拍手057弾:

― お日様と桜 ―

「桂さん、桜じゃ桜が咲いておる」
 高杉晋作七歳。
 手を繋いで傍らを歩いてくれている幼馴染の桂小五郎の顔を見上げて、ニコッと無邪気に笑って見せた。
「昨日は咲いておらんかったじゃろう。今日はぽかぽか温かいから、咲いたんじゃ」
「そうだね。ちょうど三分咲きかな」
 桂はにこりと笑い、「ほぉら」と高杉を桜の枝の目の前に抱き上げる。
 高杉より六歳年上の桂は十三歳。
 明倫館に通い学問を励むこの少年は、時間を見つけてはこうして幼馴染と過ごす。
「きれいじゃ」
 花にそっと触れ、高杉はふと肩越しに幼馴染の顔を見た。
「欲しいか、桂さん」
「晋作」
 耳元に流れてくるようなそんな穏やかな声音。
「桜はね。とても傷つきやすい花なのだよ。枝一本でも手折ると病気になってしまうかもしれない」
「……傷つきやすい?」
「美しければ美しいほどに、傷もつきやすい。晋作、桜はここにあって、近いうちに満開になるのを待とうね」
「桂さんがそういうならそうする」
 パッと手を離し、高杉はニカッと笑った。
「でも大丈夫じゃ、桂さん。どんなに傷つきやすくても、その傷はちゃあんと手当てをすれば治るんじゃ」
 ひょいと下に降ろされ、桂の袖をギュッと握った高杉は、
 桂のきれいな顔に見惚れつつ、ふむふむと思う。
「どんなに桂さんが傷ついても、自分がなおしちゃる」
「晋作……それはどういう……」
「決めたことじゃ」
 傍らにあるとても傷つきやすいきれいな花を、命にかけて自分が守っていこう。


「桂さん、桜が満開じゃ」
 その日、二階の部屋で一人本を読んでいた桂は、外より響き渡るその声に格子戸に近づいた。
「あの桜が満開なんじゃ。桂さんに見せたい」
「晋作」
 と、格子戸を開ける。
「桂さん。桜じゃ」
「今、行くよ」
 急ぎ階段を下りると、そこには診療を終えた義兄文譲が立っていた。
 軽く会釈をしてすれ違う。
 心の内の重い塊が落ち、身体を覆う暗い緊迫感を、今は桂は振り払った。
「桜見とはよき身分だな、小五郎」
 背中に投げつけられる声音に、振り返る勇気は桂にはない。
 それどころかこの身に刻まれた恐怖が、身を震わす。
「ゆっくりと見てくるといい。おまえには似合いだ」
「………」
「桜同様に呪われたその身ゆえに」
 逃げるように家を出るのが、今の桂には精一杯のことだった。
 雲ひとつない青き空が、身を覆っていた陰影を解き放つように……目に映る。
 そして、
「桂さん」
 それはまるでお日様のような笑顔。
 眩しすぎて、キラキラして、無邪気で全幅の信頼を寄せてくれる光は、
 今の桂の身体を温めると同時に、胸に落とす一つの暗い塊となる。
 桂の身の内には、誰にも溶かすことができない氷の塊があった。
「早く、はやく。桜じゃ」
「そうだね」
 つながれた手と手。ほんのりと温かい幼馴染の手に引かれ、道を駆けていく中、
 桂はこの幼馴染が本当に好きだ、と改めて思う。


 数日前に三分咲きだったその桜の木は、今がさかりと満開となっていた。
「桜じゃ、桜」
 微風によりひらひらと舞い降りる桜を見て、高杉ははしゃいでいる。
 手を伸ばした先に、一枚の桜が舞い降りた。ふわり、と手に乗った感覚がやさしい。
「あそこにちょこんと咲いていたときは可愛かったのに。こうして満開じゃと豪快じゃ」
「そうだね」
 日差しを浴びて桜は白く輝く。
 それは息を飲むほどの美しさであり、壮絶なまでのはかなさを思わせた。
「桂さんは桜のようじゃ」
 トコトコと桂の傍らに寄り、高杉はニカッと笑った。
「桜のようにきれいじゃ。桜のように傷つきやすい。でも、自分がまもっちゃる」
「私は桜のような人間ではないから」
 とてもあの美しさとともにある魅力と誇らしさには適いそうにない。
「誰の桜でなくてもいいんじゃ。この自分だけの桜であればいい」
「晋作……」
「ずっと自分の桜は桂さんじゃ」
 ただ一人の幼馴染が、邪気なく向けてくれるその笑顔とその言葉だけあれば、
 ほんのわずかだけ「誇らしさ」を胸に抱くことができる。
「おまえは私の永遠のお日様だね」
 桜はね。お日様の日差しを浴びないと蕾をつけず、花を咲かすこともできない。
 お日様があっての桜。日の光はさらに桜の花を美しく彩る。
「毎年、春には桜見をしようね、晋作。こうして桜を見て……」
 共にあることができる日を喜ぼう。


