拍手073弾:

― 明治政府の宴 ―

 一年間の締めくくりの宴会を「忘年会」と名付けたのは薩摩の中井弘……号は桜州という男である。
 型破りのこの中井という男は、いささか長州の井上馨とは因縁がある。
「何でおまえがいるんだよ」
「おや……これは馨くんではないかい」
「馨くんいうな」
「奥方はお元気かな。いつでもこの私が迎えに参ります、とお伝え願えないか」
「誰が伝えるか。ってな、俺の家に来るな。武子と会うな」
 中井はふっと笑い、胸ポケットより煙管を取り出し口にくわえた。
 ここは九段上にある参議木戸孝允本宅。
 本日は、明治政府の重鎮一同、日頃の恨みを胸におさめて、年の瀬くらいはみんな仲良く忘年会をしようとなった。
 現滋賀県知事の中井も、同郷の大久保に呼ばれてこの忘年会に顔を出した。ここに来れば井上と会えると確信していたからともいえる。
 井上馨の妻武子は、元芸妓であり、この中井の妻でもあった女である。
 中井が薩摩に戻る際に、武子を友人の大隈重信に預けた。その大隈宅に居候していたこの井上が武子に一目惚れしてしまった。
 いつしか武子と井上は恋仲となり、惚れあったならば仕方なし、と大隈は二人の祝言をとりおこなうことに決めたのである。
 そして祝言の日に、なんとこの中井はひょいと顔を出した。
 ……流血沙汰になることを覚悟したのは、その場の全員であったろう。
 なぜか祝言の証人として呼ばれた山県有朋と伊藤博文は、その場で大きくため息をついたのだが、
『好きあったならば、よか。おいは身をひきもんそ』
 と、あっさりと中井は言ったのである。されどこの時に突きつけられた条件により、未だに井上はこの中井に振り回されていたりする。
「数日前に武子さんから手紙をいただいてね。馨くん、浮気をしたかね」
「この超多忙な井上馨さまが浮気をする暇があるか」
「武子さんはこう言った。この頃は不動産にばかり興味を出し、私に振り向きもしません。あれは浮気も同様」
「なっなんだと」
「君と武子さんの祝言の際に、この私は言いましたね。条件を出しましたね。君が浮気をしたら……」
「俺は浮気などしていないぞ」
「武子さんは返してもらうとね」
 にこりと中井は笑い、その横で井上はぐったりと青ざめいている。
 これを中井の、妻を奪われた腹いせの井上いじめと……誰もが知っていたりしたので、近づくものは皆無に等しい。


 この邸宅の主、木戸孝允は、先ほどから苦笑ばかりをしている。
「……狂介。私は……」
「宴会で酒は飲むなとはいってはいない。飲みながらきちんと食事を取るようにと忠言しているだけだ」
「でもね……その」
「食べたくはないとは言わせぬ」
 木戸は過保護な年下の保護者と言われる陸軍卿山県有朋に、強引に食事をとるように迫られていた。
 年越しそばを周囲の人間はおいしそうに食べているというのに、木戸だけ箸を付けようとしないのをめざとく山県が発見してのである。
「この一杯食さねば、酒は飲ませはせぬ」
 食は細いが酒好きの木戸である。
 この長州の後輩の一度口にしたならばどのような手を使っても実行する性格も、よくよく承知している。
 ジーッと重い暗闇の瞳に見つめられ、木戸は観念したかのようにそばを食べ始めた。
「相変わらず木戸はさんは、山県には弱いですね。僕が何を言っても食べてくれないのにな」
 すでに酒がまわっている伊藤が、わずかに視界が回っている中で、そんな言葉をいう。
「それはさ、伊藤さん。ガタには伝家の宝刀があるからね。ほら……食さぬならば」
「市! それは聞きたくないよ、僕。あぁ腹が立つ」
「本当は伊藤さんがしたいんじゃないの。でも伊藤さんは木戸さんには甘いから、できないよね」
 ニタニタと牛乳を飲みながら笑うのは、山田顕義。長州閥の人間である。
 木戸は山田と伊藤をジーッと見つつ、そばを食べる箸を止める。
 さて出るかな、と山田はほくそ笑んだ。山県の今年納めの伝家の宝刀一声。
「食べぬとあらば致し方ない。口移しでよろしいか」
 山県に低くそう囁かれれば、木戸としては何度か痛い目にあった記憶があるために、必死に横に首を振ってそばを食べる。
 この伝家の宝刀の一言に、木戸は必要以上に怯える。
「ガタ。やっぱり年の暮れまで保護者だったね」
 と、山田がにやりとすると、なぜか山田のまえにチーズが置かれ、あぁ自分も過保護にされているかも、と思ったりもした。
 ことのほか山県が渡してくれるチーズはおいしい。


