拍手083弾:

― 夏の大喧嘩? ―

 夏のうだる暑さは苦手だ。
 扇子でこの身を扇ごうとも、まったくといって涼しい風は身を包みはしない。
 ましてや仰ぐだけの気力もなくなり、陸軍卿山県有朋は、ついに視界が揺らぎ始めたとき、限界を思った。
「お~~い山県」
 何とも言いようがない不快な声に、またさらに視界が激しく揺らぐ。
「暑い暑い。なんとかこの暑さならない」
 ヒョイと団扇で扇ぎながら現れた男は、工部大輔という要職にあるというに、
 だらしないことこの上なし。シャツの釦は半分ほど外れ、何と腕まくりまでしている。当然上着は着用していない。
 普段は百倍自らの身だしなみには気をつけるというに、暑さには負けてたのか。
「おまえは暑くないの。こんな日に背広をきちんと着用してさ」
「伊藤」
「なに?」
「おまえの顔を見ると、さらに暑くなった。今すぐ出て行け」
「なにさ。せっかく暑中見舞いに来たこの僕にその言い様はなに? わざわざ桜田門近くの陸軍省まで廟堂から出向いてきたんだよ。もう少し労わってよ」
 伊藤博文はドサッとソファーに座し、また「暑い暑い」と扇ぎ始めた。
「単に涼みに来たのだろう」
「そうだよ。それ以外の用事にわざわざここまで歩いてくるはずないじゃないか。来る間に暑くて倒れるかと思ったけど」
 陸軍卿室は風通しがよく、また年中日影となる場所にあるので、夏でも一番に涼しい場所として、長州閥には格好の涼みの場とされていた。
 また山県からして、その風情が夏は幾分威力が現象はするが、北国の永久凍土の如くひんやりとしたものがあり、  伊藤いわく「山県の周りは周囲の気温より十度は下がって感じられる」とのことだ。
 猛暑となると、日ごろは敬遠されがちな山県の周りに、長州の人間はこぞって集まる。
 それをこの山県に言わせれば「迷惑だ」の一言に尽きた。
「暑い暑い」
「夏の暑いのは当然のこと、と良く大村さんが口癖のように言っていた」
 少しばかり昔のことを思い出すと、
「あの先生は理屈を淡々と言うから愛嬌がなかったんだよね。なんか懐かしいな。犬には理屈が通じない、と良く逃げ回っていたっけね」
 その大村益次郎も三年ほど前に暗殺された折の傷が元でこの世を去っている。
「犬と高杉さんは同様に苦手ともいっていた」
「どちらも理屈なしだから。犬と同様にされて高杉さん怒り狂っていたね。大村先生のことを火達磨なんてあだ名をつけてさ」
 昔を思い出してか伊藤はケラケラと笑い出し、
「ねぇ山県」
「なんだ」
 ようやく視界が定まったので、伊藤と自分用に冷茶を入れる。
「夏ってさ。どうも僕は……昔のことを思い出すんだよね」


 冷茶をグビッと飲み、おいしい♪ と伊藤は言った。
「木戸さんは春が一番に弱いよね。桜や梅を見るだけで……高杉さんを思い出すから」
「高杉さんは……家族に等しかったゆえ」
「そうだけど。夏の方が……みんな……だからね。それでも春の方が身体とかも弱る。おまえも……夏の方が弱いよね」
「何をいう」
「天敵の僕だから分かるよ。おまえ夏は弱いよね。ここで風鈴の音を聞いてだいぶ涼んでいるけど、本当はもうふらふらだよね」
「黙れ」
「お前ってさ。図星を突かれると僕には黙れだよね」
「………今すぐ出て行け」
「イヤだね」
「さらに暑くなる」
「もういっぱいお茶でも飲みなよ。暑いときに熱くなってもしょうがないじゃん」
「伊藤」
「だからさ……僕は今日は仲良く思い出話をしようとしているのだから」
「おまえと私が思い出話だと」
 山県の雰囲気がさらに凍えていく。伊藤はいやぁ涼しいな、と得たり顔だ。
「そう思い出話」
 にっこりと笑い冷茶をもう一度飲もうと手を伸ばすが、それを山県がサッと手に取った。
「お前とする思い出話など奈落の底だ」
「なにその表現」
「奈落の底を彷徨うろくでもないことしかない」
「……この十代からの付き合いの僕に言う言葉ぁ」
「ならば私とお前の少しはまともな思い出話をしてみろ」
 絶対にありえん、とついに背広を脱ぎ、伊藤の前のソファーに座した山県は、腕と足を組み踏ん反り返った。
「楽しかったよね。恒例の花見」
「いつもお前は泣き上戸、怒り上戸、ついには絡んで口付けを誰からともなくし、私は面倒を見せられ苦労した」
「えーーと。みんなで見た月見」
「先に等しい」
「高杉さんがパッと遊んだ色町」
「払いをどこから出すか頭を痛めた」
「奇兵隊の宿舎」
「騒ぎばかりで眠れずにおまえらに水をかけた」
「あのときのことは忘れないよ。真冬だというのに、水を浴びせたな、おまえ」
「人の安眠を妨害するおまえらが悪い」
「みんなで仲良く騒いでいるのに、一人別室で寝るおまえが悪い」
「翌日は政務所に行かねばならなかったのだ」
「だからってさ」
「今でも後悔している。あの水に雪を入れて冷やせばよかったと」
「山県」
 ついに伊藤は頭に血が上りバンとテーブルを叩いた。


