拍手075弾:

― 宴と静養 ―

「ガタ。ねぇガタ」
 第三代内閣総理大臣の大命を受けた山縣有朋に、僕はかわらず私的なときは「ガタ」と呼ぶ。
 この日本で、この権力の権化、または陸軍の法王とも呼ばれる山縣を、ガタと呼ぶのは僕くらいだろう。
「………」
 そんな僕をはっきりといって無視しまくりで書類をしたためる山縣は、
 手をパンパンと叩くと、お付の人間が頭を下げて現れた。
 お盆には温かい牛乳と、チーズがちょんと載っている。
 僕はニッと笑った。
 こういうところが僕が山縣と付かず離れずでいる理由である。
「梧楼ちゃんがたまには顔を見せなさいって言っていたよ」
「そのような暇があるか、と伝えよ。ついでに三浦がいったならば、今ごろはその言葉すら忘れている」
 誰もが認め本人だけは深く否定する物忘れ病の三浦梧楼。
 奇兵隊以来の付き合いの元同僚に対してこの物言いは、あまりと言えばあまりだ。
「ねぇ山縣」
「なんだ」
「僕さ。この頃、思うんだよ。僕らの正義ってなんだったんだろうって。あの維新ってなに? 倒幕ってなに?」
「……山田」
「僕は思うよ。血を流しすぎてまで創ったこの国ってなに? この国の果てってなに?」
「それを見定めるのが生き残ったものの役割ではないのか」
 山縣はペンを止め、まっすぐ僕を見据えてくる。
 陸軍の法王の黒く重いその目は、他の者を威圧し萎縮させるが、僕はこの目を何十年も見てきた。
 今はもうないが、この目がわずかに緩み、柔らかくある人を見つめたのも知っている。
「僕はもう疲れたんだよ、山縣」


 いつからか知れぬが、初代司法大臣を任命され何代もの内閣の司法相としてあった山田は体を病み始めた。
 僕も年だな、と苦笑を浮かべながらも、いつか杖なしでは歩けなくなるだろうこの体が……疎ましい。
 まだまだやらねばならぬものが多いというのに、まだまだ僕の手が必要なものがあるというのに。
 この体は全くといってついていかず、そればかりか衰えて病んで……日日僕に痛みを教える。
 そんな中で、ある日、家で倒れたときに、僕は思った。
 僕の青春のすべてであった維新とはなんだったのか。あの血の結果は、今の政府は……。
 白い天井と、心配気な顔をした妻と娘の顔を見ながら……僕の頭には今までの経過が走馬灯のようによぎった。
 誰一人として僕にこの答えはくれない。誰一人として分からぬ……この国の果て。
「別宅で少し休め、山田」
 低く重い声は、何一つ変わらない。
「今のおまえの問いは、昔……あの人が言っていたのと同じだ」
「ガタ……」
「生き残らねば知れん。最期まで生き残ろうが知れん答えかも知れん。ただ分かることは、俺もおまえも……あの戦争に全てをかけたということだけだ」
 この男の言うことは、いつまでもいつまでも真っ当なままで、それが癪に障るが……。
 盆に置かれているチーズを山田はパクッと食べる。
「チーズはうまいよ、山縣」
「そうか」
 パクパクとニッと笑い食べつつも、山田の心は全くといって晴れはしない。
 病むと気弱になり、思い返すのは昔のことばかりとなる。司法の未来を切り開かねば、と焦りは重く心にのしかかり、気を鬱にさせる。
「老け込む年ではあるまい」
「おまえは年を取るたびに意気揚々だよね」
「それは伊藤に対して言う言葉ではないのか」
「伊藤さんから女をとったらもう腑抜けだよね」
 山田がニタリと笑うと、山縣はわずかに視線をあげ、
「おまえは……そのチーズで長生きするといい」
「なに? ガタもやっぱり僕が居ないと寂しいかな」
 山縣は答えずに、また書類に目を戻していく。
 この男にも寂しいという思いがあるのか、とわずかに意外な思いもあったが、長い付き合いだ。
 山田とてこんな山縣でも傍からいなくなると思うと、若干寂しいと思えたりする。


