拍手058弾:

― 適いし夢と失いしもの ―

 その日、旧水戸藩別邸たる「後楽園」を、
 梅も桜も終わった、と新緑が目に付く庭園を一人ゆっくりと歩く。
 この黒の背広をそつなく着こなす男の名は山県有朋。
 維新政府において陸軍卿という地位にある陸軍を取り仕切る男でもある。
 だがこの男の名は、この「後楽園」を残した人間として、このあたりでは賞賛をもってささやかれていた。
「………遅咲きの桜か」
 庭園の片隅に忘れ去らたかのように桜の木が一本あり、その木の一部に桜の花が取り残されたかのように咲いている。
 それが目に入り、山県は歩をその桜のもとに向けた。
 この後楽園は代々御三家水戸家の憩いの場とされてきた。
 古くは初代藩主頼房が設え、以来ご老公として名高い二代藩主光圀が美しく設備したといわれる。
 あの尊皇攘夷の先駆者とも言われる徳川斉昭公とて、風情を愛し、ことにこの庭を愛でたといわれていた。
 山県は元来庭が好きな男でもある。
 天下の名庭たるこの後楽園をつぶすのは忍びない、とばかりに、鶴の一声ならぬ山県の一声で後楽園は残った。
 おそらく山県が動かなかったならば、この庭は今ごろ陸軍の施設にでもなっていただろう。
(物は一瞬なれど……芸術は建物が朽ちようが生き残る)
 百年も二百年もこの庭は残っていく。それだけの名庭といえた。


 わずかに咲く桜に、山県は手を差し伸ばしてそっと触れた。
 予想に反してほんのりと冷たい桜に、ふとよぎるかつての記憶。
『狂介』
 さして言葉を口にするのを好まぬ……言うならば寡黙で、
 だがボーとしているその様相が、みょうに人に好かれる男だった。
 桜が三分咲きほどに咲きしころを、山県はいちばんに好んだ。
 この時期になると、桜の花を目で追う己の傍らに、時山直八がいつのまにか立っていることが多かった。
『今年も咲いたな』
 普段山県も寡黙で通っているが、己以上に喋らぬ時山を前にすると、随分と言葉を口にしている気がする。
『……』
 時山はただ桜を見つめ、時折己の横顔を見て、わずかに微笑む。
『どうした?』
 と、己が尋ねようとも、軽く首を振るだけで何一つ答えぬこの男の傍らは、
 居心地のよさと憩いがあり、己はこのただ一人の親友と呼んだ男から……安らぎを与えられていた。
 時山が手を差し伸ばし触れた桜に、己も手を伸ばしてそっと触れる。
『来年も』
 時山が呟いたその言葉に続く言葉を己はよく理解する。
『共に見よう』
 この三分咲きの桜をこうして眺めているのが、己とこの時山にはよく似合いだ。


 今、己は陸軍省にて頂点たる「陸軍卿」の地位にある。
 陸軍において確固たる地位を得、また長州閥の一員としても確たるものを得たというのに、
 この手から失ったものは、この今の己がある代償としては……あまりにも大きい。
 己をどこまでも振り回してくれた高杉晋作もすでにない。よき理解者でもあり一歩先を歩いていた久坂義助も、村塾の仲間であった入江も吉田も……もはやない。
 なによりも花を共に見続けたいと願った時山が、あの戊辰の戦にて……奇襲で命を失っている。
『奇襲をかける』
 そう進言した時山を止め得なかったは、己。
 何度、あの日に戻れたならば。あの長岡の地に舞い戻ったならば、
 何もかも捨てて、おまえを救いたい、と心から思う。
 今、己がこの手にしている地位も名誉も財産も……すべてを投げ捨てても、
 失ったものが戻るならば、今、この横におまえが佇んでくれるならば。
「ガタ……山県」
 背後から聞こえてくるその声が、山県の感傷を見事に撃ち破った。
「やはりここにいたんだ。木戸さんがたぶん此処だろうというから、迎えにきてやったよ」
 肩越しに振り向けば、そこには伊藤博文、山田顕義、木戸孝允の長州の仲間が三人ある。


