拍手066弾:

― 桂さん江 暑中見舞い申し上げます ―

 山口の政治堂では、ほとんどのものが真夏の暑さにへばっていた。
「ほにゃ……ほみゃあ」
「それは何語だ、伊藤」
 上半身裸で団扇でパタパタと扇ぎつつ、意味不明な言葉しか口にせぬ伊藤は……すでに魚の目となっている。
 すでに大の字となり、腹を扇いでいるのだが……意識が半分ほどない。
 ここまでこの男の醜態を見たことは、さすがに山県もなく、仕方ないとばかりに伊藤の腹を団扇で扇いでやると、
「はにゃ……はにゃあぁ」
 気力もないらしい。実に弱弱しい声に、わずかだが山県は同情心が生まれた。
「狂介! 俊輔より自分を仰げ」
 とは、一番風が通る場所を陣取っている高杉だが、こちらも動く気力がないらしく横になったままでいる。
「チビ作……暑いと思うから暑いんだよ」
 久坂玄瑞が、こんな暑い時だというのに、汗を流しながら本を読んでいる。
「久坂! おまえ、本を読みながら意識が半分ないじゃろう。頭にはいらんものを読んでどうするんじゃ」
「心頭を滅却すれば、と戦国の世の僧はのたまう」
「あついもんは暑いじゃろうが」
「だからチビ作は子供なんだよ」
 高杉を小馬鹿にするためならば、久坂はほんのわずかな動きも辛いだろうに、両腕を伸ばしてクスリと笑うのだ。
「この久坂ぁぁぁ」
 威勢がよいのは声だけで、いつもは繰り出される足蹴が今日はない。
「うるさいな。やっぱりチビ作はいつまでたっても子供だね。ぎゃあぎゃあ騒ぐことしかできないんだから」
 あぁうるさいうるさい、と言いながら、久坂はバタンと白目を開けたまま倒れた。
 最期の最期まで本を大切に抱えている所に、久坂の性格が物語られている。
「うるさいことを言いやがって。結局、夏には全然駄目じゃないか。笑える」
 笑おうとしても、笑えば汗がまたダラダラ流れるので、あえて高杉は笑わなかった。


 この一同の中では、いちばんに己が正常な意識を保っていると山県は確信した。
 隣では柱に寄りかかり、必死に小判を数えている井上の姿がある。
 一枚、二枚、三枚……アレ、一枚足りないんじゃないか。
 番町皿屋敷のお菊さんよろしく、暗く淀んだ声で皿ではなく小判を数える井上。
 夏の暑さで意識が飛んでいようとも、小判に対する執念は決して忘れぬのが何とも井上らしい。
 伊藤は相変わらず「ほにゃあ」と気の抜けた声を出す。
 暑さに頭までやられたのか、と無理やり茶碗を押し付ける。
 水を飲む気力がないのか。
 顔にピシャリとかけると、舌で口の周りの水を舐め、「ほぎゃあ」と少しだけ声に活力が戻ったようだが、
 この伊藤に完全なる活力を戻らせるには、方法はただ一つしかないように思われる。
「伊藤、あそこに絶世の美人がいる」
「なっなに。美人だって……どこ。美人さぁん」
「正常な意識はあるようだな」
 フッと一息ついた山県に、
「まさか山県。僕に……あぁぁぁぁぁぁ……急に眩暈が。全気力を使い果たしちゃったよ」
 少しばかり悪いことをしたな、とは思ったが、山県としては別に間違ったことは言ってはいない。
「伊藤、私は偽りを口にした覚えはない。そこに美人がおろう」
 山県は指を指す。伊藤は半信半疑の目でその目を辿るが、なにも見えない。
「山県あぁぁぁ」
「おまえの目は暑さにやられて正常に働かぬのか。そこにいるではないか。白い着物を着て、長い髪を垂らした美女が」
 そこで高杉が、盛大にため息をついた。
「山県。自分にも見えん。たぶんな。聞多にも久坂にも見えんぞ」
「何を言っておられる、高杉さん」
「山県よ。おまえさんもだいぶ暑さにやられちょるな。おまえ特有じゃ。暑さにやられているっていうのによ。
普段と変わらぬ顔をして……冷気まで出しちょりながら、おまえさん……相当頭も目もやられちょる。
昔からじゃ……夏の暑さにやられたとき、おまえ……猫の言葉が分かったり、へんなものが見えたり……」
「おかしなことを言われる高杉さんだ」
「おまえに言われたくはないわ」
「美女だ。……見れぬとは惜しいな、伊藤」
 非科学な現象は全く信じぬ伊藤だが、この山県と親友の井上が言うと別らしい。
 見るからに震え、暑さなどは飛んだようなのが……実に羨ましい。


