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― 目で追う ― (長州)

 気付けば目で追う男がいた。
 それが「なぜか」と問われても、答えなど永久に出ることがないと思う。
 いつもなぜ? と思い、その後にすぐにその疑問を打ち消すことにしていた。
「桂さん、俺とアンタはまるで火と油だ」
 廟堂に顔を出した前参与の木戸孝允は、廊下でばったりと会った前原一誠に袖を掴まれた。
 まわりに人が大勢いるというのに、こういう台詞をポンと投げてくるところは変わらない。
 前原は昔から小さなことを気にしない男だ。
「俺はたんに治水工事の許可をとりにきただけなのに、いつのまにか参議。勝手に好きでもない地位に置かれた」
 新潟県知事となった前原は、伝書では遅いと思い、直接中央に工事の許可をとりにきた。
 その途端に大久保利通により「参議」とされ、現在憤懣が蓄積している。
「そしてアンタは自由の身になった。自由といっても片足に鎖をつけられた自由を享受できるほど、アンタは神経が図太い男ではないがね」
「おまえは何を言いたいのだい、八十郎」
 つい旧名の佐世八十郎の名で呼んでしまった後に、前原はフッと優しく笑った。
「俺は新潟知事に戻りたい。こんなところであの大久保にいいように扱われるなどごめんだ。国政向きはアンタだろう」
「私とて……」
「両足を鎖に縛られ身動きとれなくなり、この廟堂という檻の中に置かれるといい」
「君は……昔から私が嫌いだね」
「……いや、嫌いな人間と口論したり、そして」
 木戸の僅かに乱れた髪をそっと手櫛で前原は直してやる。
「こんなことはしない。俺は昔からアンタが好きだよ」
 それはまるで「嫌い」というような口調で、前原は先ほどの優しさなど微塵も見せない冷たい顔でいう。
「どうしてか桂さんは昔から目で追ってしまう」
 ハッと木戸は思わず前原を見据えた。
 昔から気付いたら木戸も前原を自然と目で追っていた。
「参議になってくれ。アンタは何かに繋がれていた方が哀れで、醜く、何よりも無様だ」
 フッと笑って前原は手を挙げて、去っていった。
 その姿をやはり木戸は追ってしまう。背中を無意識に目で追い、追いかけ、消えたならばホッと息をつく。
「木戸さん、おいででしたか」
 背後より大久保の声がかかるまで、木戸はそのまま止まっていた。
「参議の件ですか」
「大久保さん、各省の人事も決まりましたし私は体の調子が宜しくないので箱根に療養をと思っています」
「……悠長なご身分ですね」
「私の役目は終わりましたから」
「作用ですか。ならば今のうちに箱根にご養生なさい。すぐに……そのような悠長な言葉は言えないお立場になりましょうから」
 どうぞコチラに、と背を捕らえられ、木戸は逃げられなくなりながら、
 心のどこかで前原という男を気にかけている。
 何故なのだろう。昔からその「なぜ?」の理由は知れない。