「そういえば伊藤さん。まだ岩公の娘さんに思いいれがあるようで」
 そこで山縣はぐったりとした顔になった。
「そのスキャンダルで内閣総辞職にまでなったあれが、まだ言うか」
「確かにきれいな女性だったね。伊藤さんの好みそのもので……。総理の座と変えても欲しいという懸想じゃないの」
 戸田伯爵夫人こと岩倉具視の娘は、鹿鳴館の蝶と呼ばれるほどの美女であった。
 立ち上がった山縣は、茶を入れ山田のもとに差し出してきた。
「山田、アレは毎夜女性に恋をしているつもりで、誰にも恋などしてはいない」
「さすが天敵だね。よぉく知っている」
「あれが恋をするのは政治だろう」
 言いえて妙だが、伊藤より政治と女を奪ったならばただの腑抜けとなろう。
「みんな集めてたまにはパッとやろうか。おまえの椿山荘で」
 見るからに嫌な顔をするところがこの男の素直なところといえよう。
「公を忘れてパッとやろう。そうだ……」
「山田」
「芸者を集めてパッとやれば、井上の義父は喜ぶなぁ。鹿鳴館で好きでもないワルツを滑稽に踊っているより……」
「山田!」
 山縣の強い語調にハッとなった山田は、伺うように目の前にある男の顔を眺める。
「少し休め」
「僕はまだ大丈夫だよ」
「その言葉は……よすといい。大丈夫という人間ほど大丈夫ではない」
「おまえの方こそ第一回帝国議会の開催に向けて大丈夫じゃないじゃないか。あのさ。陸奥にあまり任せすぎると後で大しっぺ返しをくらうよ」
「……顔色がよくない。息も上がっていよう」
 適わない、と山田は笑う。こういう時は本当に山縣には適わない。
 付かず離れずに長州時代よりの付き合いで、今も政府に「長州閥」として共に在るこの男。
 妻に娘に「休んで欲しい」といわれようと笑って流す山田だが、この山縣や井上などに言われるとやはり弱い。
「椿山荘で宴会してくれたら……休む」
 吐息を一つ落とし、山縣は頷いた。
「心配しなくても、まだ僕はいかないよ。この維新の結果をまだ見たいからさ」