「さけ……じゃ。酒、もってこい」
 政務役周布政之助は、酒樽を抱えたまま……寝ている。これは寝言だ。
 その横で政敵に等しい椋梨藤太が……コチラも気が狂ったとしか思えない。周布に向けて団扇で扇いでやりながら、意識はほとんどない。
 個性派そろいの長州藩の政治堂であろうと、真夏の炎天下においては機能はほぼ停止。
 今風に言えば熱中症よろしく、とにかく水だけ多分に飲んで急場を凌いでいる。
「どんなに暑くても身だしなみだけはきちんとしないといけませんね」
 と、一人ここ政治堂で羽織袴をきちんとつけている男がいる。
 ほとんどの人間が上衣を脱いでいる中でのこの格好は、ある意味では気がたがえたとしか思えない。
 誰よりも涼しげに見える山県も、羽織だけはつけてはいなかった。
 その男は飄々と笑い、櫛で髪を解かしている。
「山県あ。そのままにしちょけよ。入江さん……それ……半分意識とんじょる」
 と、先ほどよりも覇気がなくなった高杉の声が届いた。
「どう見ても、いつもの入江さんにしか見えんが」
「そうじゃろうな……けどよう見てみろ。入江さん……同じ箇所しか梳かしてないじゃろう? いつもなら全部くまなくやるんじゃ」
「……そう言われれば……」
 意識が半分飛んでいても、自らの身だしなみを気にする入江の根性も凄まじい。
「あっちで目あけたまま意識うしなっちょる栄太も、そのままにしとけ。この暑さじゃからな……自分もそろそろ……」
「高杉さん」
「おまえ……大丈夫なのか、山県」
「私も少しばかり目の前がぼやけているが、まだ……」
「おまえさん……暑さには……」
「私は暑さは苦手だ」
 山県は近くにある水を取ろうとしたが、思いのほか手が重くあがらないことに驚いた。
 そろそろ己の目も限界か。ぼやけていた視界がさらにぼやけ……なにやら船酔いのような気分だ。
 最期に気に入っている庭の景色でも、とツッと顔をあげれば、山県の目にまた人が映った。


「伊藤、また美人が現れたぞ」
 山県の一言に、今度は伊藤は顔をあげず「ほにゃあ」と返すのみだ。
「それもおまえ好みだが……桂さん」
 その一声に、庭先の人は汗を拭いながら部屋に入ってきた。
「狂介。みんなつぶれているのかい? けれどおまえは相変わらず涼しげだね」
 その人の一声が、その人の優しげな声音が、その場の無気力な人間の大半の目を覚まさせた。
「桂さん」
 自他ともに認められる誰よりもその人が好きな高杉が、先ほどの無気力が信じられぬの勢いで駆けた。
「晋作」
 その人、桂小五郎が笑むと、高杉は一瞬にして暑さが飛んだ顔でニヤリと笑う。
「仕事が終わったんか。なら水浴びにいかんか。そうじゃ桂さん……水浴びじゃ」
「元気そうでよかった。おまえは夏に弱く……体も良くないから」
 本当に良かった、と吐息を漏らした桂に、高杉は思わずギュッと抱きついた。
「暑い……晋作」
「桂さんが好きじゃ。桂さん……」
 そこへ扇が凄まじい速さで飛んできた。危うい所で高杉は避け、パシッと桂が手に取った。
「チビ作。頭の線が一本切れて、暑さも分からなくなったのかい。これだからチビ作は」
「チビ言うな、本馬鹿久坂」
「褒め言葉だと受け止めておくよ。チビよりは富士山と石ころなみの差だね」
「石はな、時に人を殺すことができるんじゃ。馬鹿にするな」
「それは自分を小さいと認めたということかい。人間正直がやはり一番だね」
「くさかぁぁぁぁ」
「なんだい、自分を小さいと認めた高杉晋作」
 この二人、一度頭がに火がついたら暑さなど横に置き、子供のように取っ組み合いの喧嘩となる。
 よくもこの炎天下にと思うが、もう一人……半ば意識を飛ばしていたものがムクッと立ち上がった。
「桂さん、俺様の小判が一枚ないんじゃ」


