― 手 ―
「こう……手をかざしてごらん。指と指の間からもれる光は、黄金よりもきれいだよ」
近所の六歳年上の幼馴染は、柔らかく微笑みながら、太陽に手をかざす。
それを横から見上げていた自分は、太陽に輝く幼馴染の白き手に「きれい」と思った。
ジッと見つめて、自分は思った。
この手をいつか自分がまもっちゃる。この手がきれいなままであれるように、守っていく。
「きれいじゃ、桂さん」
「そうだよね、ほら晋作も手をかざしてごらん」
自分は太陽に手をかざすことをせず、幼馴染の手をギュッと握り締めた。
「晋作?」
「桂さんの手がきれいじゃ」
きょとんとした幼馴染は、次の瞬間、にっこりと笑って、自分の頭をくしゃくしゃにする。
「晋作の手もきれいだよ」
「自分の手は小さい。それに……」
「きれいだよ。ほら……こんなにお日様にあてるときれい」
ニコニコと笑う幼馴染の笑顔は木漏れ日のようにきれいで、
日の光よりも、自分にとってはなによりもまぶしくうつくしき……大切な光。
あなたが笑うと自分は嬉しい。あなたがきれいに輝くと眩しく不安になり、思わず縋りついて手を握り締めてしまう。
「どうしたのだい?」
星は燃え尽きる前にいちばんに輝くと知っているから。
輝きすぎないで欲しい。ひっそりと静かに輝く自分だけの星でいて欲しい。
「桂さんが好きじゃ」
幼馴染は「馬鹿」と小さく呟きながら、
この一言に飛びっきりの微笑みを返してくれる。
それが自分のいちばんの宝物。
その白き手を大切に、大切に、守ってきた人を僕は知っている。
本当はその手に刀など持たせずに、真綿に包み込むようにして守りたかったのも知っている。
その人は、大切な人を守るために刀を白き手に握った。
その大切な人には「あなた」も当然含まれているのに、
その人が刀を鞘から抜くだけで、「あなた」は血相を変えた。
「駄目じゃ。桂さんは刀を抜いちゃ駄目じゃ」
その人は少しばかり苦笑をして、諦めたかのように鞘に戻す。
あなたが刀を見るのを嫌がるから、その人はあなたの前では刀を抜かない。
あなたはその人の手が白くきれいなままであることを願った。
その人は、あなたの願いを知りながらも、あなたを含め大切な人を守るために刀を抜く。
思いはどちらも強く、信念のように一本気で、
だが、僕は「あなた」の願いが勝ったことを知っている。
その白き手は白きまま……一滴の赤に染まることなく、白きまま。
今はもう、その人は決して刀を握ることは無い。
江戸三大道場練兵館の塾頭まで立ったその人は、
生涯、一度として人を斬ったことはなかった。
もとより人の命を尊ぶ人であったけれど、
刀を握り締めるとき、いつも「あなた」の顔が浮かんだのだという。
『晋作は、私が人を斬るのが一番に嫌がったからね』
その人の手は白く白く……どこまでも白くきれいで、
されど失った大切な人たちを思い、散った命を思い、その責任の重き黒さに、
白き手は染まっているかのような……。
今日もその白き手はペンを握り、文字を書き、細くきれいなままに……人には見える。
僕は人に頭を撫ぜられるのが大キライだ。
それは僕の背が小さいことを、暗に言っているように見える。
なぜなら、僕の頭を撫ぜるのは、僕より背が高い人間ばかりだ。
人は僕を背が小さくて可愛いというのだが、僕はこの背が劣等感である。
僕を「可愛い」と撫ぜる人間には、足蹴にするか噛み付くか、必ず報復は遂げる。
けれど、
「市」
旧名を呼び、僕の頭を撫ぜるその人の白い手。
やさしく、愛しげに、僕の名を呼ぶ。
僕はその人の白い手が好きで、僕の名を呼ぶ声が好きで、
たった一人、僕は彼にだけ頭を撫ぜることを許してしまう。
大好きな大好きな彼の手。
哀しみに染まったその白い手。
誰よりも白いままに、罪にも、穢れにも染まらずに、白いままで。
どれだけその手が「罪」と嘆こうとも、
その手を見る人は、その手が白く美しいと思えるように。
多くの罪に染まったあの幕末において、
その白さを罪の代償とはしたくはなかった。
白く、白く、どこまでも白く。
多くの罪を背負おうとも、白く、白くあり続けることが、贖罪かのように。
「僕はあなたが大好きだよ」
その白き手を握り締めて、僕は言う。
「私も市が大好きです」
僕の頭を撫ぜるその手が、
とってもとっても僕は大好きで……きれい。