「………」
 少し離れた席で、そんな長州の人間たちの様子を見ている男がいる。
「一蔵さん。まるで、あちらに加わりたいみたいですね」
 小西郷こと西郷従道がぼそりと、傍らの大久保利通に囁く。
「………少しばかり馴れ馴れしい」
「あぁ長州の人間たちですか。いつものことでしょう」
 スッと大久保は立ち、酒を片手に木戸の元に向かうのを見て、従道はため息を落とす。
 今年一年、この大久保の勘違いから発した「木戸孝允に向ける恋情」に、振り回されてきた従道である。
 この年の瀬までまたこの勘違いに振り回されるのかと思うと、軽く胃が痛み始めた。
「私の木戸さん。注いで下さい」
 その一言にそばを必死に食べていた木戸が、ピクリと眉を動かした。
「ご訂正願います。私は大久保さんのものになった覚えはありませんので」
「またお照れになって。そういうところも相変わらず愛しい」
 スッと和服の懐に手を入れ短刀を取り出そうとした木戸を、伊藤が止めた。
 冗談ではない。年の暮れまで殺傷騒ぎなど笑えはしないではないか。
「ほら木戸さん。そば、食べましょう。山県が怒りますよ」
 ちらりと山県に視線を送り、その感情のない瞳に恐れをなしたのか、木戸は箸をもつ。
「そのように私の前で他の男の顔ばかりを見るとは、妬けますね」
 伊藤に言わせれば、どうしてこう大久保という男はあえて火に油をぶっかけるのか、恨めしくてならない。
「狂介! この大久保の腐った脳みそをたたき割る。刀」
「叩き割るまえに食べられよ。よろしいか」
 この不穏な空気の中で、あくまでも木戸の食事を気にする山県もただ者ではない。
「私の木戸さん。そのような後輩たちばかりを見ておらず、私だけを見なさい」
「なぜ、この私が大久保さんを見なければなりませんか」
「決まっているでしょう。貴公は私の伴侶ですから」
 ピキッと眉間に皺を刻んだ木戸は、そのまま隣室に向かおうとするのを今度は山県が止めた。
「そばを食べられよ」
 ここまで来ると山県の世話好きの過保護は賞賛に値する。
「狂介。どうしても私は今……許せないのだよ」
 と、木戸はその場にある徳利を手に取った。
 山県がピシャリとその手を打つのもわずかに遅く、ゴクゴクと徳利ごと酒を飲み干し、一気に顔面赤くなった。
「や……やばい」
 伊藤がそそっと逃げようとするのを、山県が襟元をつかんで押しとどめる。
「周旋はそちの役目であろう、伊藤」
「なにをいう。こうなったら……僕は被害にあうまえに逃げないと」
 一瞬酒の勢いで立ちくらみを起こした木戸だったが、すぐに朱も引き、その場に閑かに座す。
 そして誰もが戦慄を覚える真冬の氷なみの冷たき微笑みを刻み、
「大久保、私に酒を注げ」
 冷酷につぶやいた。


