拍手105弾:江藤を偲ぶ②

― 井上馨と大隈重信 ―

 その日、兜町にある井上馨邸の門前に一人の大男が立っていた。
 春とはいえ、その風には初夏の温かさが含む頃合い。黒ずくめのフロックコートを着こむのは妙に暑苦しく、重々しい。
「中に入っていれば良いんじゃ。こんなところに待ちぼうけせずにな」
 気軽く声をかけ、その肩をポンと叩く。
 大男という表現は実に的を射た身の丈六尺前後の大隈重信は、井上を見て苦く笑う。
「主の顔が見たくなった」
 と真顔で言われ、井上は「おうよ」と大仰に頷いた。
「実はな。俺も今日は浴びるをどに酒が飲みたいと思っていたんじゃ。どうだ」
「ご相伴に預かるであるよ」
「よし」
 軽く背伸びをして大隈の肩を抱きながら、井上は館の中に入った。
 大隈とは明治初年のころよりの付き合いであり、一時は築地にある大隈宅に居候していた身の上である井上だ。 その築地梁山泊で今の正妻武子と知り合い、すったもんだの騒動の挙句に大隈夫妻を仲人として華燭の典を挙げた。
 それから四年過ぎた今、井上は官を辞し、現在は実業界に身を置く立場となり、この大隈は参議大蔵卿の立場にある。
「実に久しぶりじゃな、八太郎」
 戻った井上と大隈を見て、ほんわかと笑った武子はすぐさまに酒宴の用意に入った。井上お手製の沢庵をつまみとし、つまみ代わりになる佃煮などが用意され、あとは注しつ注されつの酒宴となる。
「武子。お猪口をな。もうひとつ、用意してくれ」
 武子は何も言わずにただ「はい」とだけ答え、井上の要望通りにお猪口を持ってきた。
 大隈の横にそのお猪口を置き、熱燗をなみなみと注ぐ。
「井上?」
 怪訝に思った大隈に、あえてニタリと笑って見せた井上は、
「気に食わん奴じゃったが、死んだとなれば懐かしくもなるもんじゃ」
 と、小さく言った。
「………」
「昨年の今ごろ、俺は色々な嫌疑で江藤に追いかけ回され、ついでに投獄寸前までいった身の上じゃ。
 こんな俺様に懐かしがられると、あの仏頂面はさらに冷えるだろうが、命日くらいはな。好きにさせてもらう」
「………」
 大隈は口を挟まず、そのお猪口を見ている。
「おまえも偲びたくなってここに来たんじゃろう。八太郎らしいおかしな人選じゃ。江藤の司法卿としての執念に等しかった俺様のところに来るとはな」
 この日、明治六年四月十三日。佐賀の乱の首謀者として前参議にして司法卿江藤新平は梟首されている。その一報はすぐにも帝都に届いていた。


「大久保がここまでするとは思いもよらなかったである」
 佐賀の乱の鎮圧に際しては、司法の権利と陸軍の総帥権をも持って自ら佐賀に赴いた内務卿大久保利通である。
 誰もが江藤の裁判は東京で行われると信じ、反乱の首謀者は極刑とはせず、という暗黙の了解から、その身は助かると安堵していた。
 同郷の大隈とてその一人である。
 だが大久保は土佐の河野を裁判官として、古今東西の法律を照らし合わせて、あえて梟首とした。
 誰もが頷くそれはただの「薩摩への見せしめ」であり、江藤は生贄にされたにすぎない。
「徳川慶喜を助け、会津中将を助け、箱館の榎本を助けた寛大な政府が、一転して残忍さを公に見せつけた。
 あの内務卿さんの性格からすれば、薩摩への警告であり、見せつけであり……ついでに悲鳴だな」
 井上はグイッと酒を飲み干し、すでに空になっている大隈のお猪口に酒を注ぐ。
「なぁ八太郎よ。おまえさんは江藤をどうしたかったんだ」
「……佐賀に下るのを止め得られなかった我が身が情けないである」
「そうだろうな。それは副島さんも大木さんも一緒だろうよ。佐賀は団結する気合がまるでない一匹狼の集団に等しいが、それでも仲間じゃろうが」
「……長州ならば……どうするであるか」
「決して下野させん。させたとしてもさっさと首を捕まえて連れ戻すさ。まぁ俺らの中で反乱の首謀者になり、長州一国を火の海にできる人間などもはや桂さんしかいないんじゃが」
 その桂こと木戸孝允もこの一件には憤慨し、合わせて征台への反対の意思を込めて、辞意の決意を固めていた。
「佐賀の決起の勢いは江藤では止めえんさ。将たるものは奮起する壮士を抑えに抑え尽くさんとならんが、江藤にはそれがなかった。あれは官吏だ。戦たるものは何もわかっとらんかっただろう」
「……さもあらん」
「ついでに何があろうとも大久保は江藤を反乱の首謀者に祭り上げたかった。罠にかけた。したたかさはさすがと思うけどな」
「井上……」
「飲めよ、八太郎。飲んで、何もかも言っちまうんじゃ。俺様は今は官ではない。その俺様の前で何を言おうとも公的なことにならんよ」
 お猪口では飽き足らぬ大隈に、酒豪にふさわしく茶碗を渡し、そこになみなみと酒を注ぐ。
 それを大隈は一気飲みをし、続けてもう一杯飲み干し、ようやく頬にわずかに赤味が見え始めたときに、
「俺は大久保が憎いである」
 小さな本音が漏れた。


