― 空に重ねる面影 前編 ―
京都の初夏は移り変わりが早い。
晴れた日でも油断はできはしないもの。気分屋の空を突如覆い尽くす暗闇の雲は、容赦ない豪雨と雷をもたらせた。
木戸孝允は、友人である大参事槇村正直を通じて購入した近衛別邸にて、今、病床の身である。
「あなた」
開け放たれた障子戸より見渡せる庭の光景。新緑の若々しい香りが、寝たきりのこの身には慰めとなる。
「起きていまして、あなた」
縁よりそっと顔を出した妻松子に、木戸は穏やかに微笑んで見せた。
「あら、起きていまして。ご気分はどうですの」
「今日は調子が良いよ」
「それは良かった」
病んでいた体に鞭を打って、主上の行幸の供として京都を訪れた木戸だったが、京都到着とともに身を倒した。
もとより明治七年以降は病みがちな身体であった。
あの明治六年の馬車の横転事故よりは下半身が思うままにならず、若い頃に剣術により鍛えた体よりは力も気力も失われていく。
若い頃より死を思わぬことはなかったが、
あの馬車の事故以来は、毎日が死と隣り合わせの日日を過ごしてきたものだ。
そんな病がちな身体には主上の行幸などは、無謀に等しかった。
『主上とともに参りましょう』
西南の役にて多くの仲間が出兵している。
政府も臨時とはいえ大阪に居を移して、ほとんどの人員が大量の仕事の処理に負われている。
木戸とてこの京都にて、処理せねばならないものが数多くあった。行幸の供に選ばれたのも、木戸しかできぬ仕事が大量にあったからともいえる。
それを承知の上で、動かぬこの身体がもどかしい。
「伊藤さまが口に通りやすいからと冷麦を大量にお持ちくださいましたの」
「俊輔が」
脳裏に浮かぶ長い付き合いのその後輩は、木戸が数日前に「二度と会わぬ」と決めた男だ。
「一目たりとも顔を見たい、と……泣いておられますわ」
その伊藤を門前払いにしなければならない松子も辛かろう。少しばかり肩を落として、木戸の手を見ている。
「すまない、松子」
「……あなた」
「……わがままを聞いてくれてありがとう」
松子が、静寂なこの一室で、ただ木戸の傍らに寄り添うように過ごすようになったこの頃。
時を惜しんでのこの行為の意味を、木戸が一番に理解している。
……終わりはもう……すぐ傍まで迫っていた。
「木戸さん、木戸さん」
新緑の若葉が鮮やかなまでに美しい四月下旬。
伊藤の心は嵐のように吹きすさび、厳寒の地の真冬の如く冷え切っていた。
「木戸さん、お願いですから、木戸さん」
玄関先で扉を叫びながら叩くしかない今の自分の情けない姿。
同僚は鼻でわらった。哀れみすら込めるものもいた。
『伊藤君。君にとっては目の上のこぶのような人だろう、木戸さんは。それとも……悲しんでいるのも演技かい』
野卑た顔でそんなことをいったその男を、組み敷いて拳で何度も殴りながら、心の中で自分は変らずに「木戸さん」と叫んでいる。
世に言う長州閥の一番手にあった木戸孝允という首魁と、
その補佐としてあった自分、伊藤博文。
力をつけるためにはどのような非道な手をも実行する、と言われる自分。
影では「伊藤の邪魔な者は既にただ一人」などと囁かれても、伊藤は気にすることはなかった。
(僕の夢。僕の希望)
他人が何と言おうとも伊藤は堪えない。
胸を刺す痛みにも、平然と笑っていられる。
『俊輔』
と、昔と変わらぬ笑顔を木戸は与えてくれるから。
時に無邪気と言えるほどの行為で、自分を散々に困らせてはくれるが、
伊藤が説教をしている間、しょぼんとなっている木戸の姿がどれだけ愛しいか知れない。
明治に入り、現状の政府に絶望を抱き、常に儚く、常に消え入りそうなまでに物事に執着をしなくなった木戸を目にした時、
伊藤は心に一つの誓いを立てた。
……僕があなたを頂点に立てます。あの桂小五郎の颯爽とした姿を取り戻して見せる。
この僕が!
