ある晴天の日の内務卿室。
「信吾くん」
呼びだされた陸軍大輔の西郷従道は重い心境だった。
「私の何がいけないのだろうか」
その重いため息を含んだ言葉に、咄嗟に「全部では」と言いそうになったが、咄嗟に従道は堪えた。
今まで内務卿大久保利通を、兄同然として敬愛してきた従道である。
策士とも悪党とも呼ばれるこの鉄面皮な男が、完全なる勘違いでしかない「恋」をし、半ば「変態」に近い存在になろうとも従道の敬愛の心には一切変化はない。
されど、だ。
この大久保の「恋」のために、日日長州閥より冷ややかな視線を浴びせられ、時には剣の含んだ言葉をちくちくと言われる身にもなってほしい。
「私に妻や妾がいることがいけないのか」
「木戸公いも奥方がおいもすよ」
「ならば子どもがいることがいけないのか。しかも子だくさんで・・・」
「そうゆうこたああまい関係んと考えもす」
「………信吾くん」
縋るような目で見られ、従道は思いっきりため息をつきたくなった。
「木戸公は一蔵さぁを同僚としては意識しておいもんが、それ以外では何とも思っておらんと考えもす」
いやいや木戸の本音は「大久保さんなど死ねばいいのに」であるのだが、それはさすがに口外してはならないだろう。
「昨日、贈った花は喜んでくれたのか」
大久保はちっとも従道の言葉など聞いてなどいない。
「一蔵さぁ」
「どうすればかの人はこの私の思いにこたえてくださるのか」
「………」
そのような摩訶不思議と言えるほどの恐ろしいことは、この国が滅びてもあるまいと従道は思う。
「後輩や仲間たちを名前で呼んでいるというのに、この私だけいつまでも大久保さんや内務卿とはいただけない」
「はぁ」
「そろそろ名前で呼んでくだされてもよろしい頃合いではないか」
「………」
「昨日、五代が来てそのことを相談すると、照れているのではないかとのことだった」
(五代さん。また余計なことを)
あの身も心も商人になって等しい五代は、この大久保に余計な助言をしおかしな商品をおしつけていたりする。
「私の前で他の男と仲良くするのはなぜかも問うたが、それが手管というものだと聞かされた」
「そや……違おいもんで」
「さすがは五代。色恋についてはよくよく心得ている」
「一蔵さぁ。そや違おいもす。あん五代さぁは色恋にくわしかではなく商売に卓越しじぁだけで」
「その照れと手管をどうにか突破して、私は木戸さんに名前で呼ばれたいと思っている」
「ですから一蔵さぁ。あん木戸公は手管など使っておらんのござんで。そげんこっぉ言ったら竹刀で半殺しですよ」
「名前で呼んでいただき、ついでに口づけくらいは頂戴したい」
「じゃっで、一蔵さぁ」
「それには信吾くんの協力が必要だ」
大久保という人は、人の言うことをじっくりと聞く人なのだが、これぞ「恋は盲目」のことわりの通り、恋は大久保をおかしくする。
「人の話しをきちんと聞いてくいやんせよぉ~一蔵さぁ」
と従道が叫んでも、まったくその声は大久保の耳に届いていない。いやもしかしたら言葉は耳の右から左にと流れて行っているのかもしれない。
「まずは木戸さんを呼び出すことから始めよう」
桔梗一輪と共に届けられた手紙には「大事な話があります」としたためられていた。
おや、と木戸はその手紙をジッと見据える。
いつもの頭の腐ったような恋文ではないことが、いささか奇異であり、妙に不気味にも感じられた。
「いつもの大久保さんと比較すると洒落ていますね」
伊藤がクスッと笑った。
「それがどうもおかしい。誰か入れ知恵でもしたのかな」
「・・・木戸さん?」
木戸はニコッと笑ってから、その桔梗の花をそっと握り締めた。
「花占いでもしようかな」
「僕のことを好き嫌いとかするのはもう嫌ですから」
先日の花占いをどうやら根に持っているようだ。
「じゃあ俊輔が私を裏切るかどうかを占ってみるかい?」
「毒舌はちびちびさんのときだけでお願いします」
それは面白くない、と木戸は微苦笑を刻んで、その場から立ち上がった。
花に誘われてあの内務卿のもとに向かうのは癪でもあったが、誘い方が妙に気になることは確かだった。
察した伊藤が竹刀を渡してくるので、それを受け取って、一息つく。
「さて、本日はどのように料理してくれようか」
「この政府が崩れない程度でお願いします。木戸さん、このごろ、本当に容赦が無いから」