 現在陸軍卿室の扉元には、多くの陸軍官僚が顔を覗かせている。
 寡黙で評判の陸軍卿が、天敵と呼ばれる伊藤とまさに波長が合う言い合いを繰り広げていることに、
 明日は雹か槍が降る、と思っているものもいるが、たいていのものは、
『なんだ。仲が良いじゃないか』
 である。
 だが、そこにヒョイと顔を出した三浦梧楼陸軍少将の言は違っていた。
「相変わらずの仲の悪さですね」
 長州の人間に言わせれば、この二人はどれだけ話を繰り広げようとも、仲が悪く見える。
 だがその言に誰もがジーッと信じられないという目で三浦を視る。
「そのうち物の投げあいを始めますよ。でも、大丈夫かな。山県、顔色が悪いから夏ばて中だね」
 誰が見ても普段と顔色が変わらないのだが、三浦から見ると別の顔色に映るらしい。
「……倒れると思いますから、そこの君。悪いですが廟堂にいって木戸さんを呼んできてもらえますか」
 指名された小男は陸軍少尉の階級証が見えた。
 敬礼してドカドカと歩く姿に、アレ? と三浦は思う。どこかで視たことが在る。
 されど三浦梧楼、一昨日の夕食を思い返すに半日かかる男。
 記憶の片隅にしか残らない小男のことなど、思い出せるはずがない。
 一方部屋の中では、さらに熱くなる口論が始まっていた。
「おまえはいつもそうだよ。冬の寒さで僕がうたた寝をしてしまったときに、刀の鞘先で肩を叩きつけるし」
「これも後悔している。あのまま起こさずに凍死させれぱ良かった」
「なにをいう。僕が居なかったらおまえなんか構ってくれる人間もいないくせに」
「おまえなど小うるさい知人一だ」
「言うね、河豚の毒が怖くて河豚を食べなかった狂介」
「もし毒にあたり大事を実行できず、小事で死すなど馬鹿馬鹿しい」
「石橋を叩いても隅すら渡ろうとしない」
「重箱の隅を突く伊藤」
「陰険」
「風見鶏」
「狂介の分際で」
「八方美人の伊藤が良くいう」
 ピキッとなった伊藤はついにその手が掴んだ茶碗を山県に向けて放り出した。
「狂介の阿呆」
 ヒョイと避けた山県も負けじと扇子を投げつける。
 見事に伊藤の避けたはずのおでこに当たる。
「狂介!」
 当たる方が馬鹿だ、と言うかのようにふん、と山県は笑う。
 ちなみに山県が嫌味っぽく笑うのは、伊藤だけであり、ついでにこの時は精神の限界を意味する。
 それを伊藤は重々承知だが、どうにもいらだって後ろに下がり、手当たり次第物を投げ始める。
「狂介のいけず」
「なんだその言葉は」
「狂介の瓢箪」
「黙れ」
 ものが飛び交う惨状を外野はただ茫然と見ているしかない。
 なんだろうこの子どもじみたいいあいは。
 陸軍省の恐怖的存在である山県が、それこそ伊藤と馬鹿馬鹿しい喧嘩をしているのである。
「あーーーあ」
 三浦がため息をついた。
「これでは山県が倒れますよ。いつもながら壮絶ですね、夏の気分転換は」


