― 魔王の弟 織田勘十郎 ―
「お行きになられるのか」
普段と変わらぬ抑揚のない声音で、その人は口を開いた。
「自らの命を奪われると承知の上で」
何一つ慰めもなく、同情も憐憫もなく。ただ事実だけを淡々と述べてくるその声は、いっそ清々しい。
織田勘十郎は、ただ静かに見上げてくるその人と視線を同じくするために床に坐した。
「筆頭殿にはこの数年、お世話をおかけしました」
「……死ぬるには惜しい若さとは思われぬか」
勘十郎の問いには一切答えずに、漆黒の瞳は揺らめくことなく見据えてくるばかり。
見慣れた美しき瞳に、今また息を飲むほどに見惚れてしまうこの一瞬。
思わず伸びたその手が、サラリとしたその髪を掴もうとして、留まった。
「兄上は、この勘十郎を決して許しはしませんよ」
つい自嘲の笑みが漏れる。
「小さいころから知っていました。ずっと……知っていたのです」
あの天上天下唯我独尊の兄信長の、ただ一人の大切な人間が目の前にある。
「私はただ……あなたを通してあの兄の目を私に向けさせたかっただけなのかもしれません」
あの茶褐色の兄の瞳に、この自分「勘十郎」を、ただ一度でいい……刻み付けたかった。
二才年上の兄信長……幼名吉法師と、自分織田勘十郎は二才しか年が違わぬ父母を同じくする兄弟である。
共に暮らした記憶はほとんどないが、勘十郎が五歳のときに半年ほど、兄と古渡の城で共にすごしたことがある。
「あにさま」
母流美に、会ったこともないその人を「実兄」と知らされた瞬間、
七歳という年にしては長身で華奢で色白。喜怒哀楽を全く映さぬ面に、何にも興味も示さぬその無の切れ長の茶褐色の瞳。
端麗な姿をしているその人は、少年に身体を成長していく過程であり、未だ中性の色合いを醸しだしていた。
「あにさま、あにさま」
一目でこの兄が好きになった。
よく兄の手を引っ張り「遊んで」と振り回した。
自分の願いを兄は無表情な顔のまま、付き合ってくれたものである。
だが兄の瞳は、うつろわぬ。時に母に向け、優しげな顔を見せることもあったが、それもほんの気まぐれ。
勘十郎には一度としてその瞳に、喜怒哀楽を滲ませたことはなかった。
「……勘十郎殿」
だが一瞬にして兄の瞳を揺るがす人がいる。
「主席さまだぁ」
幼い自分はその人が大好きで、顔を見るたびにテクテク走ってその足に抱きついた。
ほぉら、と抱き上げてくれるその人……主席家老林通勝は、漆黒の瞳が透き通るように美しく、見事な無の造形を思わせる。
だがあの時、自分は見てしまった。
主席に抱き上げられ、その肩越しから……見上げる兄の茶褐色の瞳を。
「……あにさま?」
それは明らかな憎しみであり、
同様に自分に向ける「悋気」の熱で溢れていた。
(あにさまは……あにさまは……主席さまが……)
喜怒哀楽を向けるのは、この人にだけ……。
あの時の兄の瞳が怖くて、怯えて、そして惹きつけられたあの一瞬。
「筆頭殿」
現織田家筆頭家老である林通勝は、先代当主信秀の遺言により勘十郎の後見役として末森城にあった。
遺言を見た瞬間、現当主たる兄信長は、声をあげて哂ったものである。
『主席を勘十郎に? あの親父は気でも狂ったか』
やらぬぞ、と信長は冷たく言い捨てた。
決してやらぬ。
『我が持たぬものを全て持ったそなたが。……アレしか持たぬ我から……アレを奪うか』
兄は生まれたときから、一人那古野城で傅役たちに養育されてきた。
一度として父の逞しい肩に肩車もされたこともないという。母の腕に抱かれ子守唄を歌ってもらったこともない。
姉や妹や弟たちと戯れて遊んだこともないだろう。
一人那古野にあり、育ての親である主席だけを見て日日を過ごしてきたからか。
他の人に等しく冷めた「無」の瞳しか向けぬ兄が、昔からたった一人。主席にだけは執心していた。
自分が二度の謀反を引き起こそうとも、あの兄は何一つ目に感情を抱かなかったというに、
父の遺言で筆頭が末森に付くことになったあの時だけは、憎悪をむき出しにした。
そして今、清州の病床にある兄より呼び出しがかかった勘十郎は、静かな気持で筆頭の前にある。
「私が死なねばおさまりますまい。……兄は決して私を許しはしない」
二度の謀反を引き起こそうとも、母流美の涙の嘆願により恩赦を出した兄。
どれほどに自分という弟が邪魔だろうか。
尾張一国を手にしようとも、兄に不満を持つ旧守護斯波家や織田一族などは勘十郎を担ごうとするのは火を見るより明らか。
「あの信長殿のために捨てられるか、その命」
「あの兄のためゆえに捨てられます……筆頭殿」
……私はあなたを通して、兄の関心を私に向けさせたかった。
憎悪でもいい。この自分に対しての「感情」をあの茶褐色の瞳に込めて欲しい。
されど、筆頭を得て、兄が向けてきた憎悪の感情は、
どこまでも自分にではなく、自分を通り抜けて、ただ筆頭だけを見ていた。
(兄上!)