 箱根に療養中に、木戸のもとに飛び込んできた知らせが「大村益次郎暗殺」であった。
 病んでいた木戸は心配のあまり今すぐ京都に赴くと血相を変えたが、伊藤がすぐに知らせをおくってきた。
 大村は急死に一生を得て、今は安静にしているらしい。
 だが京都の王城の地に外国医師を入れることを思いはかった現地の人間は、大村の体調が快方に向かっている時期に大阪に移すことを考えているという。
 京都には木戸の側近の槙村正直がいる。それだけが頼みの綱ともいえた。
「兵学寮もでき、これから近代陸軍を蔵六さんの手で仕上げてもらわねばならない時期に」
 木戸は悲痛のあまり病状が悪化した。
 そして木戸の願い虚しく大村の状態が一変し、兵学寮入寮式その日に命を散らせた。
 木戸は病の身を押して廟堂に「大村暗殺者は薩摩の仕業」という噂を聞き、駆けつけたとき、
「桂」
 いつぞやと同じ光景だ。廊下でばったりと前原と会った。
「桂、おい桂。嫌だった参議から解放されたかと思えば、あの大村さんの後の兵部大輔だ。いい加減にしてくれ」
 前原は動揺すると木戸を「桂」と呼び捨てる。
 年も一歳前原が下なだけだ。
「八十郎、私に言われようとも困る。私は下野している」
「よくいう。長州の首魁。大村の後をついで陸軍の改革? この俺に。山県が視察から戻れば、あの男に放り投げてくれる」
「落ち着きなさい」
「一人箱根で悠長に構えていた桂に言われたくないことだ」
 木戸は吐息を漏らした。
 今まで木戸、大村路線で陸軍の近代化が図られていた。いっそ大村を長州の頂点に立て自らは身を引こうかと木戸は考えたこともある。
 だが大村の後を任されたのがこの前原で、しかも兵部省の人員も大村遭難の際に大久保により一新されている。
「桂、両足を鎖で繋がれにきたのか」
「………」
「大久保を責めようとなにも出ない。むしろ槙村に弾正台を攻撃させた方がましだろう。海江田という噂がある。関った首謀者たちからいくと大楽だろうが」
「君はよくそう平然といえる」
「他人事だからだよ」
 前原は内ポケットから煙草を取り出し口にくわえる。
「繋がれる覚悟がなければこんなところにくるな。藩公上京の手続きをさっさと萩に戻ってするといい。 ……奇兵隊などの正規兵からもれた人間たちが騒いでいるらしいからな。いっそ俺が征伐にいきたいくらいだ」
 前原が行けば、むしろ脱退兵たちの反乱の巻き添えにされそうだ。
「それとも桂、繋がれることを厭い、まことの自由を得たいなら」
 前原はスッと手を伸ばした。
「一緒にこい、俺と」
 その手に木戸は釘付けとなった。
「俺がアンタを自由にしてやる」
 前原の目は一途に木戸を見る。いつものように「無感情」でも「何かに飢えている」目でもない。
 静かに透き通ったその目に、いっそ付いていっても構わないと思ってしまった。
「今は時期じゃないか。いつかもう一度聞く。それまで片足を縛られているといい」
 加えていた煙草を木戸の口に押し込み、前原は背を向けた。
「知っているか、桂さん」
 後ろ向きのまま、前原は声を投げてくる。
「アンタがいちばん鋭い時はどんなときか分かるか。しらんだろうな。ぞっとするほどに美しく、残酷で、そして信じられないくらい切れるのは……」
 誰かが死んだときだ。
 その時のアンタは一番に強く、一番に美しく、最たるこの国の政治家として相応しい姿に転換される。
「俺がもしアンタより先に死んだら、美しく、残酷な政治家になってくれよ」
 前原に加えさせられた煙草は妙に苦い。