 偶然その場を通りがかった山田顕義は、人混みを目にしてなんだろう、と顔を出した。
 陸軍卿室の前にこんなに人が群がっているなど、尋常なことではない。
 ヒョイとどうにか人を避けて顔を出すと、部屋の中では物が飛びかう恒例の喧嘩が始まっていた。
「やぁ梧楼ちゃん。またあの二人、始まったの」
「市、いつもどおりだよ」
「夏になるとどうしてやるかな、いつもいつも。これをやると山県……さ」
「木戸さんを呼びにいってもらったよ。山県は……限界超えているから」
「分かっていてもやるんだよね、この気分転換」
「そうですね。どちらにも気分転換なんでしょう」
「気兼ねなく罵れる間柄って……天敵というよりトモダチだと思うんだけどさ」
「それはそこの二人だけは絶対に認めませんね」
 こりもせず、ついには置時計まで飛び交っている惨状に「あちゃあ」と山田は叫んだ。
「今日の気分転換、なかなかに強烈だね」
「これでは……山県が持たない」
 長州閥の仲間はみな、知っている。
 夏が極度に弱く、夏になると頭が茫然としながらも、仕事だけはこなす山県を理解している。
 限界を超えようと平然としているが、ただ伊藤にだけはこうして限界を知らしめる切れ方をするのだ。
「風鈴でも鳴らしてやろうかな、涼めるように」
「そこでちろりちろり鳴っているよ」
 今、白熱した喧嘩を繰り広げている二人には風鈴の音など聞こえるはずがない。
 汗ダラダラな二人である。
 伊藤は釦を全て外し、ここが仕事場ということを忘れて、戦闘体勢である。
 珍しく山県はネクタイを外し、腕まくりを始めている。
 既に意識が飛んでいることを意味した。通常の思考回路があるならば、山県は決して身を崩しはしない。
「狂介の阿呆」
 物を投げるのに疲れたらしい伊藤は、ピシャリと山県の頬を背伸びして殴った。
「………!」
 避ける気力がない山県は、鈍い痛みにくらりとなったが、
 やり返すことだけは忘れない。
 コチラは握りこぶしで伊藤の頬を殴りつけた。
「ふぎゃあ」
 伊藤がバタンと倒れたとき、ハッと我に返ったかのように「伊藤」と呼んだ。
「あっいたいた。なにさ、山県」
「大丈夫か」
「おまえに心配されるほどに僕はやわじゃないよ」
「そうか」
「……おまえこそそろそろヤバいんじゃない」
「あぁ……そろそろらしい」
「ふーーん。じゃあ起きたら再開ということで」
「しばらくはごめんだ」
「よい気分転換だろう。こうでもしないとね」
 おまえは絶対に自分では「限界」だとは言わないんだよ。
 フッと珍しく笑った山県はそのまま、バタン、とその場に倒れた。


「解散、解散」
 山田が野次馬を蹴散らし、パンと扉を閉めた。
「市、相変わらず乱暴ですよ」
 三浦も後に続く。
「いいんだよ、僕は。……伊藤さん、怪我はない?」
 その場でぐたりとなっている伊藤はムクッと身体を起こす。
「全然大丈夫だよ。あっ気分爽快。今日も新橋で遊ぶよ」
「その元気はいったいどこから来るのでしょうか」
「梧楼。男たるもの元気は女だよ。そのために暑さを吹き飛ばす気分転換もしたし」
 これは一種の憂さ晴らし。時たま、伊藤と山県がやる盛大な「気分転換」である。
「いいよね。お互い気兼ねなく罵り合える関係もさ」
「こういうことしか僕にとって山県は役に立たないし……何より、この男は本当に手間がかかる」
 自分たちがどれだけ注意しても、夏ばて中に無理をしまくる。
 山県がこうまで夏が苦手になったのは、あの元治元年の八月。暑い暑すぎた……あの夏が原因だ。
 久坂や入江が倒れ、下関ではかの四カ国艦隊による砲撃を受けた……あの夏。
「休むということを知らない奴はやってられないね。休むことが……まるで罪だと思っている奴は」
 汗をシャツの袖で拭き、伊藤は立ち上がった。
「冷水でもかけてやろうかな」
「やめなよ、ようやく眠ったんだから。木戸さん呼んだし、僕らよりはこういう時のガタの扱い方を良く心得ているよ」
「ぇぇぇええ木戸さんを呼んだの?」
「ガタは木戸さんにはこういう時は素直だからね」
 そこでトントントンと三度のノックの後に、ゆっくりと顔を出したのは噂の主木戸孝允である。
「派手にやったね」
 部屋の惨状にまずは一言。
「伊藤さんとガタだから……いつもの罵り喧嘩」
 山田がニタッとし、
「こんな暑いときによくやれると俺は感心します」
 とは三浦。
「本当にね」
 木戸はそっと山県に寄り、おそらく来る途中で冷やしてきたぬぐいを額に当てる。
「狂介は意地っ張りだから。俊輔も……素直ではないね」
「木戸さん、それはどういう意味ですか」
「表現が回りくどいよ。狂介が心配なら、違う方法で眠らせてあげればいいのに」
「なんですかね。僕は別に心配などしていませんよ」
「薬がききにくいけど、大量の睡眠薬を投与すれば狂介でも眠れると思うし」
「……木戸さん」
 それは投与の量を間違うと、間違いなく山県はあの世いきである。
「少し涼しい風が入ってくる時間にもなったし、狂介はここで横にさせておくから、市と梧楼は仕事に戻りなさい。
 俊輔はこの部屋の後片付けをしてね」
 三人とも「はぁぃ」と口にし、伊藤は一人「仕方ないな」と部屋の片付けを始めた。
 ソファーに横にさせられた山県の顔色は、木戸が見る限り、すこぶる悪い。
「本当に意地っ張りだね、狂介。相変わらず」
 盥に冷えた水を汲み、木戸はこまめに拭いを変えながら、山県の顔を見ていた。
 今年の限界を通り過ぎた顔もまた、焦燥が映る。あの幕末の長州を駆けた……あの夏と同じように。
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WEB拍手一覧 083「夏の大喧嘩?」

WEB拍手 夏の大喧嘩?

  • 【初出】 2009年07月26日
  • 【終了】 2009年09月04日
  • 【備考】 拍手第83弾・小説五区切りで御礼SSとしています。