拍手085弾:

― 手紙 ―

 初代首相伊藤博文は、筆まめである。
 彼の手紙は多く残っているが、その中で天敵と呼ばれる山県への手紙は実に興味深い。

「また、おまえ。山県に書いているのか」
 伊藤は、せかせか何かに憑かれるように山県有朋へ手紙をしたためている。
「昔、あの密航から帰って来たときも、おまえ、異国の情勢をちまちま山県に話していたよな」
 仲が悪いのに妙だ、と井上は首をかしげる。
「聞多」
「なんだぁ」
 この頃お気に入りの銀の煙管で、トントンと火鉢を叩くのは井上馨。
 伊藤にとっては、一番の親友であり、お神酒徳利とまで言われる仲である。
「聞多は山県に借りってある?」
「はあぁぁ?」
 同じ長州の三歳年下の山県とは、つかず離れずの関係である井上だ。
 昔より山県は体が弱いというのに、自らがそれを自覚せず無理を通すため、心配をしたり気遣うことを井上はしてきた。
 友といえば友だが、それを認め合うには年を取りすぎた故、山県のいう「知人」がちょうどいい。
「……あるといえばあるな。色々と妥協と協力を取り付けるために……いろいろあったしな」
「そうなんだ……聞多は。あいつにネチネチやられてないんだね」
「なんだ、そりゃあ」
 時折、山県という男は底意地が悪く、徹底して裏から手を回し邪魔をすることはあるが、それは公の時だけだ。
 毎年毎年忘れもせずに暑中見舞いも中元も歳暮も贈ってくる。生真面目な男でもあった。
「僕が山県に借りている数は三百二だよ」
「あぁぁ、それか」
 井上はニタリと笑う。
 いつ頃からか、山県は伊藤に対してのみ「貸しにしておく」というようになった。
 そしてことあるごとに「貸しが二百三十二ある」やら、正確な貸しの数を伊藤に突きつけ、なにやら要求する。
「それにしても三百二になったのかよ」
「アイツ、僕の表に出せん女の関係とかなんか知っているんだよね。それを一つ一つこれ見よがしに」
「そうかいそうかい」
「何でこう僕ばっかり標的にするんだろう」
「しゃあないだろう」
 伊藤は山県にとって最大で最高の「天敵」なのだから。
「で、俊輔。その山県への国内情勢を報せる手紙。そういうことかよ」
「そうだよ」
 大きなため息をついて「借りを返しているだけ」といった。
「ふーーん。けったいなことだな」
「本当にね。京都に引きこもっているからさ。現在の情勢を知りたいんじゃないの」
「お前に頼まなくとも、アイツにはその手の話を簡単にする子分がいっぱいいるじゃないか」
「……そうなのにね」
「おかしな奴だな」
 おそらく多大にたまった「貸し」を、伊藤からどうにか返してもらうために情勢を報告させているだけだろう。
 それとも単なる一種の嫌がらせなのか。判断に迷う所ではある。
「それにあわせて愚痴を言ってやる。全てはあの山県の子分たちのせいなんだからね」
 時は第四次伊藤内閣の最中。
 今、伊藤は神経をイライラさせるほどに、いらだっていた。


