― 端午の節句 ―
「晋作」
目の前にある刀剣と先祖代々高杉家に伝わる兜や具足を眺めている高杉晋作に、そっと呼びかけた。
高杉は五歳。円らな瞳が、物珍しそうに兜を見ては、恐る恐る手を出し、それを引っ込めている。
「かつらしゃん」
「なんだい」
「よろい、かぶと……なんで飾るの」
桂小五郎はわずかに笑みを浮かべ、高杉の身体を抱きとめて膝に座らせた。
「今日は端午の節句だからね」
「たんご?」
「そう……端午。もともとは月初めの牛の日という意味だよ。
いつからか男の子の誕生と健やかな成長を祝って……厄除けの意味がある刀や甲冑、鯉幟などを飾る行事になったといわれている」
ふーん、と高杉は、具足をまたジッと見ている。
桂は数年前に、この高杉の初節句が盛大にとり行われた様子を思い出し、
ようよう生まれた高杉家の嫡子は、本当に大切に慈しまれている、と思ったものだ。
元気に健やかに……お育ちあるように。
自分の手をギュッと握り締めにっこりと笑った高杉の、その笑顔は光そのものと言えた。
「かつらさん、餅たべよう。もち」
高杉はにっこりと笑って、柏餅を一つ桂に手渡した。
美味しいよ、と食べながら、桂は小さく吐息をつく。
実家の和田家では、父が江戸に参勤中は、端午の節句は素通りである。
誰もこの自分の「成長」を願ってなどくれなかった。
「かつらさん?」
「なんだい」
「桂さんどこかいたい? かなしい顔しちょる」
おそらく高杉の祖母の手作りであろう柏餅を食べながら、できるだけ邪気なく桂は笑う。
「哀しくなどないよ。今日はめでたい日だからね」
端午の節句には、さして良い記憶はない。
自分の初節句は、男子出生をことのほか喜んだ父の手によって盛大に行われたというが、当然記憶にはない。
物心ついて後の端午の節句は、実家和田家は藩医ということもあり、武家の慣わしともいえる鎧甲冑を飾り、鯉幟を掲げることはなかった。
異母姉が子どもたちに柏餅を作っていたのを覚えている。
幼い子どもを膝に座らせ、餅を食べさせながら、その子の頭を撫でていた。優しげな声で、何かをささやいて。
自分は柱影からその様子をただ見ていた。
幼いながらに知っていたと思う。
母は後妻ということもあり、二人の姉を気遣って、決して我が子のために「節句」を祝おうとはしなかった。
『ごめんなさいね、小五郎さん』
と、いつも家の片隅で人目を憚って、自分の頭を撫でた母。
頭を横に振って、自分は笑った。
大丈夫。母が悲しげな顔をすることはない。自分は知っているから。
(自分は男の子に生まれてはいけなかった)
ごめんなさい、は自分の言葉。
男の子に生まれてごめんなさい。悲しませて、苦しめてごめんなさい。
自分さえ生まれてこなければ……。
五月五日の端午の節句。武家の子息には特別な意味を持つ行事となっているというのに、
桂家という士分の家柄を継いだ桂を、実家和田家の人々は、あえて「士分」を無視している。
「……いたいときは、いたいといわないとだめ」
幼い高杉の手が、桂の頬にあてられた。
温かな、子どもらしく体温の高い手だった。
「痛くはないよ、晋作」
幼い子どもに、心の中の闇を見破られたような気がして、桂はわずかに戸惑った。
……辛いの?