 萩に戻り脱退兵騒動の処置に当たった木戸は、脱退兵の一部に見せしめという残虐の処置を取らざるを得なかった。
 その後上京後、長州閥の懇願により「参議」にたった木戸に、
 前原は「これで両足だ」とだけいった。
 参議としての木戸と、兵部大輔の前原はそりが合わないだけではすまない。意見も思考も違いすぎる。
 性急過ぎる木戸の改革に異を唱える前原を、黙らせねばならない立場にたった木戸。二人ともこの関係に疲れ、最初に折れたのは前原だ。 
「兵部大輔は、小輔の山県に渡してやる。アンタも俺よりずっと山県の方が扱いやすいだろう」
「そういう問題ではない」
「山県ならちゃんとアンタと大村さんの改革案を実行する。アレはこういう雑務にかけては奇兵隊の昔から有能だった。 それから……アレはアンタを敬い、守ることができる。俺のようにどこまでも対等であろうとするのとは違う」
「八十郎」
「俺たちの道はどこで違ったか、桂。来原さんの壮絶な死を二人して見送ったあの時に、どうやったら戻れるのだろうな」
 対等という言葉に、木戸の心は跳ねる。
 そうだ、昔からこの男は木戸にとっては対等な人間だった。後輩ともいえず、部下でもない。「対等者」という言葉が正確だ。
「アンタを困らせるのはとりあえずはこれで終わりだ。桂、鎖を解いたら萩に戻ってこい。その時に、答えを聞く」
「……まだ待っていてくれるのかい」
「俺は諦めが悪い。ついでに……こんなに相性は最悪なのに目で追ってしまう理由が知れない」
「八十郎」
「分かっている。それでも俺は……アンタの答えを待つ」
 じゃあな、と兵部大輔を辞任した前原は萩に帰っていった。
 互いに互いの姿が目に止まる。目に姿が入ったら追わずに入られない。その理由は……木戸も前原も知れずに別れた。
 兵部省は小輔の山県有朋が大輔となり、大村益次郎の改革を引き継いだ。
 木戸は明治四年十月より洋行に出、その間に兵部省は陸軍省となっている。
 洋行より戻った木戸は征韓論問題に直面。大久保とともに征韓論反対の立場をとり、
 征韓論賛成派の西郷、江藤らを下野させ、明治六年の政変が終わった。
 その後佐賀の乱、征台問題などもあり木戸は自ら参議の辞表を出し、萩に戻ると、
「鎖を解き放ったわりには、暗い顔だ」
 萩の自宅に戻った木戸を向かえたのは、前原の疲れきった顔だった。
「生憎だ。ここにあろうと自由などないぞ、桂さん。内務省の密偵に見張られるだけだ」
「それでも行き詰る廟堂にあるよりはましだね」
「今の政府になぁんも気兼ねはいらないしな」
「八十郎。私になにをいっても無駄だよ。私は萩で私塾でも開いて隠遁するのだから」
「無理だな」
 前原は毎日のように木戸と将棋や囲碁をしにくる。
 政府にあれば対立したが、こうして向き合えば昔の友人に戻る。
 木戸は今の距離が好きだ。前原の姿を面と向かって見ていられる。昔のように、ありし時のように。
 だがそんな時間も長くは続かない。伊藤が顔を出し、誰が見ても木戸を引き戻しにきた状態となった。
 木戸は半年に一度大阪の行き着けの病院で検査を受けることになっている。
 今回も大阪に出向くことになり、ならばそこで大久保や伊藤らは木戸を待つといってきた。
「……大阪などに行けば大久保に捕まり終わりだ。桂さん、今の政府に未だに希望でも見ているのか」
「おまえが何をいいたいか分かるけど、私はなにも聞かない。聞いても流す」
「桂さん」
「私はこの手で築いた政府を見限ることだけはしない」
「アンタ、苦しそうだ」
「苦しいよ。苦しい。……分かるなら、この私を助けてくれるかい」
「冗談ではない」
 前原はフッと笑い、スッと手を差し出してきた。
「一緒にこい。どう転ぼうとも、アンタの脚を鎖でつないだりしない。桂」
 その手を取れたら、楽になろうか。
 その手をつかめたら、この心の中の虚しさは救われるだろうか。
 木戸は手を見ながら、深呼吸をする。
「……やはり、アンタは鎖に縛られるのがお似合いだ。桂、俺はそんなアンタが好きなのかもしれないな」
 いきな、といったこの男とは、二度と会うことはないと思う。
 そして今、木戸は自らこの前原一誠という男を追うのをとどめた。


 後に萩の乱の首謀者となった前原一誠だが、奇兵隊出身の三浦梧楼らにより反乱は鎮圧される。
 前原は東京に向かおうとした舟が遭難。島根県に漂流し留まっていた前原を逮捕することになった島根県令は因果なことに元長州藩士だった。
「おかしなものだ。島根の県令に任命され、中央とも長州とも離れたところにいたというに」
 なぜか……こんなことで長州藩のものと関ることになった。
 その男の名は佐藤信寛。
 後の話になるが、昭和期の二人の長州出身の首相は曾孫にあたる。
 前原捕縛の知らせはすぐに中央に出され、届いた電文は木戸孝允からで「せめて長州に戻してやって欲しい」ということだった。
 前原は即日処刑となり、佐賀の乱、萩の乱とともにもと政府の大物が斬首という見せしめの刑になる。
 前原処刑の話が伝わると、
 木戸は涙など見せず、美しく笑って、仕事にかかる。
「私もおまえが好きだったよ、八十郎」
 一言、呟いた。



― 旅の計画 ― (長州)

