宵ニ咲ク花の如シ

8章

 練兵館への剣術修行が許可されて一年ほどの月日が経った。
 寄宿生である小五郎は、一日のほとんどを練兵館で過ごす。剣術の修行はもちろん、師範斉藤弥九郎の教えが「文武両道」であり、学なくして剣なし、の思考から、練兵館では「学問」にも重点を置いていた。
 そのため「練兵館」の塾頭に立つものは、文武両道でありなおかつ人格をも重視しなければならない。
 長州藩士たる小五郎は、練兵館での修行を第一にしなければならないが、同時に藩士としてより多くのものを吸収するために、他の同士と共に「私塾」にも通いはじめた。
「それで? アンタはお江戸というものを隅々まで見たかい」
 俗に言う「迷い道」を抜け、千代田の城を遠くに見つめながら歩く。
 行商姿の土方は、知人が多いらしく、こうして歩いているだけでよく声をかけられた。中には薬を求める剣術道場の門下生もおり、彼が売る「石田散薬」は評判が良いことが知れる。
 小五郎はその問いに軽く首を振った。
「神田明神や浅草などには行きましたが」
「おい…アンタは田舎から出てきた堅物かよ。田舎から出てきたら最初に行く場所は決まっている。品川では遊ばなかったのか」
 そこで思わず顔が真赤になり、小五郎は下を見た。
「……西から江戸に入るときはたいていはあそこだ。アンタみたいな初な坊ちゃんは有無言わさずに大人にさせられるだろう?」
「私は……」
 長州から共に江戸に向かった仲間たちと確かに品川宿に泊まった。
 そこが岡場所として有名な場所であることは知っていたが、これより江戸で粉骨砕身、学問と武芸に勤しむという若者が、女を買おうと誘われるとは夢にも思わなかったのだ。
『行くぞ、桂』
 きょとんとしていた小五郎は仲間に引っ張られ、茫然としているうちに宿にあがり、隣には酌をする女がいた。
 おそらく自分と同様の年頃の娘は、襦袢の襟元をわずかに開き、そこから見える肌が男を誘っているとしか思えない。
 女という存在には、実家の今は亡き異母姉と実妹しか免疫がない小五郎は、遊女たちの白粉の匂いや、遊女宿特有のむせる香りにさらに頭が真っ白になっていった。
 そして気付いたら部屋に引っ張られ、そこには蒲団が敷かれていたのである。
「……女性を買うことなど……できない」
 土方は茫然とし、そして喉を鳴らして笑った。
「ここまで初な坊やは珍しいが、たまにいるらしいな。品川宿で遊女が横にいるというのに手を出さない。据え膳を喰わぬというやつだ」
「そう……そうですか」
 あからさまに小五郎はホッとしてしまった。
 品川宿で「大人」になることを設定されているというのに、傍らの遊女と一晩取りとめもない話をしてすごしてしまった。
 聞けば西国出身の女性で、小五郎はどうにか間を持たせるために故郷の話ばかりをした。
 話していると、故郷の椿やみかんの花が懐かしくなり、心がジーンとして、女性と「そういう」気分などおきるはずもなかった。その女性は、ただずっと微笑んで小五郎の話を聞いていたものだ。
「小五郎殿はまだ初なままかい。まぁそれはそれで良いんじゃないか」
 仲間たちは翌朝、真赤になって部屋から出てきた小五郎を見て、無事に「大人」になったと勘違いしたようだ。
 以来、江戸に入ってからは、稽古が休みの度に吉原や女郎屋に行こう、と誘われるが、小五郎はいつもどうにか言い訳を見つけて拒んでいる。
「この年で……おかしなことなのだろうか」
「そうでもないさ。女を神聖化するやつもいる。俺の知り合いにも……極度の女嫌いという人もいるんだ」
「……こんな話をしたのははじめてですよ」
「仲間に言えば笑われるかからかわれるか、その日のうちに吉原に放り投げられるってところだろう? 俺も今では行商をしているが、子どもの頃に奉公に出されていた時期があるんだ。 その際に、女は色々と知ったが、吉原や遊女屋にいるのが良い女というわけではないさ」
 真昼間から公衆の通路で語る話ではないと思うが、小五郎は土方の語らいに夢中になっていた。
 人には年より数年も若く見えるようだが、小五郎は二十歳である。この年で今だ女性を知らぬと言えば、道場の仲間には奇異か哀れみの目を向けられる。
 仲間ばかりではない。藩邸にいる同僚などにも同様の反応をされ、居たたまれなくなるのが見えている。