 井上は小判を両手に大切に抱え、桂のもとに差し出す。
「何度も何度も数えたんじゃが、見てくれよ、桂さん。ほら一枚……」
「聞多。君の大切な小判はずっと三枚だったね。ここには三枚あるよ」
「そうじゃったか。四枚なかったか」
「三枚だよ。周布さんが本当は四枚渡したかったのだけど、一枚は酒代でなくなったのでね」
「……そうじゃ。そうだった」
 井上は桂の一声で安心し、小判を懐に閉まって後、バタンと倒れた。顔は笑っている。
 これもまた井上の凄まじい小判に対する執念だった。
「聞ちゃん……もんちゃん……」
 這うようにして伊藤が倒れた井上にもとに寄り、頬をぺちぺちと叩くが、井上の意識は戻らなかった。
「俊輔も体が辛そうだね」
「かつらさん……でも僕……桂さんの顔をみたらだいぶ元気になりました」
 ここが伊藤の伊藤たる所以だ。美人を見ればこの男は暑さも寒さも飛んで、ニコッと笑う。
 高杉と久坂はもはや暑さなど消え、凄まじい口げんかを繰り返し、入江は髪を梳かし続ける。
 山県はとりあえず茶碗に水を入れ、一つは伊藤の顔にかけ、もう一つは井上にかけ、そしてもう一杯は桂に差し出した。
「なにをするんだよ」
「少しは正気に戻ったか」
「……今の水ぶっかけに悪意はなかったと言い切れる?」
「水を飲む気力とてなかっただろう」
「今はあるんだけど」
「それは良かったな」
「……山県ぁぁ!」
 水をかけられようとへらへら笑った顔のまま寝ている井上はそのまま。
 そして酒樽を抱えていた周布はにたぁと不気味な笑いを刻み、
「おう桂か。暑いのう。そろそろ中元にお主に胃薬をおくっちゃろうとおもっちょったが」
「いりません」
「気にするな。楽しみにしちょれ」
 それだけを言い、また横になった。
 周布の一言にそこらにいる正気の人間たちはみな、何かを思いついたのだろう。
 高杉と久坂が身をただし、その横に伊藤が井上をズルズルと引きずって座る。
 目を開けたまま寝ていた吉田栄太郎も起き上がり、髪をとかしていた入江もにこにこ顔のまま座した。
 決めたとおりだ。桂が現れたならばそろって挨拶をしようと話がついていた。
 山県もその場に座し、全員いっせいに桂に向けて、
「暑中見舞い申し上げます。どうぞこの夏も後始末、よろしくお願いします」
 一瞬驚いた顔をした桂だが、すぐにクスクスと笑い、
「後始末っていうところが……おまえたちだね」
 ふわりとした笑顔を向けて、「こちらこそ宜しく」と桂は言った。
 その一言でこの夏も乗り切れるかのような……暑さも吹き飛ぶ爽やかな笑顔だった。
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WEB拍手一覧 066「桂さん江 暑中見舞い申し上げます」

WEB拍手 暑中見舞い申し上げます

  • 【初出】 2008年08月10日
  • 【終了】 2008年09月13日
  • 【備考】 拍手第66弾・小説五区切りで御礼SSとしています。