― 梅の花を見ながら ―
冬の寒さがわずかに和らいだその時に咲く、梅。
此処後楽園は、梅の花の見事さで知られる、旧御三家水戸徳川家藩邸の庭であった。
この庭は取り壊され新たに中央の諸官庁が建つ予定ではあったが、あえて兵部大輔山県有朋が止めた。
前々より「女よりも庭が好き」といわれるこの男は、天下の名庭を潰すのが忍びなかったのである。
今、梅が咲くこの季節。質実な香を楽しみながら、後楽園を山県は歩く。
梅の小さな花を見ながら、この後楽園を残して本当に良かった、と思い、小さな花を撫でるように手を差し伸ばしてみる。
優雅に薫る梅を、山県は好む。
梅に誘われるように舞い降りた鶯が、美しき音色を響かせ、
まるでこの一時は、忙しないあの長州閥より解放されたかのように、心が静けさを取り戻す。
梅は良い、と花にやさしく指を触れさせたとき、
『梅見は最高じゃ』
胸がドキリと波立つ幻聴が耳に届いた。
風情がこの声のおかげで台無しだ。思わず重い吐息が漏れてしまう。
まだ冬の空気がわずかに残るこの時期。今、脳裏に浮かぶニヤリと不遜げに笑う男は、よく梅見をしていた。
無理やり引っ張られ、よく梅見に連れ出された昔を思い出す。
静寂を好む山県と、ドンちゃん騒ぎを好んだあの男。
思い出すだけでも、背筋にゾゾッと冷や汗が流れた。
あの年は正月を過ぎると、間もなくして梅が咲いた。
起き上がるのも一苦労であるというに、梅が咲いた、と子どものような顔をして、
あの男は三味線片手に庭に繰り出すのを、襟首を掴んで止めたのはまるで昨日のような心境だ。
『あなたは重病人ということを心得ておるのか』
するとその男は舌を出し、ふふんと笑うのだ。
『梅が自分をよんじょる』
呼ぶ梅には逆らえん、とトコトコと歩く男を、己は無理やり引きとめた。
『昨夜、血を吐かれたのを忘れたのか』
『あぁ忘れたな』
『あなたは……どうしていつもそう……』
『うるさいぞ、狂介。そうじゃ、庭に敷物を敷け。梅を見ながら三味線が一興じゃ』
『寝てください』
『狂介。この自分が梅見じゃといっとるんじゃ』
己は最期の最期で、あの男の言葉を決してたがえぬことができなかった。
言われるままに敷物を敷き、この男の身体を支えて、その場に座らせると、
『梅はいいな、狂介よ』
『さっさと花見を終わらせ、横になっていただきたい』
『なんでおまえはこう堅いんじゃ』
『あなたが無鉄砲すぎるのです』
『あぁ煩い煩い。まるで小姑じゃな』
『あまりないわれようではないか』
この二人の付き合いも長い。生まれたときの立場も環境もまるで違うが、考えれば年は己が一歳上なだけ。
ここ数年は常に行動を共にし、気付けばこの男の病の看病までしている己でもある。
『なぁ狂介よ』
いささか疲れた、と山県の左肩にもたれるようにして、梅を見上げるこの男は、
『自分は今、おまえさんがどうしようもないほどに羨ましい』
そんな一言を告げて目を閉じる。
どういう了見でその言葉を吐くのか。
長年、この男を憧憬し、それゆえに憎んで憎んで憎みぬいてきた己に、
今の言葉は火に油を注ぐのと同意語とも言えた。
『誰にもいうなよ。自分は……ほんとうはもっと生きたかったんじゃ』
肩に寄りかかりつつ、この男はひっそりとそんなことを言った。
今の今まで「死」を受け入れ、死すまでは自分らしく無鉄砲に楽しく生きる……というかのように日日過ごしてきたこの男が、
今の今で、決して口にしなかった本音を言おうとしているのか。
『誰よりも生きたい。もっと長く生きて、したいことも見たいことも……いっぱいあるんじゃ』
『……そうか』
としか言うことはできない……この肩に寄りかかる全く重みを感じさせない痩躯。
『おまえさんは……自分に口だけの慰めを言わんからいい』
『言って欲しいのか』
『誰もが養生すれば治る、という。阿呆じゃ。すでに片足半分黄泉に突っ込んでいよる自分が、治るはずなどない』
ぱちりと目を開け、己の顔を見ながら、この男はあくまでも笑う。
『……病に気付いたときに、養生をすれば治ったかもしれんが、自分はせんかった。
この長州の一大事にねちょることなどできん。
長州が滅びた後に生きたとて……意味がないじゃろうが』
実にこの男らしい言葉と言えた。
『じゃがな……ふと思う。あと数年生きれれば、自分は桂さんを随分と楽にすることができたはずじゃと』
梅を見つつ、ふと遠い目をして、この男が口に出すのは……決まって同じ。
それは己だけに囁くのではなく、伊藤にもあの井上や山田などにも同じことを言っているだろう。
死を迎えるにあたり、病がうつるのを恐れて、早々に別れをすませた……ただ一人の人。
この世では二度と会わぬと誓おうとも、この男の心の大部分は幼馴染の桂がしめている。
『……桂さんを頼んだぞ、狂介』
何度目にきく言葉だろうか。
顔を合わせ、桂の話が出るたびに、聞かされる一つの遺言に等しき言葉。
おそらく最期の最期まで己の顔を見れば、この男はそう囁くのだろう。
『分かっている』
受ける言葉も変わらない。