そのためならばこの血塗られた手を、また血で覆い尽くそう。
例え自分の行為が木戸自身を悲しめても、
伊藤は昔の木戸にもう一度再会できる夢と希望に酔いしれてしまった。
儚いまでの微笑みしか見せなくなった木戸に、「もう一度」と心で言い続ける。
木戸のためならばどんなことでもしよう。木戸をあの高見に登らせ、「長州の志士」と言わしめたあの姿を見るためならば、
「木戸さん、お願いです。一目で……一目でいいですから」
病んだ木戸は、数日前に伊藤に決別を告げた。
『今生では二度と俊輔とは会わない』
憎まれているのか、と衝撃が走った。木戸の姿を見ることも許されないほど、自分は木戸を傷つけただろうか。
身を焼かれるほどの衝撃。身を裂かれるほどの激痛。
今にしてようやく気付く心の本音。
「本当は……」
かつての姿を追っていた。けれども……今のあなたが傍にいてくれるだけで良かったのだ。
木戸孝允という人間そのものが、夢であり、希望だった。
木戸がいなければ、この心の夢も希望もすべてなくなってしまう。
「木戸さん」
嗚咽が入り混じった声。わずかに見上げた目に映るは、青き青き空。
その日差しが眩しすぎて、目にたまっていた涙が一滴ツーっと落ちた。
……僕は、ただ、あなたの傍にずっと……居たかった。
かの故郷とは離れた遠い異国の地で、今、空を見つめる。
この空は続く。故郷まで境界線もなく続いていく。
井上馨は周りの人間に言わせれば「空を睨んでいる」としか思えぬ形相で、見ていた。
雲ひとつないこの青空は、かの故郷でも変わらぬだろうか。
皐月の上旬は天候の変動が目まぐるしい。晴天と思えば突如として雷が鳴り豪雨となる。
新緑の若葉の香りが身を包み、若若しいその香りが人に生きる喜びをもたらせる季節。
されど、井上のもとに届けられる電報からは、「生きる」喜びとは正反対の「死の匂い」が香る。
(桂さんよ)
今、国の京都の地で、身を倒したという仲間のことを井上は思った。
この欧米諸国への洋行も、本来ならもう一人随行がいるはずだった。
『もう一度異国の地に? 良いね、聞多。いやなこともすべて忘れて異国の文化を見て回りたいものだよ』
そう消え入りそうな生気に、わずかに好奇心と気力を含ませて笑った木戸孝允。
およそ少年の時分よりの付き合いの二歳年上のその人は、いつまでも井上にとっては心配ばかりをさせる困った人だった。
どれだけ体調が悪かろうと「大丈夫」と平気な顔をして微笑む人だったから。
身に心に深い傷を負っていても、苦しみ嘆きながらも最後には「大丈夫だから」と静かに笑む人だったから。
だから、自分くらいはちゃんとあの人の「大丈夫」という嘘を見分けられる人間であろうと思った。
誰を騙せても自分はだませない。小さな嘘をも見分けられるほどに、ずっと見ていなければ。
遠き昔、まだ長州藩がかの京都で活躍していた時期。
長州藩の一番手と言われた外交官「桂小五郎」を、少しばかり離れた位置でいつも井上はみていた。
(詳しくもなるもんだぜ)
咳一つで病の良し悪しも判断できる。井上は木戸の体調については博士号をもらってもいいほどの目利きとなってしまった。
そのため、あの時は、よくわかった。
明治九年。心も体もボロボロとなり、針一本のチクリとした痛みにも堪えられぬほどにもろくなった木戸。
どんな慰めの言葉も、期待の言葉も、もはや木戸には何一つ届きはしない。
あの人に必要なのは、この場から遠ざけること。誰一人「政治家」木戸孝允を知らぬ国へ。
誰一人木戸の心をいたぶり傷つけえぬ国へ。
それは故郷萩でもだめだ。思い出深き京都の地も、箱根の療養地でもいけない。
街を歩こうとも誰一人知人と会わぬ場所へ。
簡単に連絡を取りえぬ場所へ。
(ここしかないと思ったんだ)
洋行の計画を持っていた井上は、内閣顧問となっていた木戸を誘った。
『一緒に欧米へ行こうぜ。俺もあんたと面白いものを見たりしたいんだ』
木戸は何一つ興味がないといった無の瞳に、ほんのわずかだけ好奇心をにじませ「行こう」といった。