「大久保という男は別段江藤など気にかけてもいない。江藤とて大久保という男を憎悪している訳ではない。ただ征韓の争いで政府は二派に分かれ、大久保派が勝った。 大久保のやや保守的な国権主義は、江藤の多分の民権色が強い主義とはかみ合うことはない」
 井上はまるで棒読みのように淡々と告げ、それを聞く大隈に酒を注ぐ。
「江藤の性格にも問題がある。常々、薩と長を争わせ、弱り切った方を叩き、維新の大業を成すが口癖だったか」
「……何を言いたいであるか、井上」
「あの激烈な性格が身を滅ぼしたんだろう。あの法に対する執着は凄まじかったな。俺様もあと一歩で牢屋入りだ。俺と槇村の一件を合わせて、江藤は上に畏怖され目をつけられた。やりすぎだったよな」
「………」
「やりすぎたゆえに大久保の目にとまってしまったのさ」
「………井上」
「もっと飲むんじゃ、八太郎。お互い飲んで飲まれて、今何を言おうとも酒の上のたわごとにせんとならん」
「ぬしはいいやつであるな、井上」
「いまさらなんじゃ」
「いいやつであるよ」
 大隈はようやくわずかに笑い、横に置いてあるお猪口に手を伸ばし、それをグィっと飲んだ。
 そして自らそこに酒を入れ、小さく「新平」と呼んだ。
「いつか俺が権を握ったならば、おまえの名誉を復活してやる。おまえの名も、おまえの行ったことも、司法の独立もすべて……」
「おうよ、やってやれやってやれ。けどよあまり官にばかり目を光らせるなよ」
「おまえが最期の最期まで望んだこの井上元大蔵大輔の逮捕はとても出来はしないのが残念である」
「当たり前じゃ」
「秋霜烈日のおまえの精神は必ず……引き継がせて見せるである」
「おうおう」
「だから新平……新平よ。俺を許してくれ」
 日々大言壮語を吐き、それは時として大風呂敷とまで揶揄される大隈重信が、
 いつも堂々とあり過剰なまでに自信に満ち溢れた男が、
 今、遠き故郷に散った友を思って、ひとり、泣いている。
「泣いてやれよな。泣けよ。俺様は泣けんが、八太郎には泣く理由が大いにある」
 井上は膝を勧め大隈の傍らに座し、両手で目を覆っている大隈の肩をそっと抱いてやる。
「すべて酒の上のことじゃよ。秘密警察が嗅ぎつけようが、何をしようが、これはどこまでもな。酒の上の話に過ぎん」