「めずらしい。山縣が人の言いなりに命の次に大切な椿山荘を使わせるなんてね」
 初代首相伊藤博文が、庭の風情にチラリと目をやり、ニヤリと笑った。
 山田の意向を汲み、椿山荘で仲間内(長州閥)のみで宴がとり行われることになった。
 といっても長州四天王が一同に介するとなると、ほとんどの者がこの宴への出席を丁重に断り、いつもの仲間となってしまっている。
 発起人の司法相山田顕義、場所提供の陸軍の法王にして現首相山縣有朋に、
『僕を誘わなかったらね。今回の議会における運営、一切無視するからね。いいの? 民党と真っ向勝負で』
 と、強引に宴に乗り込んだも等しい初代首相にして枢密院議長伊藤博文。
 みんな集まるなら俺様も、と顔を出した初代外務大臣井上馨。
 山縣の姪の婿にして、山縣閥の重鎮品川弥二郎。現外務大臣青木周蔵。山縣閥官僚系の主軸たる白根専一。前京都府知事槙村正直。
 陸軍少将にして現在は貴族院議員となっている三浦梧楼、鳥尾小弥太。この二人は公的には山縣と真っ向から敵対したものだが、私的になるとやはり「長州閥」の一人だ。
 わだかまりを全て消し、昔の顔で笑いあう。
 陸軍の長州閥は「僕はね、軍人が嫌いなんだよ」という伊藤の一言のもと追い出されている。
 ちなみに誘いを受けた山尾庸三は、新しい金魚を購入しに遠くに行くのだそうで欠席。
 これだけの人間が一同に介することは滅多にない。
 新聞各社は「何の悪巧みの相談か」と色めき立っているが、まさか山田顕義を静養させるための宴とは思ってもいないだろう。
「市、おや市。こんなところにいたのかい。あまりに見えなくてね。今、おおぉぉぃ、市。どこにいる。と大声を出そうと思ったよ」
 顔を見れば、変わらずに嫌味を言いまくる品川とは、山田は古い付き合いだ。
 それこそあの長州の松下村塾で、共に机を並べて吉田松陰に学んで以来の付き合いなのだが、
「弥二は一言多い」
 思いっきり品川の足を踏みつけてやろうとしたが、ひょいと品川は避けてニタリと笑う。
「この陸軍の法王の山縣が、なにを思ったのか。おまえのために椿山荘を使わすなんてね。市のあまりにも哀れな背の低さに同情したのかと思ってしまったよ」
「弥二ぃぃぃぃ」
「いつになっても伸びないね。上にも横にも伸びずに、あぁかわいそうな市。いつまでもお子ちゃま。人はこれをチビという」
 くわぁぁぁと品川に挑む山田を、これぞ頭を抑えてフフッと笑う品川は実に楽しげだ。
「この俺としては、ここに……若干一名さえいなければ、最高に楽しいのだけどね」
 青木はその若干一名を冷たく見据える。
「蛇の分際でよくいうね」
 にらまれている主、伊藤博文はいつもの人好きのするニコニコを消し去った。
「俺は蛇で十分だ。風見鶏の伊藤さん。あっちを向いたりこっちを向いたりよりまし」
「蛇といわれるより僕はずっとよいけど」
「そんなどっちつかずの風見鶏だから、公に最後の最後まで信用されなかったんだな。公……ああ俺の公。伊藤など信用しなくて正解です」
 と、なんと胸ポケットにそっと忍ばせている「青木の公」の写真を掲げ、うっとりと眺める。
「青木。写真が哀れだからやめなよ」
「黙れ、伊藤博文。俺はいつでもどこでも公と一緒なんだ」
「すごぉく……木戸さんは嫌がると思うけど」
「あぁぁ……公」
 事あるごとに亡き木戸孝允の写真を掲げて「公~」と叫ぶのが、青木の日課ともなっている。
「あぁぁぁぁぁむかつく。青木、おまえ左遷するよ」
「現首相は山縣さんで、俺は外務大臣。政府に関係のない伊藤こそ、ぽいだ」
「呼び捨てにするな」
「やかましい」
 山縣が頭を抱え、ジロリと青木と伊藤を睨み据えた。


「閣下」
 白根の低く落ち着いた声音に、山縣はハッと我に戻る。どうも長州閥の連中に囲まれると山縣は「陸軍の法王」ではなく、一個人となってしまう。
「一献受けていただけますか」
 頷き、白根より杯を受けた山縣だが、目の前では今だ青木と伊藤が堂々巡りの言い会いになっている様に頭を抱えた。
「白根、俺にも」
 不意に現れた井上が山縣の傍らに座した。
 白根は答えずに、井上の杯にも酒を注いだ。
「いいじゃないかよ、山縣。昔はこう騒がしかったんだ。いつもいつも桂さんを囲んでよ。昔に戻った感じがするぞ」
「騒がしすぎる」
「この頃はおまえさんめっきり口数も少なくなった。たまには昔を思い出して賑やかになるのも一興って奴さ」
 にたりと笑う井上は、相変わらずその愛嬌が憎めなさを醸しだす。
「山縣にも優しいところかあると俺は見直したところです」
 三浦梧楼がその端正な顔ににこりと笑みを滲ませる。
「梧楼。山縣を見直すところなど一つもない」
 陸軍を離れようとも愛用の銃刀を離すことはない鳥尾小弥太がいう。
「そういうなよ、小弥太。どうせ梧楼だ。山縣を見直したことなど明日には忘れているさ」
「ひどいことをいいますね、井上さん。まるで俺が惚けていると……」
「梧楼。おまえさん、昨日の夕飯はなにを食べた?」
「そんなこと……簡単に……えぇ……と」
 いつもの罠にかかった三浦は、この後座り込んで必死に昨日の夕飯を思い出す。
 その姿にため息を落とす鳥尾は、いつもの通りにお茶やらを考え込む三浦に飲ませ、気分を落ち着かせようとしているのだが。
 一度考え込んだら、抜け出せない三浦は、もう……「昨日の夕飯」の虜だ。
 ちなみに三浦の昨夜の夕飯は「煮込み蕎麦」
 これを思い出すのに、なんと五時間もかかってしまっている。
「閣下、周囲の人間などお気にせずにお飲み下さい」
 白根の言葉に頷きつつも、これが「長州閥」でなければ落ち着けるが、同僚となればそうはいかない。
 こんな奴らと一括りで「長州閥」とされるなど身の恥とも思えた。