容赦をすることを忘れるくらい、あの大久保の脳みそは腐りきっているのだ、と木戸は心底で苦笑した。
内務省に赴くと、なぜか内務卿室の前に西郷従道が立っていた。仁王立ちの風体だがその顔が妙に弱弱しい。
「おや従道くん。どうしたのだい」
大久保を兄同様に慕う従道がこの場にいることはさして不思議ではないのだが、その気弱な表情はいったいどうしたことなのだろう。
「木戸さぁ」
「うん?」
「今日の一蔵さぁはねんじゅ(いつも)にましておかしか」
「・・・」
「ここで引き返してくださうこっぉお勧めしもんで」
「あの男が今まで以上におかしくとはいったいどんなことだい。今でもとてつもなくおかしいというのに」
「いやそん・・・あんの・・・木戸さぁ」
木戸はにっこりと笑って、とりあえず扉を開けて中に入った。
「大事な話があるということで、わざわざ私が参りましたが」
大久保はその場で立ち上がり「恐れ入ります」と頭を下げた。
「桔梗の花に文を結ぶとは洒落ておりますね」
恐る恐る従道が扉の外から中を覗いているので、その手を引っ張って中に引き寄せてみた。大久保と二人だけなどゾっとするからだ。
「外で従道くんがしょぼんとしていましたが、いかがしたのですか」
すると大久保の目が一瞬だけ荒んだ色合いを見せた。
(・・・?)
大久保は足早に木戸の前に歩を進め、その場でなぜか木戸の右手を取り、
「私のことも名前で呼んでいただきたい」
咄嗟に手は振り払ったが、全身を駆け巡る悪寒はそう簡単に振り払えそうにはない。
「なにを言っているのですか」
やはり頭が腐りきっていたようだ。
「貴公が私だけ名前で呼んで下さらないのは手管だというので」
「はぁぁぁ?」
「もう随分と妬いておりますので、そろそろ名前で呼んでいただきたいと切に望んでいる次第です」
(この男!)
竹刀を持つ左手がふるふると震え始める。
「吉原風に言えば、そろそろだんなとして・・・」
「死んでください」
木戸は竹刀を振りあげた。
「貴殿は一度、死んだ方がいい」
「うわあぁぁ。木戸さぁ。それだけはご勘弁を」
「忍耐も勘弁も・・・とうに尽きた」
その凄まじい殺気を大久保は敏感に感じ取ったのか、恐る恐る扉に向かって下がった。
ここで、いつもの木戸ならばこの大久保を散々に追いまわし、竹刀でしばくのが通常なのだが、
本日の気分はそれでは気が済みそうにない。
「大久保さん」
今回は一つこの大久保がいちばんに嫌がることをしてみよう。
竹刀をその場にポイッと放り、木戸は両手をポンと叩いた。
木戸には「特技」はいろいろとあるが、その中でも最たる得意技と言えるのが「ちびちび化」である。
自由自在に五歳ほどの子どもに変身できるという摩訶不思議な特技であるが、この特技、おそらくこの政府でいちばんに嫌うのは当の大久保だ。
ちびちびになった木戸を、大久保は扉前から睨みつけてきた。
もはや逃げる気はないらしい。
(得たり得たり)
ニコッと笑った木戸を、なぜか従道がヒョイと抱き上げた。
「もじょか(可愛い)木戸さぁ。お願いござんで。これ以上、騒ぎにな・・・」
「わたしはそこのおおくぼさんのねがいをかなえてあげようとおもっているのだよ」
ニコニコと最上級の笑みを乗せて、木戸は大久保を見た。
そうその親の仇を見るようなその目を向けられるだけで嬉しくてならない。
(脳みそが腐ったかのような告白よりは何百倍も良い)
当の大久保はと言うと、
「木戸さぁが消えて、んごてここにちびちびなどがいう」
相変わらず木戸が「ちびちび化」したことを認めようとはしない。
ついでに大久保は怒りに冷静さを失うと薩摩弁となる。ちびちびとなった木戸の前ではたいていはお国言葉だ。
「一蔵さぁ。こんちびちびさぁが木戸さぁであって」
「おいの麗しか木戸さぁが、そんよなちんまい悪党じゃぁわけがん」
言いたいことを言ってくれる。
だが木戸はニコニコを続けてやった。
そうお楽しみは長引かせて楽しむのが好きなのだ。
「信吾くん。そんちびちび、今すぐ摘まみ出せ」
「摘まみだせって・・・木戸さぁですよ」
「君の目は腐いきっとうのか。それのどこをいけん見ればあん麗しか木戸さぁになう。そけいうのは悪の権化だ。ちびちびといった生物をおや認めん」