 筆まめな山県有朋は、方々に数多い手紙を遺している。
 また方々からも手紙が来るのだが、田中光顕の手紙などは読まずに丸めて捨てたいとたまに思うことすらあった。
 下ネタで意味不明な……ことばかりだ。
 また青木周蔵の手紙も時折意味がわからない「金がない。寒い」と書いてきたときには、唖然としたものである。
 伊藤博文よりの手紙は、概ね焼き捨てることにしている。
「……だんなさま、伊藤さまよりでございます」
 その日は使いのものが伊藤よりの書状を持参してきた。
 めずらしく梅の枝に手紙を結んでいる。
 山県はゾッと寒気がした。読まなくとも分かる。ろくなことはあるまい。
「貞子。それは燃やせ」
 二まわりも違う若妻に、淡々と山県が告げたのだが、
「うるわしい梅の香りでございますのに」
「それがあの男の悪い手だ」
 貞子は小さく笑う。
「だんなさまが読まぬと仰るなら、この貞子が読みましょう」
「貞子」
「大切なご用件でしたら、後で仕返しをされますでしょう?」
 何が仕返しだ。よほどの重大事なら「梅の花」に結んできたりはしない。むしろ堂々と乗り込んでこよう。
「閣下の薫陶に属する連中が反対勢力」
 やはりか、と山県は思った。
 現在、政界は第四次伊藤内閣。伊藤が自らの与党政友会を率いての組閣がある。
 この内閣成立には色々と裏事情があった。
 まず先の内閣の首相であった山県が、法案成立など仕事をやり遂げ、次なる首相は伊藤博文と奏上した。
 未だ政友会の基盤が整わず、伊藤は形振り構わずに「政党を準備し、必ず山県内閣のために働く」とまで告げてきたが、
 山県は断固として総辞職の構えを崩さなかった。
「黙れ、と返しておけ」
「……だんなさま」
「……返事はしたためる。小賢しい伊藤だ。したためねば一日と置かず手紙の山を送ってくる」
 事実、厄介なことほど伊藤の手紙攻撃は執拗だった。
 内容からして、いわゆる山県閥に属する貴族院の主勢力が、伊藤内閣の予算案に真っ向から反対し、予算が通らないという事態となっているということだ。
 貴族院は政党に対して甚だ「不快」を露にし、伊藤に対して猜疑心が伺える。
 ……山県は、曖昧な返事を伊藤に返した。
 だが後に井上が「底意地が悪いぞ」と苦笑するほどに、さして調整に踏み出しはしなかったのだ。
「貸し三百三だ。そろそろ返してもらわねばな」
 し烈きわまる政争をもって払ってもらうことにした。
「だんなさまは、そう貸し借りを数えられるのはいつも伊藤さまだけですのね」
 小さく貞子が囁くので、山県はふとその声に……止まった。
 二まわりも年が違う貞子のその声も、微笑んだ姿も、若かりし頃の亡き妻「友子」を思い出させる。
 芸妓「やまと」を落飾させたのも、妻として迎え入れたのも、亡き妻の面影を追ったからだ。
 それは貞子も承知しており、山県の最後を看取るこの女性は、最後の最後まで籍を入れず、内縁の妻としての発表も拒んだ。
 桂太郎や寺内など子飼いの側近たちが貞子を慕い「おくさま」と呼ばせて欲しい、とわざわざ山県に断りを入れている。
「アレが俺に借りすぎるゆえだ」
 貞子を見ると在りし日の友子を思い出す。
 ……忘れぬこと。
 最後に友子が願ったのはそんな小さなことで、故に貞子を山県は迎えた。


