拍手065弾:

― 仁義なき?お神酒徳利の大喧嘩 ―

 その日、お神酒徳利の仲とまで言われる伊藤博文、井上馨は喧嘩をした。
 現場に居合わせた山県有朋に言わせれば、「些細」なこととしかいえない。
 始めは緑茶と麦茶と好き嫌いから始まり、それが食べ物に飛び火し、最期には女の好みにいたって両者は決裂した。
(馬鹿馬鹿しい)
 二人の言い分を聞きながら、山県は冷茶を飲む。
 この暑い夏に、いかにすればこれほどに頭から湯気が出るほどに興奮した言い合いができようか。
『聞ちゃんと違い僕の女性の好みは選り好みをしないの』
『そこらの三流の女を箒公よろしく、捕らえてはいて捨てる俊輔がよく言うぜ』
『……女性はそこに咲いているだけで美しい。僕は咲いている花を見過ごすことはできないんだ』
『言葉を飾ろうと、一国の首相さんは自らの欲望に忠実なだけって奴だろう? 結果的には女性なら誰でもいい』
『聞ちゃん』
 伊藤はくわぁぁぁと怒りをむき出し、その場にある茶碗を井上に向けて投げつけた。  これはある意味珍しいことといえた。  伊藤がなり振り構わずものを投げつけるのはたいていは山県であって、それは一種の気晴らしを兼ねている。  だが今、井上に向けたこの怒りは純真なる激怒ともいえた。
『聞多になにが分かる。この僕の何が分かるっていうんだよ』
『なら俊輔、おまえに俺の何が分かる』
 飛んできた辞書をひょいと避けた井上のもとに、つかさず今度は硯が飛んできた。
 これには井上も怒り、手あり次第伊藤に向けて物を放り投げ始めた。
 ソファーに座したままの山県は静観している。止めるつもりなどさらさらない。己に被害がないなら彼にはどうでもいいことだ。
『女に与えた妾宅が値上がりしたからって……売り払う聞多は女に捨てられるよ』
『その金を俺様は懐に入れた覚えなんかないぜ。ちゃんと女にやるんだ。何が悪い』
『ははははは。女の誇り高さをなぁんも理解していないんだ』
『それを俊輔が言うか。梅ちゃん……俺様に言っていたぜ。駆け込み寺に参ろうかってな』
『なんだって』
『てめぇの女房がそこまで追い詰められているってのによ。それで女心がなんだって? よく言うぜ』
 さらにプチッと伊藤は切れ、湯飲み茶碗を手にし、覚めているとはいえ茶を井上にぶっかけた。
『絶交だ』
 避けそこねたため背広の肩に湯がかかった井上は、上着を脱ぎキッと伊藤をにらみつけた。
『望むところだ』
 喧嘩するほどに仲が良い。
 一国の首相と外相の仲違いが、長州閥の亀裂とまで言われることになろうとは、この時山県とて想像すらしていない。


 内務大臣室のソファーが大のお気に入りの山田顕義は、今日もこうしてソファーに寝転がる。
 牛乳が出されると飛び起きてゴクゴクと飲み、北海道より贈られてきたチーズをパクパクとおいしそうに食べるのだが。
「ねぇ山県」
 書類に目をやっていた山県に、ポンと声をかけてきた。
「伊藤さんと井上さん、大喧嘩しているんだよね」
「……まだ喧嘩中なのか」
「それがさお笑いものなのさ。首相決裁の書類に外相がツンとそっぽを向いて署名をしない」
 初耳だった山県はこの時になりようやく顔をあげた。
「そればかりではないよ。外交について意見を求められてもそっぽを向いたまま。ついには伊藤さん切れてね。更迭だって言ったんだよ」
「ほぉ」
「そうしたら井上さん。ニタリと笑い、こちらから辞職してくれるって大騒ぎ。長州閥の決裂かって噂されているけどさ」
「私情を公的な場に持ち込むあの二人はガキか」
「喧嘩の原因って女問題? それとも金?」
「さらに程度が低い」
「嫌だ嫌だ。あぁんなのが一国の首相と外相なら、鹿鳴館でいつまでワルツやダンスを踊ろうと列強から対等には見られないよ」
 横になったまま、手にしていた金平糖をぴょいと山田は放り投げた。
「どうせ饅頭とか紅茶とかの味の問題だよね。あの二人、馬があっているときはあぁだけど、いったん外れると喧嘩ばかりしているからさ」
 その通りだ。驚くほど主張も好みもあい、だが最たるところでは好みが真逆なため敵にもならずうまいところ起動してきたが、それは諸刃の剣に等しい。
 真逆なため最期はこわれたならば、取り返しが付かないことになりかねない。
「でもさ」
 山田はピョンと起き上がった。
「結局は伊藤さん、折れるよ。最後の最後、あの二人が親友なのは結局……互いが互いを好きだから」
 主張も好みも全て追い払い、最期に勝つのは「感情」
 そこがあのお神酒徳利の分からぬところだ、と山県は一服とばかりに冷茶に手を差し伸べたとき、
「山県! おぉぃ陸軍の法王」
 パンと壊れるのではないかという荒々しさで、井上馨は内務大臣室の扉を開け放ち、
「今日から俺様はおまえの味方になってやるぞ。山県閥の重鎮に迎えてくれ」
 冷茶に向かったはずの手は、そのまま眉間にあてられた。