「つぐみちくん。これがまいにち恋をかたるおとこがいうせりふかな。ひどくないかい」
「木戸さぁ。そう挑発せじくいやんせ」
「わたしはおおくぼさんのねがいをかなえてあげるのに」
「願いだと」
「えぇ」
にっこりと笑い、大久保を見つめて、
「わたしになまえをよんでほしいっていいましたね。いいですよ。・・・としみちさん」
その瞬間の悪寒に苛まれぶるぶる震える大久保を、木戸は至高の気分で見つめた。
「・・・としみちさん。わたしになまえをよんでもらってうれしいですか」
おぞましさの極致といった顔に、木戸は「ふんふん」と鼻歌でも歌いたい気分になる。
「・・・虫唾が走ることをいいよって」
「わたしもおおくぼさんに名前をよばれたら、きっとそっとうしてしまうかもしれないですね」
「・・・こんちびちびが」
大久保は仁王のような顔をして木戸の襟首をつかんだ。
「目に入っだけで不快だ。しかもおいの名前は、ちびちびに呼ばれうほど軽いものじゃなか」
「わたしによんでほしかったのでしょう? なんどでもよんであげますよ、としみちさん」
「おいが呼んでほしかのは木戸さぁであって、ちびちびじゃなか」
「おなじことなのに」
「断じて違う!」
そして扉の外に向けてポイッと木戸の身体を放り投げ、扉をバンと乱暴に閉めた。
「あぁあ~おとなげない」
受け身を完璧に取ったので、放り投げられようとも衝撃は何一つなかった。
してやったり、の気分八割。なんだかむしゃくしゃして面白くない思いが二割。
その場で立ち上がると扉が開いて、大久保は扉にバシッと紙を貼って、すぐに閉めた。
……ちびちびお断り!
ここまで嫌い抜かれるとなんだか清々しい。
(これだけ嫌ってくれるなら、さらに苛めぬいて差しあげたくなりますよ)
これから大久保と会い、迫られたならば「ポン」とちびちびになることを木戸は決めた。
だがちびちびというのは歩くことには的していない。
歩いても歩いても全く進んでいる気がしないのが難点だ。
一度「ちびちび化」すると、一時は元に戻れないのも玉にきずといえる。
そのため、木戸はとぼとぼと歩いてやっとこさ内務省を出たが、そのときにはもう汗だくで疲れ切ってしまい、外の木陰で一服していた。
行きかう人々は「なぜ子どもが」という顔をしている。
ちびちびの難点その二は、すぐに眠くなることと言える。
木陰で休んでいると、うとうとと眠気が襲ってくる。
幼子というものは唐突にクタンと動かなくなることがあるが、「ちびちび」も同じらしく休むだけでもう眠い。
「・・・しゅんすけがむかえにこないと・・・」
こんなところで無防備に寝てはいけない。
これは伊藤や山縣に煩いほどに注意されており、木戸は仕方なく頬を抓って目を覚まそうとした。
「おおくぼさんをいじめるとつかれるんだよね」
ふぅ~とため息をついたとき、遠くから伊藤が歩いてくるのが見えた。
伊藤は半時戻らなければ、いつも様子を見に来る。
「しゅんすけ」
手を振ると、驚いた顔をして駆け付けた伊藤は、
「ちびちびになっちゃったんですか」
あからさまにため息をついて、両腕を差し出すので、木戸はヒョイと身を預けた。
伊藤は抱っこが下手で、よほどのことがなければ抱っこされたくないのだが、今はとにかく眠い。
「おおくぼね。わたしがちびちびになると、ほんとうにいやがってたのしかった」
「・・・あまり苛めると仕返しをされますよ」
「なにをいう。いつもいつもおかしなこくはくをうけているわたしのほうが、ずっとめいわくをしている」
「そうですけど・・・」
伊藤が歩きだすと、その揺れ具合が心地よくて木戸は睡魔に逆らえなくなってしまった。
「ねているから」
「どうぞ。部屋に戻りましたらきちんとソファーに寝かせておきますので」
「うん」
そうしてスヤスヤと眠ると、木戸はちびちびのまま短刀をもって大久保を追い掛けている夢を見た。
あの大久保が大切にしている髭を短刀で切り裂くというなんとも傑作な夢で、伊藤いわく眠りながらニタニタと笑っていたらしい。
「まさゆめにしたいなぁ」
毎日丁寧に手入れをしているというあの髭をちょん切られたときの大久保の顔を見てみたい。
こうしてちびちびさんは、大久保内務卿の髭に狙いを定めた。
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