「聞多」
 伊藤は頭を抱えると、ついつい井上の顔をジッと見る癖がある。
「また、また、また……山県か」
 コクリと頷き、伊藤は珍しいことにシュンと下を見る。
 この憔悴ぶりは、実に珍しい。快活でさして物事に悩まず楽天家の伊藤だ。
「俺がどうにかできることか」
「……山県のあの派閥、壊したい」
「あぁぁぁ! そりゃあ無理だ」
「じゃあ渡辺を引きずりおろして、蔵相に聞多がなってよ」
「それも……困難だ」
 第四次伊藤内閣において、当初、伊藤は大蔵大臣に財政に関しては一人者ともいえる井上を当てようとした。
 だが自派の渡辺国武が蔵相のポストがなければ、政友会を脱退するとまでいい伊藤を脅したのだ。
 政友会の創立幹部脱退は、非常に痛手である。
 先に創立に関わった伊藤にとっては側近中の側近伊東巳代治が、政友会には入党せず、袂をわかったばかりだ。
「緊縮財政はしゃあないだろう。渡辺の意見はよう分かる。原たちが激怒するのも分かるがよ。けどな……山県は納得せんからな」
「このままだと閣内不統一を取られて……総辞職だよ」
「ご愁傷様だな」
「聞多」
「しゃあないだろう。実に旨く派閥など作ったよ、あいつは。もう俺様たちは抑えられん。こうまで大きくしてしまったのも、また俺たちだろう?」
 伊藤の政党主義に反する人間が、頼った先が山県である。
 それらがいつしか結束し、陸軍を中心に官僚系、貴族院まで取り巻き、一大派閥「山県閥」を築いた。
「俊輔よ。どうにか持ちこたえろよ。次の奏上は……桂太郎になるぞ」
「イヤだよ。聞多がやりなよ。桂君だなんて……山県の意のままというやつだよ」
「そうさ。アレは……昔から山県を信奉しているからな。だぁから、何とか頑張れ」
「無理。山県が僕を助ける気、全然ないんだから」
「……どうにかならんのかよ」
「もう僕たちは完全に敵だよ。何とか繋ぐのは……そうだね。僕たちはもう同郷の仲間ということだけ。妥協と協調の繰り返し」
「因果は回るな、俊輔」
「まるで他人事だよね」
「そうだな。言っておくが政友会は財政で統一が取れていない。俺様も……今回は見捨てる」
「聞多ぁぁ」
「敵にならんから安心しとけ」
 二人顔を見合わせ、はぁぁ、とため息をつく。
 長州三尊といわれる彼らだが、いつしか路が随分と違うようになった。
 まだ山県の派閥が表に出る前は、伊藤と山県はそれなりにうまくやっていた。
 伊藤の後塵を拝する山県は、伊藤をそれなりに立てていたし、伊藤も山県をきちんと優遇していた。
 それが今では……むしろ山県に伊藤はやり込められている。
「ついでに言うが、渡辺はなかなかに頑固だからな。まぁ頑張れよ」
 おそらく無理だろうな、と井上はニヤニヤする。


「静観しているといい」
 山県は、子飼いの側近桂太郎にそう一言告げた。
「伊藤の考えはよく分かる。総辞職の後は奏上はおそらく井上さんだ」
「……閣下。僕は井上さんと縁続きでなかなかによくしてもらっています」
 同じ長州閥ということも影響して、桂太郎は井上にそれなりに可愛がられている。
 その縁もあり、桂が下働きの可奈子という女性を後添いにした際、井上の養女にしてもらった。
「首相にはなりたくないのか」
 桂はわずかにニッと笑う。
「僕が首相に立てば、閣下の思いが国政に注げるのですね」
 山県は何も言わず、ポケットより煙草を取り出す。桂は自然とライターを取り出し、煙草に火を近づけた。
「……僕がなります。閣下の側近の中で僕以外が首相に立つなど許せないから」
 山県が官僚系の側近清浦奎吾へ向ける期待の高さをよく知っている。
 また山県閥ではないが、側近とも言える児玉源太郎へ向ける視線に……いつも桂は苛立つ。
 山県の一歩後ろを歩くのは、自分でいい。そしていつか肩を並べて共に歩くのは、自分だけだ。
「井上さんから陸軍大臣への誘いがありましたら、僕は固辞します」
 もはや山県以外に仕えるつもりは毛頭ない。
「……任せる」
「はい、閣下」
 山県閥の後継者、または幹事長を自認する桂太郎は、いつも不安でならない。
 若かりし頃より山県に一途に仕えて来た桂だ。
 もとより山県のためならば、火の中水の中。どのような悪巧みも惜しみはしない。
 だが、側近一番手といわれる桂を、いつまでたっても山県は心には入れようとしなかった。
 自分よりもあの清浦や平田。または悪戯大好きな児玉源太郎をどれだけ気にかけているか。
 この頃は政友会より鞍替えした田健治郎を子どものように可愛がっているという。
 どれだけ心を痛めているか。どれほどに山県に振り向いて欲しいか。
 故に桂は首相に立つ。他の誰でもなくこの役目に指名されたのは自分であることで、少しばかり気分が浮き立った。
「内相は……内藤あたりだろうが、時期を見て児玉にしておくといい。台湾統治は見事であった」
 気分が一瞬にして冷めた。
 桂にとっても児玉は得がたい友人なのだが、山県の口からこの名だけは聞きたくはない。
 されど拒否することも今の桂にはできない。
「御意のままに」
 仲が良い友人であるというのに、
 ただの一点だけで、桂は意図も簡単に児玉を憎める。
 山県の心に適う児玉の才を、どれだけ……どれほどに憎いか。
 煙草を口にくわえたまま、山県はスッと立ち上がる。
 ビクッと意識し、桂も立ち上がる。
 山県の背中を見ると、いつもわびしい。まだ届かない。まだ追いつけない。されど、
「いかがした?」
 この手で山県の背広を掴み、桂はただ「閣下」とだけ呼ぶ。
「閣下にとって僕はまだ必要な人間ですよね」
 不安で不安でつい口にしてしまう言葉。
 山県はいつも……立ち止るが、答えはしない。
(やさしいやさしい……残酷な閣下)
 だから僕はいつも不安でたまらない。


