拍手104弾:江藤を偲ぶ①

― 副島種臣と木戸孝允 ―

 四月十三日、その報せを受けた木戸孝允は、なぜか無性に飛鳥山を登りたくなった。
 今年は例年よりも気温が低いのが影響してか、桜が見ごろである。
 四月も中ごろとなろうとしている今どきは散り始めとなっているのだが、今年は八部から満開とのことだ。
 木戸はいつからか、桜を好まなくなった。
 桜の時期に、時は多くの大切な人をこの手より奪って行った。
 そして今日もまた……一人の人間が消えた。
「明日は晋作の命日……」
 どうして桜の時期にこうも親しい人が消えるのか。
 昔はとても好きであった花だというのに、今ではこの花を見上げるだけでも胸を痛む。
(どうか……もう……)
 この手から大切な人を奪い去らないでほしい。この胸の痛みをどうか二度と……。
 いっそ我が身が変わりたいもの、と木戸は願ってしまう。
「…………」
 風に吹かれ、桜の花がいっせいに散る。宙をひらひらと舞うその光景に、木戸の心はズキリと痛んだ。
 花見でいちばんに思い出されるのは、明日という暦に……旧暦の四月十四日に亡くなった幼馴染とのことだ。
 家が近所といううこともあり、花が咲けば、近場の名所に行き、二人して飽くこともなく桜を見ていた。
「自分は梅の方が好きじゃよ」
 にかりと笑った幼い幼馴染の顔が、今でもこの目に焼き付いている。
 そして今日、遠き佐賀の地で一人の男が死した。ろくな裁判もされず、最初より「処刑」ありきの裁判を通され、無念の中で死していった。
 悔しかった。もどかしかった。
 何ゆえ、止めえなかったのか。  内務卿大久保利通が、あの岩村高俊を佐賀県権令に就任させた時に、すべてを察したというのに。
 自分という存在はどこまでいっても「傍観者」の粋を超えられぬのか。
『あなたと二人で桜を見る日がこようとは思いもしなかった』
 明治四年春。ただの一度だけ、江藤新平と連れ立ち飛鳥山にて桜を見た。
 日ごろより薩長を攻撃する鋭き矢の如し男だが、木戸と二人だけの折は妙に静かで、穏やかだった。
 心より憎まれている、と思っていただけに木戸には意外だったものだ。
『木戸さん。あなたの思想は私とさして変わりはありません。国家に法を。人民に権利を。行くべき道は同じところにあります』
 確かにその通りだった。木戸はその天敵とも言える大久保よりも、思想もビジョンも江藤の方に近い。
 だが、江藤の思想には現政府を崩壊させた後に、自らのビジョンを持って立つという意思がありありと見受けられた。
 この明治政府は血の中より生まれた木戸の赤子の如し存在とも言える。
 木戸は自ら赤子に刃を立てることを望まず、崩壊は決して望みはしない。守護するために水と油に等しい大久保に妥協とてする。
『共に参りませぬか。長州閥の木戸孝允ではなく、ただの木戸孝允として』
 さしのばされるその手に伸びかかったこの手。
 現政府の腐敗や高官の汚職を見るたびに、心が悲鳴を挙げる。
 自分はこのような政府を守るために生きてきたのではない。大勢の仲間の死を看取ってきたのではない。
 江藤の思想に共鳴し、その思いに同調して生きられたならば、どれほどに心が楽になったか知れない。
 それでも、あの日。この飛鳥山で、木戸は微苦笑を浮かべつつ答えた。
『それでも、私は長州の木戸孝允です』
 あの日、違う言葉を答えていたならば、何かが変わっていただろうか。
 あの日、あの手を取ったならば、少なくとも本日の惨劇を回避する路が見えただろうか。
「………」
 涙を流す資格は自分にはない。
 どこまでも「傍観者」で「評論家」と言われる自分には何もできないのだ。
 彼が最期に残したその言葉の思いは、二度と尋ねることは適わない。
「……唯皇天后土の……」
 小さくつぶやくと、
「わが心知るあるのみ」
 不意に背後より、強引にその言葉を引き取るような重なった言の葉。
「唯皇天后土のわが心知るあるのみ。新平らしい言葉です」
 柔らかな優しい口調は、聞き馴染んだものだ。木戸は承知の上で、振り返り、頭を下げた。
 着流しに羽織という何とも隠居風情の副島種臣は、木戸の傍らに並ぶ。
「見事な桜です。あの新平も、この場には迷わずこれたみたいで。よく花見をしていたのを思い出しました」