「井上さん。あんまり怒り心頭に発するとさぁ。暑くてならないよ」
 唐突に部屋に入ってきた井上に、まぁとりあえずは、と山田は自分の分の牛乳を一瓶くれてやった。
「今の俺様は暑さなど吹っ飛ぶ怒りようだぞ」
 井上はその牛乳を飲み干し、山県の目の前に立った。
「今回という今回は俺様は本気だ、山県」
 机をバンと叩かれ、山県はやれやれ、と今度は額に手を当てた。
「いいじゃん、ガタ。井上さんが味方になればおまえのところの派閥、財源は確保されたようなものだよ」
「財源など自称金集めだけはうまいと自ら認めている次官がなんとでもしよう」
「あぁぁあの十六方美人くんね」
「おまえら、名前をちゃんと呼んだらどうだ。あれの名前は桂太郎だ」
「そうだよね。井上さん、養女を太郎君の後妻にするんだっけ。それと……前妻が残した三郎君を末娘の千代子ちゃんの婿にするとか……聞こえてきているけど」
 山県閥の自称ナンバー2にして、幹事長を自認する桂太郎は、自らのもてるべきものを器用に使うことができる男といえる。
 山県の側近とも言えるが、長州閥の二大大物に身内をもって取り入る立ち回りの旨さは群を抜く。
 人は伊藤を八方美人と言うが、この桂太郎を十六方美人と揶揄し笑っているほどだ。
「あぁんな太郎よりも俺様の方が財源に関しては明るい」
「あの西郷さんに三井の番頭などと言われたりしたし」
「おまえなどはよか稚児だろうが」
「うわぁぁぁぁ人が忘れていたことを」
「俺様とて忘れていたことだった」
 義理の親子はその場でにらみ合いを始めたが、この二人……義理とは言え飽きっぽいのは良く似ている。
 二人ともに疲れたとばかりににらみ合いを早々にやめてしまった。
「……世の中、政局というものにおいて偶然がいちばんの恐怖と言える」
 それまでは額を抑えつつ静観していた山県が口を開き始めた。


「いつも貴殿らは一年に一度は派手な喧嘩をされる。今回のは他愛もないいつもより全く軽い喧嘩でなかったか」
「それがよ、山県。聞いてくれ。あの俊輔は……俺サマが懇意にしていた芸妓を奪ったんだ」
 珍しいこともあるものだ。女の趣味は全く真逆なため、同じく新橋に繰り出そうとも今まで女について衝突することは二人にはなかった。
「へぇぇぇめずらしいなぁ。ついに伊藤さんも色変えしたってこと」
「ちがう、市。俊輔はな。俺の女だと知ってその女を落飾させて一軒の家を持たせた」
「伊藤さんの家持ちのお妾って何人目?」
「おそらくこれで六人目だ」
「うわぁぁぁ……そんなに女ばかりいてよく体が持つよ」
「伊藤には女が糧だ。女をなくしたら……腑抜けになる」
 いえてるいえてる、と山田は手を叩き、また金平糖をポリポリ噛みだす。
「俺様も妾にするつもりだった女を奪われたとなれば黙ってられん」
「貴殿には女よりも儲け話を奪われたときの方が、怒りは大きいと承知しているが。伊藤もそれはわかってのことだろう」
「そうだよそうだよ、井上のお義父さん。別に儲け話を奪われたわけではないんだから、いいじゃない」
「そうは行かんのだ、市。あまりに腹がたったからな。この頃俊輔が贔屓にしている女がいる。まだ新造でしかなかったが、俺様が水揚げにし"いっぱし"にしてやった。ついでに身請けをしてよ」
「さ、最悪だ」
「私は貴殿らに今後関らないこととしよう」
「おい、山県。俺様はおまえの味方になってやるって言っているだろう」
「味方などいらん。貴殿に味方になってもらおうと、いつ伊藤とよりを戻すか知れん。諸刃の刃はこれ以上ごめんだ」
「そういうな。昔からの付き合いじゃないか。まぁ金のことは任してくれ」
「断る」
「あの……」
 そこにヒョイと顔を出したのは財務の専門家松方正義蔵相である。ご自慢の髭を手でちょんちょんとつまみつつ、
「長州閥が分裂したというのは本当かね、山県さん」
「あぁ本当さ、松方さん。だがな、分裂じゃないぞ。向こうは首相一人。こっちはそれ以外全員。勝負は始めるまでもなく見えている」
 かねてより山県寄りの薩摩の重鎮松方は、胡散臭い顔をして山県を見据える。
 その気持がよくよく理解できた。なにせ長州のお神酒徳利と言われた伊藤、井上だ。
 喧嘩は派手だが、元の鞘にはあっという間にあっけないほど簡単に戻る。
 ほら……見たものか。
 廊下の柱よりコチラを伺っている伊藤の姿を見つけた時、山県はさっさとこの喧嘩を終わらせてくれ、と唸った。