 シーンとしたイヤな空気に、自分たちの世界に入っていた井上と中井も気づいた。
「馨くん。なにやら空気が変わりましたよ」
「や……やべぇ」
 井上は周囲を見回し、現在真っ青になっている伊藤を発見した。
「おい、大丈夫かよ俊輔。というかさ。桂さんに飲ましたのか」
「ち……違うよ。僕が飲ますわけないじゃないか。木戸さんが徳利ごと……」
「なんで止めないんだよ」
「あまりに急なことで……も、モンタ。僕、に、に、逃げる」
「馬鹿。逃げられるはずがないだろう」
 目の前では杯を大久保の前に突きつけ、酒を注げ、と迫る木戸がいる。
 こうなったら誰も止められない。木戸の酒の酔いが覚めるまで……閑かに見守るしかなかろう。
「お注ぎ致しましょう」
 天下の独裁者とまで言われる大久保に酒を注がせることができる人間は、ほとんどない。
「なにを辛気くさい顔をしている。博文、馨。宴会騒ぎはおまえらの特技だろう」
 長州以外の他藩のものは、ほぼ目をきょとんとしている。
 どのような時でも後輩に優しく、礼儀正しく、はかないまでにきれいな木戸が、今、怜悧な冷たさをにおわせているのだ。
「冷たき貴公もまた美しい」
 と、杯を差し出す木戸の手を取ろうとした大久保の手を、ピシャリと打ち、木戸はにらむ。
「無礼者。私の許しなく私の手に触れることは許さぬ」
「貴公があまりにも美しいゆえ」
「桂が美しいのは当然至極。それを重ねて賞賛しようとも芸のない繰り言にしかならぬ。それに大久保。桂はひげのある男は嫌いぞ」
 木戸は何かを思い至ったらしく、さらに冷たく笑う。
 ゾゾッと伊藤は寒気がし、どうにか逃げを打つが、井上に袖を捕まれて逃げられはしない。
「大久保。私に好かれたいか」
 北国の凍土なみの冷めた声に、その場の温度は十度は下がった。
「私を伴侶とやらにしたいか」
「何を今更。貴公は私の伴侶ではありませんか」
「なった覚えはないが、そうか。ならば伴侶の嫌いなことはせぬよな、貴殿」
「………」
 木戸は懐より短刀を取り出し、その場で電光石火の舞を披露した。
「桂はひげは好かぬ」
 その声と同時に大久保のひげがひらひらと落ちてくる。
 ひげの手入れに毎朝二時間はかけているという噂の大久保のひげが、無惨な形に切られていた。


 薩摩のものは思った「薩長決裂」と。
 長州のものはため息ながらに悟っている。「木戸さんが怒っているよ」と。
「あのよ、桂さんな。酒の速度とか量とかで……な。たまに人格が変わるんだ。知っているだろう。あの黒田を簀巻きにした話をよ」
 現在の木戸の状況に白昼夢を見ているかのような顔をする連中に、井上が説明を若干試みる。
「いつもの桂さんとは正反対でよ。というか……怖いというか冷たいというか。こうなったら誰も近寄らない方がいいぞ。だってよ……刀でもだしたら最後だぞ」
 その木戸は、ひげを呆然と見ている大久保を尻目に、山県に手を差し出した。
「有朋。銃をよこせ」
「………酒は控えるように」
「銃をよこせば考えてやろう」
 吐息ひとつを落とし、山県は立ち上がり、銃ではなく木戸愛用の刀をもってきた。
「ほどほどに」
 井上は「おいおい」と思い、伊藤を引きずって避難する。
 日頃より大久保を全く良からぬものと考えている山県だ。こういう時、刀の一つや二つ木戸に渡すことをためらいなくするだろう。
 満足げに笑った木戸は、鞘を抜き、現れた刃を愛しげに見て後、
「さて大久保。私の伴侶たるものは、私より強くなければならん。どうだ……私と命をかけて勝負をするか」
 江戸三大道場練兵館元塾頭桂小五郎が、刀を愛しげになぜる。
 大久保はようやくひげより目を背け、そのいびつな形となった自らのひげにふれて後、
「私が大切にしているひげに焼き餅とは。貴公は実にかわいらしい」
 悠然と笑んで見せた。
「よくぞいうた。次はその髪……なきものにしてくれよう」
 髭以上に大久保が毎日気にしているその髪を指さしたそのとき、
「最高の愛の告白ですね」
 と、大久保は笑う。
「うわっ……うわうわ」
 顔面蒼白の伊藤がついにドタバタと逃げをうったそのとき、
 木戸邸に一発の銃声が鳴り響いた。
「………」
 銃マニアの三浦悟楼が酒に酔い、発砲したらしい。空弾だったために事なきを得た。
 すさまじい音に我を失った一瞬の隙に、山県は木戸の口に徳利を押し込み、酒を飲ませ、
「あ……ありとも……なにを」
 木戸はというと、そのままバタリとその場に倒れた。
「本年最後の座興だったな。いいか、てめぇらよく覚えておけ。酒に酔った桂さんはよ。強いし、怖いし、政府関係なしに気に入らぬものはやるからな」
 大久保は倒れた木戸を見つめながら、されど愛しげにほほえむ。
「冷酷な貴公を見れた本年の宴はよきもの。来年はじめの宴では、いつもの麗しき貴公に今度こそ酌をしてもらいたいものだ。
 私のかわいい木戸さん」
 薩長の関係は来る年も、おそらく……険悪から始まるに違いない。
→ 拍手御礼SS 074 へ

WEB拍手一覧 073「明治政府の宴」

WEB拍手 明治政府の宴

  • 【初出】 2009年01月01日
  • 【終了】 2009年01月09日
  • 【備考】 拍手第73弾・小説五区切りで御礼SSとしています。