「蒼海先生」
 木戸はあえて号の方で呼ぶ。今の副島にはそれがいちばんにふさわしく思えた。
「新平の夢を見ました。夢を見るたびに、新平を思い出すたびに、私は常に贖罪を抱きます。あの日、新平の帰国を知っていたのは私でした。
 新平ではなく、私が戻ればよかった。あの世俗に疎い新平に行かせ、鎮撫など適うはずがない。私が……新平を義勇さんを殺したのです」
 涙を流しつつ突き刺す、それが副島の慟哭と言えた。
 江藤は帰国する前夜、副島邸を訪問している。
 一度は江藤と共に佐賀に帰国することを考えた副島を、あえて江藤が止めたのだという。
「後悔などという生ぬるいものではありません。私は一世一代の大失態を犯しました」
「……それを言うならば、この私も……大久保さんの魂胆を察しながら、止め得なかった」
「……あなたは……」
「蒼海先生ばかりが苦しむことではありません。いや……今、この帝都にある心あるものは皆、泣いています」
 江藤のただ一人の「親友」に等しかった副島の苦痛には及ばぬものの、心あるものは誰もが泣いていよう。
 この佐賀の乱は、大久保利通が仕組んだ罠であり、彼が背負う国家の名を背景にした強烈な見せしめであったのだ。
「江藤くんが旅だったあの日、私にも報せがありました。書生を追わせたのですが……間にあわなかったのです」
「……木戸さん……」
「贖罪ならば私も抱かねばならない。私は三年前……江藤くんに違う言葉を返せたならば。私が……」
 副島と共に木戸は桜を見つめる。
 あの日の江藤は静かに桜を見つめていた。刃の如く人を刺す視線もなく、穏やかなその目は世俗の垢に染まらずに凛として美しく。
「私には江藤くんはきれいすぎたのです」
 共にいこう、と差しのばされるその手。
 志士として活動することもなく明治維新を迎え、能吏として政府になくてはならないものとなったその手は、どこまでもきれいだった。
「かの動乱を一計をもって渡ってきた私には……到底……握ることが適わぬもの」
「……新平はあなたを優しいと言っていた」
 沈みゆく木戸の背を支えながら、副島は天を見上げる。
「なるほど……確かにあなたは優しい。その優しさが時に国家には入れられない。あなたの思想は人民があり、人民ありきで、そこには国家とて入り込まない」
 ゆえに宰相としてあるには、木戸は優しすぎるのだ、と江藤は言ったという。
「木戸さん。このようなところで立ち話もおかしなものです。どうでしょう、本日は私にお付き合いいただけませんか。
 江藤新平への手向けの酒でもどうでしょう」
「……私でよろしければ」
「今日はあなたがいい」
 どちらかと言うと、副島は今まで大久保寄りの男だった。大久保や西郷はこの学識深き学者然とした才子を「蒼海先生」と呼び、常に頭を低くして意見を拝聴していた。
 外務卿より参議に就任した副島は征韓論に賛成し、他の参議と共に下野した。この後は板垣の愛国公社に参加する。
「……ではご一緒させていたたきます」
 そして木戸と副島は今まで互いに話す機会はなく、そのため疎遠にあった。
 二人の間には、なぜかいつも大久保という男があったといっても過言ではない。
 一時は副島の思考に異議をもった木戸だが、今は静かに副島と並んで桜を見つめることができる。
「よく晴れ渡った空です。新平も義勇さんも、天の上で私たちをきっと見ていますね」
 そこには穏やかさがあるのか、それとも憎しみがあるか。それは誰も知れぬ。
 副島は笑って空に手を振った。
「新平。義勇さん。ゆっくりと休め。そのうち私も行くから、それまで兄上の側で好きな書物をいっぱい読んでいるといい」
 この後、副島種臣は政界の表舞台に立つことはなく、宮内と枢密院の顧問としてある。
 彼が世に名を知られるは、むしろ政治家としてよりも、優れた書家としてであった。
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WEB拍手一覧 104「江藤を偲ぶ①」

WEB拍手 江藤を偲ぶ①

  • 【初出】 2011年07月08日
  • 【終了】 2011年08月03日
  • 【備考】 拍手第104弾・江藤新平を偲ぶ