 首相の大命を受けながらも、人事にてこずり、潔く首相の座を諦めた井上馨から手紙が届いた。
 ……宴会をやろう。
 お祭り騒ぎが大好きな井上らしいが、これもまた珍しい。
 井上が自ら幹事となり宴を主催することは稀なことだ。たいていの発起人は伊藤で、有無を言わさずであった。
 先の首相辞退の憂さ晴らしでもしようというのか。
 井上らしくパッと芸妓をあげて、親友の伊藤博文と歌えや踊れのどんちゃん騒ぎだろうか。
「……致し方ない」
 了承と山県はしたため、井上に送った。
 第四次伊藤内閣の閣内不一致による総辞職により、次の首相の地位は、伊藤は元老井上馨と奏上した。
 直ちに井上に大命が下ったが、井上は組閣において失敗した。
 桂太郎に陸軍大臣、友人中の友人の渋沢栄一に大蔵大臣を断られ、「しゃあないさ」と笑って首相の座を諦めた。
 山県の予想通り、次の首相の大命が下ったのは自派の「桂太郎」
 世に言う小山県内閣の誕生である。
 季節は六月。東京に吹く風は、ようやく熱を含み始めた時分。
 招待状にありし料亭を訪ねると、奥の座敷に通された。夕暮れの赤が、庭に反射し、池に夕日が沈んでいる。花菖蒲も美しい。
 山県は目を止めた。あの風流など何一つ介さない井上が、こんな洒落た場所を知っていたのが不思議である。
「いつもながら、約束の時間の十五分前の到着かい」
 声に振り向くと、井上馨がニッと笑っていた。
「見事な庭だ」
「そうだろう。お前のためにわざわざ見事な庭を選んでやったのさ。ついでに芸妓をあげることもやめてな」
「………」
 井上らしからぬ気遣いに、わずかに背中に寒いものがよぎる。
「いつものように遅れて俊輔が来るだろうから、庭でも見て待っていてくれ」
「井上さん」
「なんじゃ」
「宴というゆえ、仲間たちを誘ってパッとやるのかと思えば……」
「俺とお前さんと俊輔だけだ」
「………」
「最悪な顔だと思っただろう。しゃあないだろう。この頃、ちょいと色々とあったからな」
 色々どころではない……政局をかけて戦っていた。
「遅れたよ」
 珍しく羽織袴姿で伊藤は現れた。
「聞多が宴なんて珍しいけど……なにこれ。宴というより……何かのいじめ?」
 ギロリと睨みつけてくるが平然と山県は無視した。
「おまえら……」
「聞多も行ってやりなよ。首相就任を邪魔した張本人」
「………」
「しばらく京都にこもっていたから、今だから言ってやる。この僕がおまえに頭まで下げたのに総辞職しやがって。 ついでに僕をと奏上して。政友会の結党直後なんだよ。うまくいくはずがないだろうが。何のいじめ?」
「陛下より大命を受けたのはおまえだ」
「裏で手を回したのは誰かな」
「いい加減にしろよ」
 井上が噂の「雷親父」同様に声を張り上げた。
 滅多に井上はこの二人には怒鳴り声をあげる男ではない。
「今日は何月何日だ、俊輔」
「……六月……二十六日だっけ」
「何の日だ、山県」
「………」
「おまえたちは今はもう自分たちの権力闘争ばかりだな。もう昔のことは捨てたのか。俺は……今のおまえたちはキライだぞ」
「も……もんちゃん」
「そうか。六月二十六日。……二十四年も経ったか」
 山県が視線をわずかに揺らがすと井上は笑った。


