの今の食の話になんの関わり合いがある」
「それが多いにあるんだな」
ふふふ、と井上が笑うのを見た瞬間、山県には嫌な予感が突き抜けた。
「いいか桂さん。今のアンタの体じゃな。飢饉にあって餓死者が大勢出て、死人の肉で生人をどうにか生かそうとする際、
なぁんも役に立たんぞ。皮と骨しかないしよ。死人買いも無視だな無視」
「………」
木戸は思いっきり考え込む姿勢になっている。
「論点がずれている。今はそのような話ではなく」
「だからよ、山県。今の桂さんじゃ食べたくないだろう? 肉付きをよくしたら食べてもいいと思わんか」
「………貴殿と話していると時折頭が痛くなる」
山県はこめかみを指で押さえ、今日何度目か知れぬ吐息をこぼしたとき、
「私の今の体は、食べれないということだね」
大真面目な顔で木戸はこう言ったのだ。
「貴兄は……井上さんの話など流せばよいのだ」
「なにを言っているんだ。俺様は実にためになる話をしたんだぞ。なぁ桂さんよ」
井上は相変わらず飄々としてパイプをふかす。
「よく分かるよ、聞多。万が一のことが起きた場合、私は国家の役には立たないということなのだね」
「その通りだ。それでいいのかよ、国家の参議が」
「よくない」
「だろうだろう。そうと分かれば桂さんよ。アンタはせめて山県が食べてもいいと思えるくらいに肉付きがないとならない」
「うん」
「山県が満足するだけ……とりあえずは食べた方がいいぞ。万が一のために」
もはや山県はどこをどう突けばよいか分からず、頭を抱えるしかない。
「分かったよ、聞多」
「それから美味しい肉にするにはこう弾力感がな。もっと運動をしないとな桂さん」
「大久保さんを追いかけるのを一日一度に変更するね」
「よしよし。たんと食べて、たんと動いてな。美味しくなるんだぞ」
こくりこくりと頷いた木戸は、山県が用意した食事を目の前にし、
ゴクリと咽喉を鳴らしたが、諦めた顔で食事制覇にかかった。
なにかおかしな手法で食事に到らせたが、この効果はいつまで有効か知れない。
「……貴殿もおかしなことをしてくれる」
「山県よ。これで桂さんが食べなくなれば、こういえばいいだろう。この体では国家の役にたたんとな」
ため息一つまたしても無意識に落ち、山県はドッと疲れたのかソファーに深々と座した。
「おーい桂さんよ。病み付きの体は全く美味しくないんだと」
すると木戸は「健康になる」と誓いを新たにしたように目を輝かせた。
さらにドッと山県が疲れきったのは言うまでもない。
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