だが政府の人間は決して許しはしなかった。長州の首魁を放逐することはできぬことは百も承知だ。
『なぁ俊輔。異国でな。最新の医学治療を桂さんに受けさせるからよ。だから洋行を許可するよう内務卿に働きかけてくれよ』
親友の伊藤は一瞬逡巡する顔をしたが、すぐに頭を振ってキッと睨むような目つきをした。
『船の中で木戸さんの病が悪化する確率の方が高いから、駄目』
斬って捨て、二度と伊藤はこの洋行話を聞こうともしなかった。
洋行を断念した際、木戸は淡く淡く……水に消え入りそうな泡のような微笑みを見せた。
そのころからだったと思う。
身に巣食っている病が悪化し、一日中起き上がることもできずに病床に伏したのは。
木戸はもはや何一つ望んではない。何一つとして夢見てはいない。
思うはただ一刻も早くその身に平穏が訪れること。ただそれだけではなかろうか。
「桂さんよ」
井上は空に向かって叫ぶ。
「俺様が帰るまでは……待っていてくれ」
あんたがきっと喜ぶものを土産にして帰ろう。
だからせめて……自分が戻るまでは、あの儚いまでの笑みを向けてもいい。
どうかどうか生きていてほしい。
政府において司法大輔という地位にある山田顕義は、鹿児島の動乱を耳にした瞬間、別動隊を率いることを申し出た。
佐賀の乱の功労において念願だった司法の職を手にしたが、
師とも言える大村益次郎が死の今際の際まで気にした「鹿児島」の暴動を、この自分の目で見届けたいという思いがあったのは確かだ。
「おまえも出征するのか」
参軍として陸軍を指揮することが決定している陸軍卿山県有朋が、いつもの無表情でいった。
「僕がいたらおまえの役割も功労もなくなるさ。ざまぁみみろ」
舌まで出してふふん、と笑った自分に対し、
「木戸さんの加減がよろしくない」
陸軍卿として主上の行幸の随行に選ばれている山県は、そんなことを冷えた声で言った。
「おそらく私は行幸を最後まで供することはかなうまい。……司法大輔のおまえがいてくれれば少しは安心できる」
「……それも考えたさ」
山田はキッと鋭く山県を見据えた後に、重い吐息を落とした。
『私は京都に行くよ、市。あの地は私にとって思い出深き地だから……ね』
死に行くにはちょうどいい場所だ、とは言わなかったが、目が明確にその言葉を語ってはいた。
山田は何も言えなかった。
すべてをあきらめ、日一日と生気が薄くなっていっている木戸が、
最後の意思をもって決めたのはその「京都」での終わりだけだった。
京都行幸など供をしたら、その命は如実に擦り減っていくだろう。
今でも心配でならないというのに。どうしようもないほどに不安だというのに。
(お願いですから……この東京で名医にかかって安静に……)
そして一日でも長く生きていてほしいから。
安静にすることで、もしかすると長らえるかもしれないから。
お願い……という一言は、あの黒曜の瞳にしっかりと刻まれた意思の前に粉砕された。
「僕が京都に残っても木戸さんは喜ばないから。……僕の役割は一日も早く戦を終わらせて、凱旋すること」
そのために山田は出征する。
「大丈夫さ。あの伊藤さんが残るんだから。……きっと人一倍煩く木戸さんの体調は気遣うよ」
「それは疑わぬが……あの木戸さんだ」
あの淡白な山県としては珍しいくらい木戸については気にかけていた。
それがさらに自分の不安の背を押すことになるとは、山田は思いもよらなかったものである。
「一日も早く良くなって、僕たちを笑って出迎えてね、木戸さん」
出征の際に挨拶に出向いた自分に、木戸は無理をして笑って見せた。
あの日の笑顔は、例えるなら……水に消える泡のようだ。
はかないまでに儚く。音もなく静かに……消えゆく定めを受け入れたあの……泡のような。
「木戸さん!」
気付いたら自分は木戸に抱きついていた。昔よくしたような、抱きついて……抱きしめて離さずにいれば、この不安も消えるのではないか、と。
「……市?」