 着の身着のまま旅に出ようかと思った。
 遠い遠いところへ。この自分を知る人がいないところへ。
 そうだ、この身を覆う全てを捨てて旅にいこう。
 まだ知らぬ地を見に、この足で時を歩きながら、旅にいこう。
 考えると楽しくなってきた。
 白河の関を超え、あの松島の絶景や藤原三代の栄華の象徴の中尊寺を見にいくのもいい。
 木戸の心は徐々に明るくなり、自らの空想を楽しみだす。
 いまだ未開の地の北海道に渡ろうか。
 自然豊かな広大な地で、この手足を伸ばして寝そべるのは楽しくないか。
 いつしか木戸は机に頬杖をつき、その顔には笑みすら浮かべ始めた。
 そこにトントントンと扉が叩かれ、顔を出したのは伊藤博文だ。
「木戸さん、なんだか楽しそうですね」
 目敏く今の気分に気付く伊藤に、悟られてはいけない、と思い木戸はすぐに書類に目を戻す。
 これは秘密だ。
 仕事が全て片付き、役割がなくなったら、自分は消える。
 きっと伊藤は止めるだろうから、自分は誰にも悟られずにひっそりと消えねばならない。
「どうしましたか?」
「なんでもないよ」
 わずかに顔をあげ、その口元に微笑を刻んだ木戸に、
「なんだか嫌な予感がするな」
 聡い伊藤はジーッと見つめてきた。
「木戸さんがそんな顔をする時は、僕にとってはろくでもないことだときまっていますから」
「俊輔は疑い深いよ」
「木戸さんだからですよ」
 伊藤はそのまま手に持っていた書類を置き、紅茶を入れ始める。
 手馴れたものだ。密かに伊藤は自分の紅茶を入れる腕は、英国の給仕以上だと自負している。
 どうぞ、と差し出された紅茶を飲みながら、
 異国にもう一度渡るのも悪くない、と思うとまたにこにこと笑ってしまった。
「ダメですよ」
 伊藤がぼそりと言う。
「なにが」
「今、英国にでも渡りたいと思われたと思いますけど。ダメです。木戸さんには此処でやらねばならないことがいっぱいあるのですから」
 さすがは付き合いが長い伊藤だ。
 わずかな気の緩みもみとられそうである。
 紅茶を飲みながら、なにか別のことを考えようと視線を外に移すと、
 新緑の若葉が美しく目に映える。
 今ごろ、萩では道端に群生の白椿が咲き始めているだろう。
「萩に戻るのもダメです」
 どうして分かるのだろう。
 疑問の眼差しを送れば、伊藤は紅茶を飲みながらにこりと笑う。
「長い付き合いですよ、木戸さん」
 あなどれない、と木戸は思った。
 長い付き合いはそれだけで趣向や性格をよく把握しているということでもあるのだ。
「……私も今、俊輔が何を考えているかわかるよ」
 木戸は少しばかり牽制の意味で一言口にする。
「なにを考えていると思いますか」
「とりあえずは今日この書類全てをどうやって私に目を通らせるか」
「さすがは木戸さんです」
 伊藤はにこりと笑い頭を下げ、顔をあげるとその瞳に隙のない色合いを見せた。
 そうだ……私もこの伊藤のことはそれなりに分かる。
 長い付き合いとは……怖いものだ。
 旅の計画は「長州閥」がいないところで考えることにしよう。



― 木戸さんの恐ろしき計画 ― (長州)

 戊辰の戦もほぼ片がついた時、山県は木戸たちに頼み込み、軍事視察を目的にした洋行に出ることが決まった。
 藩侯よりの正式な洋行許可であり、また先の戦の報奨金もあるので、有意義に軍事視察の旅にいける。
 されど山県、少しばかり心配なことがあった。
 それは奇兵隊などの長州藩の兵士内の「不平不満」が暴動になりそうな事態などではない。
 山県はこの問題が反乱になろうとも、兵部大丞の山田あたりが鎮圧するだろうと全く心配もしていないのだ。自らが奇兵隊を預かっていた立場など、すでにこの男の頭からきれいに消えている。山県はすでに「長州」に頭を置いておらず、この男の中心は「国家」となっていた。
 そう心配というのは他ではない、
「なんじゃ、なんじゃ。この長々しい書状は」
「貴殿に対する依頼状だ」
 山県は徹夜で書き続けた長さ一メートルはあろう書状を井上馨に差し出した。
「一つ……木戸公の食事につき……なんじゃ。この扱い方や好きなもの嫌いなもの。ついで……読むだけで頭が痛いほど細かい」
 井上は今にも書状を切り刻みたい衝動にかられている。
「私がいない間、あの人がまともに食事をなすか心配でならない。そこで貴殿に頼みたいのだ」
「そんなの俊輔に頼んでいけ。桂さんの世話はアイツの十八番だ」
「伊藤ならば、木戸さんにかわされよう」
「なんだと」
「言い方を変えれば手玉に取られる。伊藤が、木戸さんにこの手のことで宥めすかして言うことを聞かせたことはあったか」
 井上、しばしの熟考の後、
 両手の内を上にあげ「ないな」と苦く笑った。
「それゆえに貴殿に頼むことにした。貴殿はさしてこの手のことは口を挟まぬゆえ、効果はある」
「おまえさんの脅し方法に比較すれば数段と効果は弱いぞ」
「いざとなれば貴殿の言うことくらいは木戸さんも耳を貸そう」
「さぁな」
 とても読めん、と端折って部分部分を読んでいく井上は、
「おまえさんも相変わらず桂さんには過保護だな」
 変わらん、と一言呟きながら「了解」と敬礼をして答えた。