「青木のその写真……見ると妙に思いだされる。違いますかな、山縣さん」
 現在は勅撰にて貴族院議員となっている槙村正直が、わずかに昔と変わらぬ苦味と歪みを重ねた笑みを滲ませた。
「……一人だけ足りないからな。早く逝き過ぎた。それでもな。いちばん嫌な時代を見ずに済んだだけ、桂さんは幸せかもしれんな」
 井上は杯を一気に飲み、「市」と義理の息子の名を呼んだ。
「おまえ、ここまで山縣にさせたんだ。ちゃあんと療養しろ」
「うるさいなぁ、お義父さん」
 今の今まで品川と堂々巡りを繰り広げていた山田が顔を膨らます。
「休めよ、ちゃんと寝ろ。牛乳ばかりじゃなぁくもっと栄養あるものを食べろ。市……長生きしろよ」
 この宴からまた一人抜けていくことが……井上としては耐えられないのだろう。
「俺様はいつまでもこの仲間たちで狂ったような馬鹿騒ぎをしていたいんだな。春は庭で……そう眉間を寄せるな山縣」
 年齢順で行けばいちばんに年上の井上だ。年若いものから消えていくその逆摂理には悲しいものもあろう。
「分かっている。少しの間、那須で療養するから……美味しいチーズ送ってよね」
「チーズくらいたらふく送ってやる。……山縣がな」
 なぜに己が……と睨もうとも、井上は知らぬ顔だ。
 山田は昨今、やつれた。明らかに病の色が色濃く滲む。
 顔を見るたびに心配で心配で、井上などは口を酸っぱくして「養生」ばかりを口にしていた。
「でもさ。療養しても……ちゃんと見舞いくらいはきてよ。僕……騒がしくないのイヤだからさ」
「当たり前だろう。みんなで押しかけてやる。だからさっさと療養しろ。市、いいか」
 山田は少しだけ下を向いたが、その後にニカッと笑って頷いた。
 ホッと安堵の吐息を漏らした井上は、杯をまたしても飲みきり、白根に注がせる。
「市にとっては、療養する前にみんなで騒ぎたかったんだろう。気分転換だ。山縣……ありがとな」
「井上さん」
「おまえが宴をしてくれなければ、みんな集まらん。今じゃ敵やら味方やら色々だ」
 もう昔のように、「長州の仲間」という一括りで朝まで騒ぎ通す……それだけではすまなくなった。
 皆が「肩書き」を背負っており、同郷の人間だろうが……敵と会えば様々な憶測が飛ぶ。
「……たまには宴もいい。だがな……ちょいと思い出すから……な」
 明治に入りこの長州閥はよく宴をしたが、その中にいた穏やかな薄幸の貴公子はもう……どこにもいない。
「騒ぐぞ、おい俊輔。踊ろうぜ」
 椿山荘の風情ある質実にして静寂な佇まいが、今ではお祭り騒ぎで活気さえ見られる。

 その中で、山田顕義は笑いながら、
 この時にはっきりと自覚してしまった。
 おそらく……僕が最初に……逝く。この体はもう……病に蝕まれ、元に戻ることはないだろう。
 だから……生きているうちに、この仲間たちと、何度でもこうして……騒いで騒いで……。
 生きていることを楽しいと思えるときを過ごしていたい。
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WEB拍手一覧 075「宴と静養」

WEB拍手 宴と静養

  • 【初出】 2009年02月08日
  • 【終了】 2009年03月01日
  • 【備考】 拍手第75弾・小説五区切りで御礼SSとしています。