その目に惹きつけられ、魅せられ、愛して、憎んで。
ただ一度だけでもいい。この身をかけて兄にこの勘十郎という身を示す。
「お世話になりました」
もう一度頭を下げたとき、筆頭は漆黒の瞳を揺るがすことなく見据えてきた。
「あなたを決して兄のもとに戻さず、この末森に留めたのは……私の意地でした」
筆頭さえ自分の傍におれば、兄はこの自分を放っておけないことを承知していた。
「自由気ままに過ごさせてもらった。清州とは違い静かで、読書には最適だ。何も役に立たぬ筆頭にみなようして下された」
「申し訳ありません」
「なにを言われる。私はここに在っただけだ。勘十郎殿も信長殿も止めもせず、全てを見て、何もしなかった」
勘十郎の謀反の際も、末森の城で筆頭は小難しい本ばかりを読んでいた。
いつでも抜け出せように、四畳半の部屋にこもり、なおかつ清州からの召還にも頷きはしなかった。
「一度、お聞きしたかったのですが」
ゆっくりと立ち上がり、背を翻した際に、昔から思っていた問いが出た。
「あなたは兄のなんなのですか」
織田家の当主と筆頭家老。元世継ぎとその後見人の傅役。
形ばかりのことは知っている。
「……なんなのでしょうな」
筆頭も立ち上がり、勘十郎の傍らを通り抜けて、縁に出た。
「私もその答えが欲しいものです」
兄嫁の濃姫は「執着」と呼んだ。内藤や佐久間などの側近は「独占欲」と呼ぶ。
その両者ともにそれは正しく、されど何かが足りない。
「愛憎どちらにも傾けぬ関係とは、兄とあなたを言うのかもしれません」
兄は他の誰にも触れさせぬほどこの筆頭を思いながらも、その目には愛憎どちらをも込める。
その両方を受け止めながらも、筆頭は……無の瞳を揺るがすこともない。
「勘十郎殿。武運を」
「兄を頼みます」
筆頭は答えずに、その目を庭にだけ向けている。
霜月二日、清州城に入った勘十郎は、出迎えの中に池田恒興の顔を見つけて、にこりと笑いかけた。
「藤殿」
通称の藤三郎の名で呼ばれ、年相応に見えぬ極度の童顔の恒興は、顔をあげてこちらもニコッと笑った。
恒興に案内されるままに、奥に通されながら、この心は浮かれていくのがおかしかった。
これから斬られに行こうとしているのに、まるで鷹狩か遠乗りに行くかのような気分だ。
「殿、勘十郎さまにございます」
寝室に案内され、一歩足を踏み入れる。
予想に反してその部屋には、褥に横になっている兄の姿しかない。
隣室の気配を探ったが、そこにも人の気配はなかった。
その場で頭を下げて恒興も去っていく。
どういう了見か、とドキリと胸がきしんだ。
「勘十郎よ」
褥の上に起き上がった信長は、刀を杖代わりに立ち上がった。
「兄上。私がにくうございますか。消したいほどに邪魔でございますか」
「おまえの存在などどうでも良い。生かそうが、消えようが構わぬ」
だがな、と信長はその場で鞘を抜いた。
「勘十郎。我が持たぬものを全て持ったそなたが、アレまで一時であろうとも奪った時に……我は決めた」
「兄上のただ一つのものを手に入れねば、兄上は私など見はしなかった」
幼い頃からの唯一の願いは、この兄の目の中に自分が入ること。
見入られ、惹かれ、まるで恋焦がれるかのように思った兄のその目に、ただ自分だけが入るときは、
勘十郎は笑った。
「あにうえ」
信長の刃が振り下ろされる瞬間まで、見ていた。
その目によぎったのは、その瞳に映るのは、今はただ自分だけ。
痛みも感じぬほどに、痛みすら消え失せるほどに、兄の瞳の中にある自分を確認して、
「……あにうえ……」
命をかけて得た至福の時とともに、命の灯火も消えていく。
「……私を……忘れることはできない」
兄の手で斬られることにより、
一生涯、心の片隅だけであろうとも、兄が思う人間となれる。
それだけで良かった。
今、この時、兄の目の中に入れ、そして兄に初めて「弟」として認識させられた。
まるで一生の恋のようだ、と勘十郎は笑いながら息を止めていく。
それは冷たき風が吹く霜月始めのころ。
尾張清州城の奥にて、織田勘十郎信勝(信行)は、兄信長の手によって刺殺された。
享年二十一。
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