「なにこの長ったらしい書状」
 築地梁山泊こと大隈重信邸に居候として転がり込んでいる伊藤は、同じく居候の井上の部屋にひょいと顔を出した。
 別段だが伊藤は大隈邸の敷地内に小さな家を構え、妻の梅子と住んでいる。
「山県が置いていった桂さんに対する依頼状さ」
 とてもとても長くて全部は読んでいないぞ、と井上は苦笑する。
 その書状を手にした伊藤は内容を追い、次いでキッと井上を睨み据えた。
「なんで聞多なの」
「おまえだと桂さんに言うことを聞かせられないからだろうさ」
「でもこういうことは、木戸さんの補佐たる僕に言うことであって、一歩も二歩も引いている聞多にどうして言うのさ」
「おいおい、俊輔」
「僕には何も言っていかなかった。聞多……前から気になっていたんだけど、山県はことあるごとに聞多を頼みにしているように見えなくもない」
「それはおまえの目が腐っているぞ」
「僕の目は確かだ。今だってこんな長い書状を聞多に!」
「話がなんかおかしな方向いっているけどよ。たんに俺様が桂さんと年はそんなに離れていんし……」
「そんなのおかしい」
 伊藤は叫びながらも井上が放棄した書状を隅々まで読んでいっている。
「……アイツは僕よりも聞多をかっているということか」
「おいおい」
「長州閥の木戸さんの補佐たる僕よりも……」
「なにか間違っているぞ。いいか俊輔。山県は大切な桂さんのことを犬猿の仲のおまえに頼んでいくと思うか」
「頼んでいくさ」
 伊藤は普段のにこにこ柔和さが消え失せた鋭い顔をして井上を睨んだ。
「どんなに腹立たしくても、アイツが心から木戸さんを心配し気遣っていることが分かるから僕は山県に頼んでいく。アイツも一緒だと思っていたのに」
 おかしな信頼関係だ、と井上は頭を抱え始めた。
「なのに僕でなくて聞多にこの長々しい……絶対に一日徹夜で書いただろう書状」
「頼むから俊輔」
 俺に妬かないでくれ。
 思わず井上が口走った一言は、伊藤のついに逆鱗に触れた。
「聞多!」
 伊藤必殺の引っ掻きにより、いまだに生々しく顔面にかつての闇討ちの際に残る疵に新たな引っ掻き傷が生まれてしまった。
「なにしやがる俊輔。どう見ても俺様に山県が木戸さんを頼んでいったことに、おまえは妬いているとしか思えないじゃないか」
「いうにことかいて、妬いている? 冗談じゃない。僕はこの世で一番に二番か三番か四番なほど山県が大嫌いだ」
「知っているさ。いわゆる天敵だろう。天敵はな。天敵と宣言したときから相手のことを嫌いながらも惹かれてやまん星にあるということを知っているか」
「なに、その無茶な理論」
「無視できる相手を天敵になどするか。気になってならず苛立ちそれでも放っておけないから天敵なんじゃ」
「聞多」
 にっこりと伊藤は笑った。思わず井上は「しまった」と思ったがすでに遅い。
「じゃあ親友の聞多。協力者の聞多。君を天敵にしてあげるよ、これから」
 おもわずポカーンとなった井上の頬をさらに爪で引っ掻き、
「じゃあね、天敵さん」
 と、半ば怒りながらも笑って出て行った伊藤を茫然と見つめるしかない。
「……天敵ね」
 俺様は別にそれで構わんといえば、
 おまえはまた俺のこの体を引っ掻くのだろうな、俊輔。
 俺達はどう足掻こうと「親友」以外の枠にはめることなどできんだろうに。
 伊藤が放り投げていった書状を手元に引き取りながら、
「さては山県。俺達を喧嘩させるためにこんな書状を書いていったか」
 などと思わずにはいられず、さても頬の傷がヒリヒリして痛い井上馨である。