されど胸にズキリと痛みが落ちたような感覚になるのは、
この男が最期の最期まで思うのは、国家のことでも、我が身のことでもなく、
ただ一人、共にありたいと願った幼馴染の「桂」であることに、この胸は少しだけ痛むのだ。
『だが……あなたはわがままだ』
この男を支えつつ、己は頭上の梅をにらみつけた。
『私にも伊藤らにもあの人を頼むといいながら、その同じ顔で私にこう命じた』
『桂さんが、自分を忘れて幸せになることは許せん。それは……変わらん』
誰よりもあの桂を思っているこの男の、胸の中にある矛盾した葛藤は、
まるでこの春の季節のようなものだ、と己は思う。
ほんわかとする温かい風が吹いたと思えば、途端に冷たい雨が我が身を叩く。
桂の身を案じながらも、自分のいない世界で桂が幸せになることは決して許せぬという負の心。
死に際して、山県に桂を見張れ、と命じるほどに、
己が誓わねば安心して息を引き取れぬ、と叫ぶほどの熱情が、この男の心には今だある。
『この自分の手でしあわせにはもはやできん。ならば……誰の手でもしあわせにすることは許せん』
『それは……あなたの身勝手にすぎない。置いて死すのはあなたの勝手であろう』
『そうわがままじゃ。……自分の一世一代のわがままじゃ。だから……付き合うのはお前でなければならん』
罪の道連れには、あえておまえを選んだ。
他のものならば、桂さんの幸せのためならば、この自分の遺言を無視するじゃろうが、
おまえだけはそれはできん。
『なぁ狂介』
『はい』
『自分は、おまえが思っちょるよりもな。おまえさんのことをちゃあんと信じちょる』
体を支えるのがすでに辛げなこの男の背に、手を回して支える。
『ちゃあんと……信じちょる。だから裏切るな』
『あなたも人が悪い。最期の最期で……私にそのようなことを言われる』
『おまえさんの自分に対する執着も愛憎も、ここで見せてもらわんとな』
『………』
『覚えておけ。おまえがいつまでも妄執と言われるほどに思うは、この自分じゃ』
断じて他のものではない。
最期の最期まで思い、憧憬し、憎み、慕うのはこの自分だけ。
ニヤリとするこの不遜で自信満々の天上天下唯我独尊の男の顔を凝視しつつ、
『あなたはやはりどこまでもわがままだ』
小さく囁いた言葉を受け、この男は己の腕の中で再び目を閉じた。
あの日から数年。今年も梅の季節が巡ってきた。
普段はさして思いださぬというに、梅の香りが漂い始めると脳裏に響くあの男の声。
「分かっている」
それは己に「監視」を強要しているかのように思え、だがそれも一興と思う己も罪に染まりつくしている。
静寂の中、ただ梅の花を見つめ、この一時を楽しむのも、梅を通してまだあの男と繋がっていることを確認したいからなのかもしれない。
「おや、狂介」
そこに外套に身を包んで、ゆっくりと歩いてくる人影が己の旧名を呼んだ。
「やはりここにいたのだね。兵部省を訪ねたのだけど、どこに行っているか分からないと言われてね」
淡く儚く微笑むその姿に、今の今まで己が思い浮かべていた罪はさらに鮮やかに彩られる。
「もしかしたら、と思ってここに来たのだけど、会えて良かった」
「木戸さん」
あの男が最期の最期までこだわり、執念を燃やしたただ一人の人間「桂小五郎」
あの男が誰よりも愛しげに、そして切なげに呼んだ「桂」という名は、もはやこの人の名ではない。
あの男の死とともに、この人もまた「桂」という名を封印し、
まるで片翼をもがれて二度と飛べぬ鳥のような風体で、この明治という世を生きている。
「この私に何か用件でも」
「そうなのだよ。今日はみんなで梅見をすることに突如なってしまってね。連絡がつかないのはお前だけだったから」
「また伊藤と井上さんの唐突な思いつきか」
「俊輔が梅の花が美しく見れる料亭を知っていると言うからね。……用事はあるかい」
「いえ」
「なら……夕刻に廟堂にきて欲しい。みな、乗り付けて向かう手筈になっているから」
「……心得ました」
木戸の目は柔らかい光を称え、そのまま頭上の梅を見て、一瞬哀しげに瞳を伏せた。
「梅が美しく咲く季節なのだね」
今、木戸の目がなにを映しているのかを己は承知している。
その思いも心も手に取るように分かるゆえに、心は安堵していた。
(あなたの最期の執念たるこの人は……今だにあなたをその心に住まわせている)
あなたのないこの世で、あなたなしで幸せになろうとは決して思わぬことを、
いちばんに知っていただろうあなたが、それでも疑心暗鬼に捕らわれ命じた一つの罪は、
己に、この人のそばにある権利と義務を与えたことを……あなたは知っておられるか。
「花冷えの季節だ。身体によろしくない。戻るとしよう」
梅より引き離すように木戸の袖を引くと、
過保護だね、と微苦笑する木戸は、名残惜しげだったがもう梅を振り向きはしない。
花冷えのするこの梅の花の季節は、
香りとともに、己もこの人も……ただ一人の「特別」なあの男のことを思う。
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