 梅が咲き、梅が散り、桜が咲いて、桜が散るのを見て。
 今、この胸には押し花にした桜がおさまっている。
「今年で最期の桜。……アンタと見ることはできんかった」
 高杉は、小さく開けられた襖戸より、今は葉桜となっている桜の木を見た。
 桜が蕾もつけずにいるときに、あの桜の木の下で今生の別れを遂げた最期まで幼馴染であったただ一人の人。
 例え二度と今生では会うことができずとも、
 この身は今生より消え、ただの風となりて、あなたの身を包み込む。
 桜が咲くたびに思い出して欲しい。桜が散るたびに、思い出して。
 この自分の「桜」は永遠にただ一人……あなたであったことを。
「自分は寂しくないんじゃ」
 懐より取り出した桜を見て、わずかに高杉は微笑む。
「……この桜を見るたびにアンタを思い出せるから」
 きっと、あなたと桜を一番に見たのは自分だろう。
 悲しむは、この先、あなたが桜を見るときに、その傍らにいることが適わないこの身。
「か……つらさ……」
 唐突に激しい咳が落ちる。この身より力を奪い去るかのように、激しく、苦しく。
「高杉さん」
 部屋に飛び込んできた山県狂介が、すぐに背中をさすり、どうにか水を飲まそうとしているが、
 口より飛び散った血が、大切な桜の花びらを朱に染めたとき、
 高杉は苦しみと悲しみの涙を、ポタリ、と落とした。
 ごめん……と最期までいえなかった。
 ……あなたをこの世に置いて逝くことを詫びる一言を、
 面と向かって言うことができなかったのは最後の矜持。
「高杉さん。高杉さん! 意識をしっかりともたれよ」
 目の前の桜の花びらを染めた朱は、この後の桂の行く道を案じているようで、
 ただ、高杉の胸は痛く……。
「や……まがた……。いいか……春になったら桜を桂さんと見ろ」
 背を摩る山県の腕を掴んで叫ぶ。
「必ず見ろ。桂さんを……ひとりにするな」
 山県は答えず、咳がおさまった高杉に水を押し付ける。
「桜は……桂さんそのものじゃった」


 桜舞い散る季節となり、山県に誘われ後楽園を散歩することにした木戸孝允は、
 桜を見つめながら、どこか遠くを見ている……そんな目をしている。
 耳をすませば毎年のように聞こえてくる「桂さん」と呼ぶ幼馴染の声。
 振り向けば傍らにいそうで、つい振り向いて、木戸はそこに求める存在がないことに今年も痛みを感じる。
「花冷えがする」
 ふわりと肩にかけられたコートには、ぬくもりが込められていた。
「狂介はどうして桜の季節になるといつも私の側にいてくれるのだい」
 桜が咲くころになると、決まって山県は仕事の合間を見ては木戸の側にいる。
 帰りにはこうして散歩に誘い、二人して後楽園の庭を歩く。
「……約束した」
 山県は小さく呟く。
「あの人と……共に貴兄と桜を見るように、と」
「……狂介」
「それだけではないが、それも理由だ」
 遠き昔、いつも桜を見るときに傍らにいた人がいた。
 桜を共に見よう、と約束した相手がいた。
 今、自分の傍らにはあのお日様のような幼馴染はいない。
(寂しいよ、晋作。寂しくて……寂しいのに、それでも私は生きている)
 今、寂しさを分かって傍らにいてくれる人もいる。
「狂介」
 手を差し伸ばし、一歩先を歩く山県の袖を握った。
「ありがとう」
「いいえ」
 桜を見るたびに、おまえを思いだし、桜が散るたびにおまえがここにいないことを悲しむ。
 それでも、こうして気遣ってくれる人がいるから、
 私はこうして息を吸っていられる。
「また来年も一緒に桜を見よう、狂介」
 肩越しに振り向いた山県は、わずかだが気を緩めて穏やかな表情を見せた。
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WEB拍手一覧 057 「お日様と桜」

WEB拍手 お日様と桜

  • 【初出】 2008年04月12日
  • 【終了】 2008年04月26日
  • 【備考】 拍手第57弾・小説五区切りで御礼SSとしています。