よほどのことが無い限り筆を持ち、文字を綴るその白き手。
重要書類にサインをする際に、万年筆に持ちかえられる。
一瞬の躊躇いはいつものこと。この異国より伝わった文明の進化ともいえる万年筆は、この人にとっては葛藤の一つと言える。
己はその姿を見据えながら、何も言わない。
文字を綴る手は白きまま。この人はその白き手は赤に染まっていると思い続けている。
あえてこの人に手も身も白いまま、血に染まらずにあり続けるように強要したあの男は、残酷だ。
自らが白く清らかに、霞むほどにはかなく生きねばならないのは、
一番に酷なことだということを、あの男は何ゆえに思いいたらなかったのか。
「どうしたのだい、狂介」
黙したままである己に、遠慮がちにかけられる声。
「何か用事があってきたのではないのかい」
「………」
「おまえは黙り続けると何時間もそのままだからね。何の用件だい?」
「伊藤に、貴兄はこの頃また食が細くなったと聞いたゆえ」
瞬間、この人は見るからにビクリとなり、キョロキョロと視線を彷徨わせる。
「逃げる場所はない」
己が「食の話題」をすると、こうして見るからに怯えるのは今に始まったことではない。
あの幕末のおりより、この人は己が強引に食を取らせねば、二日三日飲み物で済ますという困った人だった。
「きょう……狂介。私はほらちゃんと食べているよ」
目の前にあるクッキーを恐る恐る差し出してくるその白き手。
「置いてあるだけか」
さらにビクリとなり、顔色が青ざめていく姿に、己はため息を一つ。
「今宵、私と夜は付き合ってくださるように。食べやすいものを用意させる」
「……私は今は今は忙しい」
「何か言われたか」
「……夜は……忙しい」
「では今、いつものように無理やり食べさせることにする」
「夜……付き合う」
その白き手が万年筆を握り締める。軽くインクが手に染まるのを見て、
あの男の血がこの手を染めた日のことを思い出した。
喀血の赤は次第に黒に色をかえ、この人の手を覆っていったあの日。
「晋作……晋作」
喀血を、今まで無理をして幼馴染のこの人にだけは隠してきた。
そう今のように、哀しく不安で……苦しい顔をするのを知っていたから。
自分の体に異変を感じたあの時に、死ということを意識したあの日に、
自分が思ったことは、この人を置いて逝くという一つの事実が……一番に辛かった。
「桂さん……手が」
自分の血で染まったその白い手が、一番に気にかかった。
「ダメじゃ……桂さんの手は白のままじゃなければならん」
あの幼き日、日に光を浴びて輝くこの人の白い手がきれいで、
自分がこの手を白いままで守っていこうと思った。
自分にとって、いつも、どこでも、この人自身がお日様のように温かく、輝いていた。
少しばかりおぼろげな意識の中で、懐紙を取り出して、この人の手を拭く。
血になど染まって欲しくない。この手は白いまま。輝いて、きれいで……。
「晋作、私の手はとうの昔に血に染まっているよ」
自分の血に染まったその手のまま、この人は自分の手を握り締める。
「当の昔からきれいなどではない」
「きれいじゃ、いつも桂さんの手はきれいじゃ」
「この手がたくさんの人を死なせてきた。私の命令一つで死した命も少なく無い。私は……きれいなどではない」
「例えそうでも……桂さん。アンタがきれいなことが、この長州の唯一の癒しなんじゃ」
どこまでもアンタはきれいでいないとならない。
自分たちのためにきれいでいて欲しい。
その姿だけでも、罪や穢れを知らぬように。あなた自身が、自分たちが描く理想郷のように。
「罪も穢れも知らぬきれいさなどないことくらいしっちょる。だから、桂さんはきれいなままでいないとならない」
なんと残酷な一言か、と自分は思ったが、
この人は悲しげに微笑んだ。
「おまえがそう望むなら……」
どれだけ苦しもうとも、その望みのままに、きれいさを装おうと。
「桂さんが好きじゃ。この白い手はいつまでも白いまま。自分が守った白さじゃ」
この白い手を見るたびに、自分を思い出してほしい。
自分を刻み付けて、この自分は逝く。
白い白い大好きな桂さん。自分は……残酷なことを押し付けて、我儘に逝くだろうから。
それでも、どうかこの自分を忘れないで。
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