「伊藤、そんな物陰から様子見など一国の首相がすることではない」
 山県の一声にビクリとなった伊藤は、恐る恐る顔を出した。
「やぁ、聞多」
 若干顔を引きつらせながら手をあげるが、当の井上は視線すら合わせようとしない。
 これでは子供の喧嘩だ。
 山県は吐息をはき、こちらは幾分楽しげに高見の見物をしている山田の首襟を掴む。
「なにをするんじゃ、ガタ」
「伊藤、この部屋は貸してやる。井上さんと話し合え。……松方さん、近場で涼まんか。よい所を知っているが」
「よいが、山田君も一緒かね」
「そのつもりだ」
 山県は一切山田の許可を取らずに、引きずるようにして松方と部屋を後にした。
 山田がぎゃあぎゃあ騒いでいるが、そのようなことお構いなしだ。
 近場の「甘饅屋」で、あんみつでも食べさせてやれば上機嫌だろう。しかもあの店は夏とは思えぬほど涼しい。
 風鈴がチリンと鳴るさまは涼を誘い山県は気に入っている。

 山県に貸しが一つ増えたが、それでもこの絶好の場を逃すことはできない。
 長州閥分裂と言われるが、もし井上が敵に回ったならば、伊藤には郷里の味方はほぼ皆無に等しい。
 おおまかな人間は権力欲や派閥の絶大な力に引かれたか、ぶつくさいいながらも山県についていった。
「あのさ聞多……」
「一国の首相と話すことなどない。更迭けっこう。今すぐやれ、さっさとやれ」
「……聞ちゃん」
 伊藤は見るからにシュンとしたが、井上の方は見向きもしない。
「女の件は謝るよ。ほ、本当に聞ちゃんの馴染みだって知らなかったから」
「………」
「手もつけてはいない。だから……ごめん。謝る」
「一国の首相が簡単に頭を下げたりするな」
「首相の前に僕は聞ちゃんの友達だよ」
 これが自他ともに言われる「伊藤の人たらし」なところだが、免疫がついている井上はその場をたった。
 伊藤の肩をポンと叩き、一言だけ。
「今日から敵だ、覚悟しておけ総理」
 冷たき一言にさらに追い落とされた伊藤だったが、起死回生。いや、こうなったらもうやけだ。
「聞ちゃん」
 ガシッと井上にしがみついた。
「な、なにをしやがる」
「共に髻を切ってまで英国にいった仲間を裏切るの」
「山尾も一緒だっただろうが」
「生も死も共に、と誓った僕を見捨てるの」
「知らん」
「聞ちゃん」
「うるさい」
「聞ちゃんが許してくれるまで、僕こうやって引っ付いていることに今決めた。これでだぁれも長州閥の分裂なんか言わないし」
「俊輔!」
「聞ちゃんは僕のものだよ。山県になんかもったいなくて渡せないんだから」
 こうして廟堂名物、首相伊藤による外相井上へのあまあまいちゃいちゃ攻撃な日日が始まった。
 振り払おうとも意地でも引っ付いている伊藤に、井上が白旗をバサッとあげるのもそうは……遠くないと願いたい。
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WEB拍手一覧 065「仁義なき?お神酒徳利の大喧嘩」

WEB拍手 仁お神酒徳利の大喧嘩

  • 【初出】 2008年07月26日
  • 【終了】 2008年08月09日
  • 【備考】 拍手第65弾・小説五区切りで御礼SSとしています。