 桜より手を離し、感傷より脱却するためにわずかに息を吸った。
「そろいで何のようだ」
 低く声をかければ、まず始めにニタリと笑った山田がとことこ歩いてくる。
「毎年毎年、桜の季節が終わるまで、おまえは後楽園詣で。よく飽きないもんだ」
 山田の目はジッと桜の花を見つめる。手を伸ばしても届かず、ぴょいと飛び上がってようやく触れられる山田の背丈。
 これを山県が姪静子の婿である品川弥二郎が見たならば、いつもの嫌味の一つやー二つは飛び出すだろう。
『あわれだな、市。そうか飛びあがらなければ、こんな桜の花一つに触れられないとは。牛乳は毎日飲んでいるか。なに飲んでいる? それでそのちんちくりんな背丈なのか。哀れを通り過ぎているな。嘆かわしい』
 と、泣き真似までしてみせるこの品川に、山田は爆発して飛び掛る。
 数年前まではよく見かけたそんな光景も、今では遠く……。品川が露西亜にあることも影響しているが、全てが遥か昔に感じられた。
「市、最期の桜の花を散らすようなことはしてはいけないよ」
 ゆっくりと近寄ってくる木戸は、山県の姿を見て、わずかに微笑をもらした。
「狂介も……何も羽織らずに桜を見ていたら風邪を引くよ」
 花冷えがまだする季節。大切に身体なのだから……。
 と、木戸は片腕に抱えてきたコートを、ふわりと山県の肩にかけた。
「これは……」
「陸軍省においていったようだね。用事があって訪ねた俊輔がついでだからといって持ってきたのだよ」
「ここにいると思ったからね」
 木戸の傍らに並び、伊藤も桜を見る。
「そうか。伊藤にしては随分の気の利いたことをする」
「伊藤にしては……は余計だよ、山県」
 二人とも……と木戸が小さく呟く中、今だ初春を感じさせる風が吹き、肌寒さを感じた。
 昨日までは初夏を思わせる気候であったというに、春の気候は実に移り変わりが激しい。
 肩にかけられたコートに袖を通し、温かい、と思い、木戸と伊藤の顔を見る。
 伊藤は照れ隠しか、視線を外した。木戸の方は柔らかく微笑み続ける。


「あのさ、山県。僕らだってけっこう桜好きだし。
 例えおまえみたいな嫌な奴の誘いでも、一緒に見に行ってやることくらいはしてやってもいいと思っているんだ」
 いつも直球な山田が、珍しく遠まわしの物言いをした。
「だからさ……この季節になると夕方、一人でここにいるのはやめた方がいい。
 おまえに物思いも感傷も全然似合わない。ガタらしくないというか……逆に心配になるんだ」
 睨むような視線の中に含まれるわずかばかり揺れる心配の思い。
 妙な居たたまれなさを覚えた。
 誰にも悟られず、毎年一人でここで桜を見る。夕方から夜にかけて……時には仲間たちと……ほとんどが一人で。
 単に己がこの庭を好きだから、と長州閥の人間は思っているだろう、と考えていたが、
 そこによぎる思いを、勘付かれていたようだ。
「……そうか」
「始めに気付いたのは何年も前だけどさ。おまえが……あまりにらしくないから笑い話のネタにしてやろうと思っていたけど、こう何年も続くと嫌になる」
 ふん、と鼻を鳴らした山田の肩をポンと山県は叩いた。
「なんだよ」
「……なんでもない」
「変なガタ」
 山田の視線は花にそそがれ、
「あまりらしくないと明日雪がふるからやめてほしいなぁ」
 と、伊藤は周囲を見物し始める。
 山県の傍らに並んだ木戸は、名残惜しげに桜を見つめつつ、
「いつでも一緒に桜を見るから」
「……貴兄も花には思い出が多かろう」
「そうだね。一人で見ていたいときもあるけど、大勢で見るのも楽しいよ。……いつか思い出話として花を語れたらもっと楽しいのだけどね」
 未だに梅を見ては、亡き幼馴染を思い出すこの長州の首魁も、この己も、
 今だ花を見つつ、思い出話ができるほど、この心の傷は癒えもせず……抉られるばかりだ。
「私がここで梅を見るときはおまえが横にいてくれるから、だから……桜を見つめるときは私が横にいるよ」
 風が木戸のふわりとした髪を揺らす。
 己の視線は桜に注がれ、風で今日限りの命かも知れぬ桜を……見続けた。
 ……時山。
 傍らにいないおまえを心の中で悲しみ、もしも……を今だに願わずに入られない。
 だが己は一人ではない。
 おまえがいなくとも……おまえのかわりはいなくとも、
 こうして傍らには桜をともに眺めてくれる仲間がいる。
 それだけが……己の癒しだ。
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WEB拍手一覧 058 「適いし夢と失いしもの」

WEB拍手 適いし夢と失いしもの

  • 【初出】 2008年04月27日
  • 【終了】 2008年05月07日
  • 【備考】 拍手第58弾・小説五区切りで御礼SSとしています。