 だが知り合ってわずかなこの土方という男は、過剰な反応はしない。淡々と語らうばかりだ。そこに気軽な親しみが持て、小五郎は自然と和んだ風情で歩いている。
 風がわずかに冷たさを含み、周囲は薄紅色に染まりつつある。
 開けた往来を歩いていると、飲み屋や飯屋の提灯の明かりがともり始めた。
「良い酒を出す店が近くにあるんだ。アンタ……弱いみたいだから、まずは初歩的な酒の飲み方を知らないとな」
 あそこだ、と指を差す店はこじんまりとした小さな店だった。
「女将が良い人なんだ」
 入ろう、と暖簾を潜ると、そこはおよそ七、八人で満員といえる造りになっている。全てが小上がりとなっており、「こんばんは」といって土方は店に入る。
「まぁ歳ちゃん。久しぶりね」
 小上がりに登り、土方は寛いだ顔で答えた。
「女将さんよ。ちゃんはよしてくれ。俺は十八だぞ」
 子ども扱いにわずかに苦笑を浮かばす土方に、その四十代前半の女性はにこりと笑い、「歳ちゃん」と繰り返した。
「こんなに小さいころから知っているのに、今さら歳さんという柄ではないね。……勝ちゃんとは違う人を連れてくるのは……珍しい」
 小五郎はペコリと頭を下げると、その女将は満面の笑みを見せた。
「どこぞの道場の塾生さんかい。今が成長盛りなんだから、いっぱいお食べなさいな」
「いや、女将さん。俺たちは酒を……」
「まぁ歳ちゃん。入ってすぐに酒なんて……まずは食事をなさいよ。それからよ……お酒は」
 と、女将は厨房の方に入っていってしまったので、二人して微苦笑して顔を見合わせる。
 ここまで子ども扱いをされるといっそ清清しい。
 あの飲み屋であった勝や佐久間象山などと比較すると、女性の子ども扱いは「優しさ」が多分に含まれていて照れるのだ。
 女将の目線が、自分たちを「子ども」のように見る「母性」が見られたからかもしれない。
「昔からの知り合いだとこうだからいけないな。だけど、ここだとゆっくりしていられるし、飯も旨い」
 ニッと笑った土方に、小五郎もコクリと頷いておく。
「はい、歳ちゃんに……お客さん。まずはお茶でも飲んで、この団子でもお食べなさい」
 と、出されてきたお茶と団子に、またしても土方はため息を落とした。
「酒を飲みに来た客にこれはないと思うぞ」
「まだまだ歳ちゃんは酒を嗜む年ではないの。まだ修行中。そちらのお武家さまも……そういうお年でしょう」
「ぇっ……あの……」
「あらまぁ。歳ちゃんに引けを取らない美少年ですこと。桐蔭の坊ちゃんを思い出すわ。華奢で痩せていて……薬のにおいがほのかにかおる」
 ドキリとした小五郎だったが、この女将には好感をもてることもあり、
「実家が藩医なもので。私も薬のにおいがしみこんでいますか」
 と、微笑んで返した。
「そうだね。お武家さまには失礼なことを言ってしまいましたね。ついつい桐蔭の坊ちゃんがそうだから……」
 苦笑を浮かべて女将は席を外した。
「私は昔は本当に身体が弱くて。未だに心配した家のものが、こうして薬を必ず常備しておくように……というのですよ」
 おかげで懐には常備薬が眠っている。その匂いを勘付く人はよほどの鼻効きだろう。
「あの女将さんは、桐蔭の若様を見ているからな。だから薬のにおいには敏感なだけさ」
「桐蔭?」
「この近くに広い館がある。大身旗本九千七百石。桐蔭家当主慎一郎さま。俺より三歳ほど年上なんだけど、昔から身体が弱くて。このあたりで遊んでいてもよく倒れて、女将さんに介抱してもらったりしたんだ。随分昔のことさ」
 せっかくだから、とみたらし団子を土方は手に取った。
「小五郎殿は甘いものが苦手か」
「いいえ。好きですよ」
 あまり量は食べられないが、先ほどまでの猛稽古からか今は甘いものを欲している。
 蓬味の団子はあっという間に平らげてしまい、小五郎は自分でも驚いてしまった。いつもは食欲が全くわかず、塾生がそれでは倒れる、と叱られてばかりだというのに。
「女将さん。ついでだ。こうなったら甘いものを食べておく。汁粉ももってきてくれ」
 はいよ~という威勢の良い声が響いた。
「女将さん特性のお汁粉は旨い。それにしても……今年は気温がおかしいな。いつもならこの時期には汁粉なんて熱すぎるといって飲まないのにな。今年は……皐月半ばに入ってもまだ涼しい」