木戸はやはり儚く笑む。
「大丈夫だよ、市」
決して「大丈夫」には聞こえない木戸の体もこの声も。
これが最後の別れにはしたくはない自分には、ほんのわずかでもそれは慰めになって胸に残る。
「いっておいで」
離したくはなかった。離れたくはなかった。
自分も木戸もいやというほどに分かっている。
これが最後の別れだ、と。
木戸は認め、自分は最後まで認められない……たったそれだけの違い。
「……いってまいります」
あの日の空は澄み切るほど青く青く……どこまでも続く青の海。
僕は戦場でも空を見つめ願わずにはいられないだろう。
ただ一言。ただひとつの思い。
……どうぞ……僕を迎えてくれますように。
せめてそれまでは生きて……と。
明治七年に駐在独逸公使を命じられた青木周蔵は、今、異国の教会にある。
信じてもいない異国の……キリスト教というものに、藁にもすがる思いで祈りをささげていた。
故国にある友人品川弥二郎からの手紙によると、青木が最も敬愛する木戸公の病が重いという。
駐在独逸公使の身の上、どれほど今すぐに駆けてかの故国に戻りたくとも戻ることはかなわない。
明治七年に別れたあの時、「いっておいで」とやさしく笑って手を差しのべてくれた人。
触れ合った手と手のぬくもりが、まるで昨日のことのように鮮明に思い出される。
餞といって高価な背広を贈られたとき、その場で泣いてしまうほどに嬉しかった。
たった一人の俺の夢、俺の理想、俺の道しるべ。
品川よりの手紙を握りしめて、青木は気づいたときにはこの教会にあった。
妻が教徒ではあるが、青木自身は異国の神にそれほどに思い入れがあるわけではない。
ましてや故国においては長らく邪教と言われ、教徒はどれほどの弾圧を受けたか知れない。
それでも……ここには神社も寺もないのだ。
毎日、故国につながる空を見て、手を合わせようとも、それで終わりで……心には怯えと不安ばかりがよぎる。
もしかすると一生に一度かも知れない。
……なんでも良かった。
ただ縋るものが欲しかった。
「公……どうぞ御無事で、公」
俺は公使という任にある以上、この独逸の地を離れることは許されはしない。
独逸公使の命が下ったとき、誰よりも喜んでくれた木戸の信頼を裏切ることは、決してしてはならないと青木は身を戒める。
だが、もしも一日で駆け戻れ場所にあれば……わずかな時間で戻れる場所にあれば、
いや、故国のどこかにいたならば……。
教会にあり、ただ木机に手を組んで、青木は祈る。
もしも木戸を助けてくれたならば、病より快癒してくださるなら、
このキリスト教というものに身を捧げても良い。今までは鼻で笑っていた神に祈りを捧げよう。
「公……」
どうにもできぬもどかしさに心痛め、この独逸という地に無性に悲しみが宿る。
週に一度届けられる品川からの手紙が、
待ち遠しいと思う半面、心から「怖い」と青木は手を震わせた。
快方を信じ、それをただ願って神に祈りを捧げているというのに、
心のどこかで「死」を予感していなければ、覚悟していなければ、今の青木は正常を保てそうにはなかった。
「公……俺の公」
いつか自分はあなたの右腕になれる人物になって見せる。
あの風見鶏伊藤などに負けぬ補佐をしてみせる。
あの木戸の傍近くにあることが青木の夢であり、日日の成長の糧であったといえる。
教会より出、見上げた空は、夕焼けも終わりに近づいていた。あの空を焼き尽くす赤はすでにない。
青木は空を見据え、思わず息を呑む。
西の空にぽっかりと浮かぶ太陽は、昼時の眩しいまでの光を放つことなく、光の失った落日の最期の赤を見せている。
目を痛ますことがない太陽。
落日の面影をそこに見え、同時にさらなる不安が青木の身を刺し貫いた。
「公おぉぉぉ~」
どうかご無事で。どうか快癒を。
どうか……生きることに一握でもよいから足掻いてください。
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