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2013-08-30 8/30 逝く者、いくもの 23章 更新

 
 いつもになく時間がかかった・・・この23章!
 意味合いは5/11の箱館市内総攻撃に向けての間章となります。
 

 
 一部、二部構成にしていない話の中では最長を記録しています・・・・。
 ラストまでまだまだかかりそうなのがネック。これが終わらないと構想を終えている「桂さんin西南戦争」が書けないですね。
 ここの話を西南戦争では使って行きます。特に本多くんについては、かなり働いてもらわないとならないので。
 
 箱館政権は一年ももたなかったのですが、書くことが多くこります。
 唯一実地して地理感がある話なので、風景やその当時の話など・・・ちょっと織り交ぜたくなってしまいます。
 
 
 今回ハリストス正教会を出しました。
 現在のハリストス正教会の場所はもともとロシア人の居住区であり、実行寺より事務機能を移し領事館を建てました。
 函館といえば火事が多い街! 明治の大火災でその教会も領事館も焼けてしまい、領事館は明治39年に幸坂の上に移されました。
 幸坂といえば、坂下がかつては高龍寺。高龍寺から弁天岬台場もけっこう近いです。
 
 
 実地と当時の古地図と、現在の地図をあわせつつ話を書いていますが、
 現在のグーグルマップやらは本当に便利ですね。なによりも「徒歩○分」などとおおまかな時間が出ることがとてもありがたい。
 これに馬で何分なんてのは出ないですが(笑) およそ当時の馬が長距離を走るとして平均的に40キロとして考えています。
 確か新橋―横浜間の最初の鉄道の平均速度が32キロで、これが馬と同様の早さといっていたという記憶があったりします。
 
 
 そのハリストス正教会で洗礼を受けたのが沢辺琢磨です。1868年と記録にあります。
 この沢辺。新潟で前島密の説得で箱館に来ました。おおよそ安政4年。1858年ころです。
 宿屋が襲われた際に持ち前の剣術で撃退し箱館市民に頼りにされるようになったとか。
 ついで神明社の宮司沢辺悌之助さんの娘婿となり、義父亡きあとに宮司を継ぎました。
 ちなみにこの神明社は、高龍寺のわずか上。当時の坂名で言うと神明坂の中腹(今で言うと千歳坂になるのかな)です。
 
 
 龍馬伝でとりあげられていたこともあり、この時期に沢辺は箱館に戻っているので、少しばかりハリストス正教会と合わせてだしてみました。
 沢辺が仙台藩士と交流があったのも事実で、特に金成善左衛門(額兵隊軍監)とは仲が良く、この時期にも交流を持っています。
 金成と言えば、星の義兄。なんとはなく、色々な意味で繋がってきます。
 また西郷頼母の一子吉十郎を預かったり・・・いろいろな意味で名前が出てくるので、
 額兵隊との関係上、登場させることにしました。
 
 
 ところで沢辺琢磨は江戸に出て桃井道場の師範代になっています。
 21歳の折に例の金時計の事件があり、脱藩したらしいですが・・・年的には桂さんと変わらないのです。
 さて練兵館の桂さんと、桃井道場の沢辺。会ったことはあるのかな。
 少しおいしいかなと思いましたが、あえて今回は知らないことにしました。
 山本琢磨という名に覚えはあっても、沢辺琢磨は桂さんには覚えがないと言うことで・・・・。
 
 現在土方副長に中島先生、播龍の松岡に、大野右仲の四人だけが素性を知っているとのことで(鳥さん・・・?)
 これ以上、増やしたらきりがなくなりそうです。
 
 
 そしてもう一つ、北海道用語「火事」として語られる「脱走火事」
 
 札幌の「御用火事」(by岩村通俊)と並んで語られるこの「脱走火事」は5月11日、箱館市内でおこったものです。
 御用火事は何度も取りあげている岩村の半キレによると命をかけた政策ですが、
 榎本のこの脱走火事は、さて・・・箱館総攻撃の際に弁天町に火をつけ、民家八百戸が焼失した、と記録にはあります。
 これを記録では箱館政権側が火を付け、民衆はこれを恨みに持ったとありますが、
 真実、どちらがつけたのでしょうか。いまいち分からないのです。
 
 
 そして高龍寺の放火ですが、実はこの脱走火事が広がり燃えたとする説も出ています。
 確かに弁天町と高龍寺は近い! 高龍寺の周囲も脱走火事の範囲に入っています。
 この脱走火事をどちらの引火にするか・・・定説通りにするべきか。ここが少し悩んでいたりします。
 
 といった逝く者ですが、最期に諏訪常吉を出したところで終わりにしました。
 諏訪は会津藩士ですが、少しばかり箱館戦争のキーパーソンであったりします。
 ですが不思議とお墓は実行寺にあるのですが、他の隊士とは離れていて見つかったのは昭和に入ってからのひと。
 諏訪だけなぜに? と思ったりします。
 また諏訪は会津の公用方であったので、これから薩摩とのかかわりになくてはならなくなったりします。
 次回、諏訪が矢不来に置いてきた手紙と、今回は登場しなかった大鳥&本多コンビなど。
 
 
 きっとこの間章は沢辺琢磨の登場で・・・思いのほか混乱してまとめるのに時間がかかった気がします。
 珍しく桂さんの回想を軸としました。
 函館にはこの7月に行ってきましたが、元町周辺は鐘の音が聞こえる異国情緒のある街です。
 そして坂道の往復に本当に疲れる・・・。この函館の坂制覇と比較するならば、霊山や清水など私は軽く往復します(笑)
 
 次の更新は比較的早めを予定しています。
 対等者の最終話が先か、こちらの24章が先か。5/11に至るまでの経過をとにかく早く書こうと急いでいます。
 ここ数話は人物ではなく流れ優先。そろそろ東京で探索している人たちも出さねば・・・。
 
 
 
 ついでに一昨日の歴史ヒストリアで取りあげられた、田邊朔郎ですが、かの岩倉使節団の一等書記官田邊太一の甥っ子です。
 田邊太一については明治政府に出仕した幕臣であり、幕臣間の交流でいろいろな逸話があります。
 まぁ田邊太一は置いておいて、
 琵琶湖疏水の責任者である田邊朔郎ですが、工部大学校を卒業。京都府に出仕する際に推薦したのは大鳥圭介だったりします。
 田邊太一と大鳥圭介は仲が良かったこともあり、ついでに工部大学校の学長が鳥さんだったりしました。
 またついでですが、この琵琶湖疏水の水は京都景観に使われているとありましたが、
 かの山縣有朋。通称ガタさんは、無鄰菴にこの水を引いたりしています(笑)
 
 確か琵琶湖疏水の東口の石額は俊輔で、西口がガタさんのものがあったような気が。
 
 そして最後にこの朔朗くんの結婚の際の媒酌人は榎本武揚だったりします。
 お嫁さんは当時の府知事の娘さん。
 
 幕臣つながりどこまで~~一世代経とうとも繋がりは強。
 
 

17:25 | カテゴリー : 更新情報コメント(0)

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