そういわれているような、気がした。
「かつらさん。お目目がかなしそう」
誰にも祝ってくれない子ども。生まれてきたことも、無事な成長も祝ってくれない子ども。
父が参勤より戻り家に居るときは、形ばかりの節句を祝うささやかな内輪の宴が行われる。
父がいるから……父がいなければ、自分のことは誰も思い出してはくれない。振り返ってもくれない。
「大丈夫だよ、晋作」
「かつらさん」
幼い体がギュッと抱きついて、離れはしない。
「いたいときはこうやってギュッとしたら、いたくなくなるの」
いたくない、いたくない、と呪文のように唱える高杉の身体を、
ただ桂は思いを込めてギュッと抱きしめ返した。
「いたくない?」
「晋作がこうしてくれるから、痛くないよ」
「ほんとう?」
「うん、本当」
「かつらさん」
「なんだい」
「……もち食べて、かぶと見て、よろい見て。かつらさん……けんこうに育って」
おそらく自分はきょとんとこの高杉を見つめているだろう。
「いたいことがもうありませんように」
「……晋作」
いたくない、いたくない、と背をさする小さな紅葉のような手が愛しく、
桂に向ける満面の笑顔が、全幅の信頼と愛情を寄せてくれ、心を温かく染めていく。
暗闇に沈んだ心は晴れることはなくとも、太陽のような高杉がこの心を温める。
「健やかに、健康に、今のままに優しく育っておくれ、晋作」
「かつらさん」
私を抱きしめ、私のことを祈ってくれる、ただ一人の幼馴染。
私は良い思い出がない端午の節句だけど、おまえのために祈るよ。
「端午の節句じゃな、小五郎」
山口の政治堂で仕事中の桂は、横でグタァとなっている周布の言葉に振り向いた。
「駄目ですよ、周布さん」
「まだわしはなにもいうてはおらんぞ」
「子どもの節句を祝いたいから、早く家に帰りたいというのでしょう。その手には乗りません。
家に帰ってもご自分が浴びるように酒を飲んで、お子さまの節句など祝いもしないでしょうが」
「ひどい言い方ぞな」
政務役周布政之助は、その場にばたりと大の字になって寝転がった。
「さぁ仕事をしましょう。早く終われば終わるほど早く帰れましょう」
「小五郎は自分の子がないゆえに、そういう冷たいことが言えるのじゃな」
「……冷たい? 周布先生が決裁せねばならないこの書類を、手伝っている私が冷たいと言われますか」
にっこりと笑った桂に、ビクリと周布は恐れをなしたのか、起き上がった。
「後輩たちにはにこにこと優しい小五郎が、どうしてわしにだけはこうも……本性が出るのか」
「本性といわれますか。私は……周布先生には当然の権利を主張しているだけですよ」
「そうにっこりはよせ。身の毛がよだつ」
「ひどい言われようですね」
と、桂はつい壁にかけてある木刀を引き寄せると、それを見た瞬間、周布はピシッと背を糾してしまう。
「周布先生」
「小五郎、その木刀は置け。それでわしを脅すな」
「私はただ木刀に触れたいだけですが」
「練兵館の元塾頭は、木刀を持つだけで受ける印象がかわるのじゃて」
「そうですか」
「冷たいぞ、小五郎」
「仕事をしてください」
「わかったわかった」
そこへ「桂さーん」という声が聞こえ、無自覚に桂は柔らかく微笑んでいた。
「桂さん、柏餅じゃ」
幼馴染の高杉がなにやら小さなおぼんに、柏餅を大量にのせて運んできた。
「……晋作?」
「母上が大量に作って……桂さんにももっていけって。母上の柏餅はうまい」
高杉は桂の前におぼんをおき、ついでに部屋に備え付けの茶も入れてくれる。
「ありがとう、晋作。柏餅は私は好きだよ」
「しっちょる。昔からよく家で食べた。端午の節句はいつも桂さんと一緒じゃった」
「そうだね」
桂の右腕にもたれ、甘えるようにすりすりしてくる高杉の頭を桂は撫でる。
桂さん……と甘えたその声に、
「扱いが違うぞ、小五郎」
と、周布は手を出し、柏餅を取ろうとしたが、
「これは桂さんと自分のじゃ」
周布の手をピシャリと叩いて、高杉はゴロゴロと桂に甘えた。
「晋作も小五郎も冷たいぞ」
「仕事をしてください、周布先生」
「そうじゃ、仕事をせぇ」
「おまえら……」
桂は書類を見ながら時折柏餅を食べ、高杉は、その桂にもたれつつにこにことご機嫌。
周布はその柏餅を食べたそうに見ながらも、仕方なく仕事を始めた。
「これからも無事に、健康に……じゃ。桂さん」
「おまえも、今よりも健康に、長寿を願って」
二人して顔を見合わせ、
昔と変わらずこの「端午の節句」に、互いの無事を祈る。
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