 舟の上の山県は書状をそれこそ長々と「伊藤博文」宛てで書いている。
 井上には顔を合わせる機会があったため長々とした依頼状を置いてきたが、もう一方の伊藤にも依頼することは山ほどあった。
 そのため舟の上からの書状となり、それこそ何回も分け送ることになるのだが。
「木戸さんのあのおかしな考えについて忠告しておかねばなるまい」
 洋行に旅立つ前、木戸にあったおり、山県はおかしな計画を木戸から聞かされた。
『狂介、私はね。いつかこの国すべての場所をまわって、地方の情勢とはいかになっているか調べたいと思っているのだよ』
 などとニコニコと笑いながら言っていた。どうやら本気らしい。
 俗に言うあの大日本史編集者の徳川光圀方式の「水戸黄門諸国漫遊」に近い方式を木戸は頭で組み立てていっているようだ。
 山県は吐息をつきながら、
『私が戻るまでその計画の実施はおやめいただきたい』
『……どうしてだい』
『その計画には必ずお供が必要だ。致し方ない。私も軍事についての計画を練るのに鎮台などの組み方から地方をめぐることは必要だと考えていた』
『狂介』
『ゆえに……私が戻るまで計画は実施されぬように。貴兄の望みを実現する方式を洋行で見つけてくる』
 と、山県は請け負った。
 この頃は鬱著しい木戸がにこにこと笑って楽しげに計画を話してくれたのだ。
 己が随行するという条件付ならば、山県はその願いを適えてやりたいと少しは思うが、国家の参議のお忍びの旅に対する賛同は得られるはずもない。
 ……木戸公、諸国漫遊を考えている由。小生戻るまで、監視を怠らぬよう。
 こういう役目は伊藤と山県は決めていた。


「山県から手紙が来た」
 ここ数日、視線も合わせなければ口も開こうとしない伊藤がニコニコと笑って井上を訪ねてきた。
「へぇ」
 井上は心の中でぶつぶつと文句を言い始めている。
「それでね、聞多。木戸さんが諸国漫遊など考えているなんて山県言っているんだけどさ」
「俊輔」
「なに」
「おまえ、やっぱり俺様に依頼状を置いていったこと根に持つばかりでなく妬いていたんだな」
 上機嫌だった伊藤の笑みにピシッと皹が入った。
「山県の書状に嬉しそうによ。本当におまえって口とは正反対で山県好きだよな」
「聞多」
 パシッと今度は容赦なく頬を殴られグえっと井上はその場に倒れた。
「いっていいことと悪いことがある。僕が山県がすきだって。そうだね悪寒を感じるほどに大好きだよ」
 にこにこと笑いながら大好きという伊藤が「怖い」と井上は思う。
「そして……僕を無下にすることは絶対に許さない。アイツと僕は批判者同士なんだからね」
 それは言葉を変えれば絶大な信頼を無意識に持っているということか。
 恐ろしいな、と頬を抑えながら井上は思った。
「諸国漫遊に山県はお供でもする気か。ならおまえはどうするんだ、俊輔」
「馬鹿。山県がお供などするはずないじゃないか。あの国家権力を愛し、陸軍の近代化をはかるためならば何でもしようとする山県が」
「桂さん相手なら……一概には肯定できんな」
「僕は山県を少なからず知っている。アイツは……そんなことしないさ」
 ほらやっぱり信頼している。
 嫌いあい、苛立ちあい、ついでに惹かれあい、憎みあい、妥協しあい、協力しあい、決裂して、
 そんな山県と伊藤はやはり「天敵」が相応しい。
「ところで俊輔、俺様はおまえの何だ」
 伊藤はにこりと笑い、
「そんなの決まっているよ。親友」
「大変けっこうな答えだ」
 にこにこと笑いあい、伊藤は井上に熱くない珈琲を入れ、自分は茶を飲みながら、
 数日前の喧騒など幻だったように、仲良く雑談を始める。

 洋行より戻った山県に、木戸はにこにこと笑い「計画」を諦めていないことを告げ、
 やはり諦めていなかったか、とため息をついた山県は、木戸の頗る本気と機嫌の良さを見、
「貴兄はこれより洋行だ。洋行より戻りし後、その計画を実施されるつもりがまだあるならばお供しよう」
 私は軍事の視察で地方をめぐるという条件付だが、
 木戸はにっこりと笑い、此処に諸国漫遊計画のお供が一人正式に決まった。
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  • 【まとめ】 2013年1月16日
  • 【備考】 3話収録