「えぇ。江戸は過ごしやすいと思っていました」
「小五郎殿は西国の出身だろう。お国言葉が全くないから、お江戸生まれかと思っていたが」
「そうです。歳殿は、このあたりですか」
「俺はもう少し西。奥多摩というところだ。そこは……昔から武芸が盛んなんだ。義兄が家に道場を建てるほどにな」
 わずかに目を輝かせて土方は語りだした。
「多摩といえば、八王子千人同心の流れから、武芸が盛んだと聞きました」
「よく知っているな」
「……耳にしただけですよ」
「そうだ。だからな。俺たちは昔から公方さまを守るために剣を学ぶ。いざという時に立ち上がれなければ男ではない」
「また歳ちゃんは剣の話ばっかりね」
 と、女将はお盆に汁粉を乗せてきた。
「いつか剣で身を立てるといって。実家の喜六さんを困らせてばかり」
「兄ぃは、俺を見れば説教が癖なだけだ」
 わずかにふて腐れた顔をしたが、すぐに汁粉に箸をつける。
 甘い香りに引かれ、小五郎も蓮華で汁をすくった。
「私は酒よりも汁粉の方が良いかもしれません」
 思わず本音が出てしまい、土方はまた喉を鳴らして快活に笑った。


「女将。当主殿はこられていないか」
 酒ではなく「甘酒」を女将に出され、土方ともに苦笑しながらも、小五郎はそれを飲んだ。
 さすがに酒かすほどでは酔いもしないが、飲み進めるとカッと身体が熱くなる。だが甘酒を出されるとは、自分は相当に幼く見えているのだろうか。
 クビッと一気に甘酒を飲み干し、物足りないという顔をあからさまに土方は面に出していた。
 そこへ一人の青年が暖簾を潜ってくる。
 小上がりの一番奥からでもその顔は見えた。
「おや、佐田さま。これはお久しぶりなことで。……坊ちゃんならこの頃まったくご無沙汰ですよ」
「………」
「この店にはいないぞ、補佐殿」
 土方は言葉を投げた。
「ついでに来たら、俺が背負ってでも館に連れて行く。貴方が一緒でなく出歩くなど……危ないだけだ」
 どうやら土方の知人のようだ。
 声に振り向き、その無機質な瞳が小五郎にも注がれる。
 年のころは二十代後半。おそらく武芸で鍛えたであろう体は、逞しいとはいえないが引き締まっている。端正な顔の良い男だ。だが、その目は一瞬にして人を見極める暗い眼光を灯す。
 ドキリと息を飲む緊迫感が視線とかみ合うだけで、伝わった。
「歳三か。……当主殿が来られたら、その通りにしてほしい」
「あぁ。また館を脱走したんですか」
「………いつものことだ」
 それだけを残し、佐田という男はすぐさま身を翻した。
「桐蔭の坊ちゃんに、あの佐田さまは先生をつけなさったようだ。それが坊ちゃんは気に入らなくてね。よく脱走しているようだよ」
 頼んでもいないのだが、甘酒のお代わりが出された。
「あの人は体が弱いことを全く分かっていないだろうが」
「それもあるけど。……きっと佐田さまに探しにきて欲しいんじゃないかい」
 思わず小五郎は微笑んでしまう。
 国許にある幼馴染も、身体が弱いというのにいつも館を抜け出して、家人たちを心配させていた。
 ひょんなことから、六歳年下の幼馴染の顔を思いだし、胸がギシリと痛む。
 あの少年も、いつも自分が迎えにくるのを、神社の境内で膝を抱えて待っていた。
「私たちも探しに参りましょうか」
「小五郎殿は桐蔭の若様の顔も知らないだろう。それに……すぐに見つかる。若様がいる場所はいつも決まって五箇所。補佐殿は必ず見つける」
 土方は仕方なく甘酒を飲み、さすがに甘さに舌が飽きてきたのか。
「女将さん。もう甘いものは懲り懲りだ」
 と、呟いた。
 いつしか時は、陽が沈みきり、周囲は薄闇に包まれている。これからは酒を飲みに来る客が増えるだろう。酉の刻を幾分かまわっていた。
「女将、熱燗を一つ」
 暖簾をくぐったその青年の声を耳にし、小五郎はハッとする。
「おや勝先生じゃないかい。今日は早いねぇ」
「教え子に逃げられた」
「またですか」
「いつものことだ。俺が気に入らないときた」
 クックッと笑い、小五郎の後ろの小上がりにあがろうとして、その青年と目があう。
「おや」
 口元に「楽しいこと発見」という……あからさまな笑みが刻まれた。

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