「俺様はおまえが大嫌いじゃったよ、江藤新平」
 執念に等しいと言われるほどに江藤が司法を総動員して追いに追ったのは、この井上馨であった。
 また井上が官を辞した理由としても、この江藤の司法に対する予算の上乗せの物議から始まり、ついには仲介に入った大隈の言もあり予算の上乗せが認められ、大蔵大輔の職を捨てた。
 あの時、大隈は総裁職として井上をかばわねばならない立場にあったと言われる。
 だが大隈はあえて中立を要し、井上の辞表を受諾した。
 井上がこうしてさしで大隈と会うのは、あの日、辞表を叩きつけた時以来である。
「だかな、江藤新平ほどの男に盲目と言われるほどに追いかけられたのも、またこの俺さまの勲章に等しい」
 だからな、江藤、と井上はお猪口に話しかける。
「おまえほどの男ゆえ、誰一人として恨まぬだろうが、成仏もできんかもしれん。俺様はこの目で死者は視えるからよ。恨みごとがあれば枕元に立つといいぞ」
「………井上……」
「無念でならんなら、その思い、言うだけはタダだ。大いに言うといい。かつての好でちゃあんと八太郎にも副島さんにも桂さんにも……あの大久保にも伝えてやるぞ」
 だから成仏が出来んならでてこい。話くらいならばいつでも聞いてやる。
「それと八太郎。今回の江藤の追跡には指名手配写真が使われたと聞いた」
「………」
「俺の情報網だと後藤象二郎の元に警視庁のお偉方が拝借に来たというが、後藤は出さんかった。ならば……問う。あの江藤の写真を持っていたのは誰じゃ」
「………」
「写真を持つほどに親しかった奴は誰じゃよ。まさか追跡捜査に使われるとは思っていなかったじゃろうが、俺はこういうことは嫌いだ。ついでに大久保のやり方には腹が立つ」
 おそらく江藤と好のあるものが、指名手配写真を警視庁に提出したのだろう。日本第一号の写真による捜査となった事例である。
「俺はおまえがそういうことをする男ではないことは知っているつもりじゃ」
「………当然である」
「だが八太郎は参議だ。私的にはどんなに面白い奴でも、公的になるとおまえは……」
「井上。俺は友を売りはしない」
「………だろうな」
「あの写真は俺が出したのではない。大木も副島さんも同様だ。佐賀から出たのではない。……そう信じているである。信じねば……新平が哀れである」
 感情が破裂したのか、そこで大隈は声をあげて泣いた。
 枝吉神陽塾の同門であり、かの動乱の時代を共に渡ってきた仲間を失ったそれは慟哭でもあり、懺悔でもある。
 なぜに助けられなかったのか。なぜに江藤新平一人を生贄としてしまったのか。
 やりきれない思いは、あえて国権主義の確立のために揺るがぬ信念を見せた大久保利通に向けられた。


「あの写真のことは、お蔵入りだな。誰も口をつぐんで終生白日にさらされんだろうが、俺様は嫌じゃな」
 おそらくあのまま仲裁が入らずに、江藤が執拗に井上を追っていたならば、指名手配写真第一号は井上になっていたかもしれない。
「なぁ八太郎。今のこの国家は権だ。権力がなければ、友一人として救えん」
「……あぁ」
「権をもて力をもて。今のおまえならばそれができる。なぁ権力をもって江藤の仇討をするといいぞ」
 それは多分に痛烈な痛みをもった言葉ともなる。それを承知で井上は呟いたのだ。
 大久保一人の独断とはいえ、江藤を追いやる直接的理由となった征韓論の議論において、大隈は大久保派であり、伊藤と共に江藤を追いやった張本人とも言えた。
 ゆえに懺悔も後悔もひとしおで、だが大隈はあの征韓論の議論に非があったとは思わず、その後の対応が不味かったと認めている。
「それに江藤は、この俺様が司法卿にしてやったというのに、なんとも恩をあだで返す男じゃ」
「なにを言うであるか。それは主の汚職癖が悪いのである」
「なんてこうを言うんじゃ。汚職じゃと。俺は汚職などした覚えはない」
「単に公金と私金の区別がつかんとまだ言うであるか」
「言う」
 エヘンと胸を張った井上に対し、大隈は茫然として、次に吹きあげるように笑った。
「捕まえた方が国家のためだったであるよ、新平」
「俺様はしぶといからな。この後、しぶとく足掻いて生き残って、そのうち国家の第一人者になるかもしれんぞ」
「無理である。おまえの前には俺がいるんだなぁ」
「それは困った」
 と、井上はわずかに考える素振りをして、
「八太郎を踏みつぶして上にあがるというほどに俺様に権力に対する執着はないからよ」
「そうか」
「じゃが、俊輔がそのうち踏みつぶすだろうから、それを高みの見物で見ていようかのう」
「井上。ぬしは悪党だなぁ」
「当たり前だ。あの江藤から逃げ切った俺様は大悪党であるぞ」
 二人して大笑いをし、時にしんみりとなって、この日は故人を……純粋に悼んだ。
 明治六年四月十三日も更けいく頃、二人は大の字になって大いびきをかいて眠っている。
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WEB拍手一覧 105「江藤を偲ぶ②」

WEB拍手 江藤を偲ぶ②

  • 【初出】 2011年08月04日
  • 【終了】 2011年12月02日
  • 【備考】 拍手第105弾・江藤新平を偲ぶ