「俺様は公的なことを全て忘れるために、今日、山県と俊輔を招待したんだぞ」
 さすがに伊藤も察したらしく、わずかにばつが悪いのか下を向いた。
「昔昔はこの日、みんなであつまっただろう。旧暦と新暦という違いはあるが、生まれたという日付が大切だといってな」
 当時、それほどに「誕生日」に乗り気でなかった井上が、いちばんにこの日を忘れていない。
「市はいない。弥二も先年逝った。野村も病ばかりだ。もう若くないんだぞ、俺たち」
 いつからだろう。
 この日を忘れた振りをして、気にしない振りをして、そして心の奥底に閉じ込めて。
 おそらく伊藤も同様だっただろう。過ぎ去った時に目を奪われるには、己にも伊藤にも未来があった。
「今日は今を忘れてな。たまには思い出話だ。もう俺たち引退してもおかしくない年なのに、元老なんかやっているからな」
 酒が運ばれて、何を思ったのか伊藤が酒瓶を抱えた。
「おい、俊輔」
「忘れるはずがない。忘れたいんだ、僕は。ずっとずっと……僕は忘れたかった。そうしないと……」
 グビッと酒瓶ごとらっぱ飲みを始めた伊藤は、
「最後に僕を遠ざけたあの人をどうして僕は……」
 六月二十六日。その日はこの長州三尊と呼ばれる三人の恩人に等しい「長州の首魁」木戸孝允の誕生日であった。
「前に大隈に会ったときに笑いながら言っていたな。木戸さんに、俺ら三人と仲良くして欲しいと言われたとさ。言うよな、よく」
 けどな、その言葉を聞いて、かなり参った。
 公的には妥協の繰り返しの現在において「仲良く」は絵空事。
 それでも三人を繋ぐのは「長州」という故郷だけだ。
「だからな、この日だけは三人で酒を飲んで昔のことを言い合おうって思ってな。いいだろう? 他の人間とでは世間体やらがついてくるが、俺ら三人だ。 何も気兼ねすることはない……なっ……」
 既に出来上がっている伊藤は、シクシクと泣きながら酒瓶を抱きしめている。
「伊藤」
 この伊藤の酔いに散々に迷惑をかけられてきた山県は一歩も二歩もひこうとしたが、遅きに失した。
「山県。僕だってね……別におまえが憎いわけじゃないよ。けどねうらんで呪いたいだけだから」
 井上は頭を抱える。
「心配をするな。俺も同様だ」
「イヤだよ。僕の呪いはへなちょこだけど、おまえの呪いって本格的だし」
「しとめるときは間違いなくしとめる」
「うわぁぁぁん、もんちゃん」
 泣き上戸でおさまればいい。井上にギュッと抱きつき、なにやら涙をポタポタ流して伊藤は言った。
「昔はよかったね、聞多」
 とれほどの地位も名誉も権力も、全てを極めようとも、日に日にこの胸に吹く乾いた風は何か。
 未来を見、現状の足場をきちんと確保し、それでも過去を少しでも振り返った時には、痛みが胸に押し寄せる。
「そうだな」
 昔が輝き、過去が美化され、何よりも過去には「仲間」が数多く居る。
 遺されたものには過去は「美しい」ものに転換され、現在は「哀しき」ものが映るのだ。
 井上に抱きついたままスヤスヤと寝息をかき始めた伊藤を放置し、
 山県は庭の花菖蒲を見据える。
 雨が降ってきた。
「大切なものができすぎて、だがな。本当に大切なものは……もう少ない」
 井上は煙草に火をつけた。
「たまにはな、山県。こうして昔のように飲もうな。俺たちは……もう互い以外に戦友はいない」
「……分かった」
 気兼ねなく、素の自分を見せ、罵りあうことが出来るのは、
 やはり「仲間」という意識ゆえであることも、山県はよく分かっている。
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WEB拍手一覧 085「手紙」

WEB拍手 手紙

  • 【初出】 2009年10月11日
  • 【終了】 2009年11月08日
  • 【備考】 拍手第85弾・小説五区切りで御礼SSとしています。