馨さんと幸七



「本多。俺はおまえさんを家族の一員だと思っているんだ」
 ある日、長州閥の重鎮井上馨がそう切り出した。
「ありがたく存じます」
 秘書としてここ数年、公使ともに渡って井上に仕える本多幸七郎は恐縮して頭を下げる。
「そういうところが律義っていうかな。おまえさんもこんな俺の秘書なんかしているんだ。そろそろ慣れてもいい思う」
「……何がですか」
「……昔、大鳥さんの副官をしていた時も、そんな感じだったのか」
 もう十数年も昔のことを持ち出され、本多の鼓動は一瞬だが大きく跳ねた。
 現在学習院院長の立場にある大鳥圭介の、副官の如し立場にあったのは慶応三年から明治二年にかけてのことだ。
 わずか三年弱。
 だがその期間は、本多にとっては青春のすべてを捧げつくした日々といっても過言ではなかった。
 かの箱館の地に共に渡った。
 地獄と称された討征軍との木古内での戦いを、共に差配し、泥にまみれ、銃弾にまみれ……その中でもがいて生きた。
 あの人の傍らは妙に居心地がよく、今、思い返すと大鳥にだけは遠慮などほとんどなく、よく首根っこを掴んで仕事をさせたものだ。
「それでだ。おまえさんを身内と思ってな。他人行儀はよそうと思う。律義で実直でまじめは良いが、おまえさんの場合はどうも過ぎるんだ」
「………申し訳ありません」
「その自分に非がないというのに謝るところとかな。まぁいい。俺はこれからよほどの公的行事でない限りは、おまえさんを幸七と呼ぶことにする」
「はぁぁぁ?」
「我が長州は親しきものについては、気軽に呼ぶのが習わしだ。まぁ若干、あえてそうできんものもいるが、おまえさんに関しては気軽さを込めてそう呼ぶ」
「……はぁ……」
 一瞬、本多の頭によぎったのは、きっと大鳥が黙ってはいないな、ということだった。
 もとより幕府の封建体制のもと、旗本四百石を継ぐものとして厳しく育てられてきた本多は、他の人を呼ぶに「名前」で呼ぶということはめったになかった。
 人の真名には魂が込められ、その真名を呼ぶということは、人を操ることでもある、という意識もある。
 ましてや封建制のもとでは、その枠組みで生きる幕閣の人間は、必ずといって官位で互いを呼び合うのが暗黙の了解であった。
 ゆえに本多もその枠組みのもと、どっぷりと浸っていたのだが、
 伝習隊の小川町部隊に配属された時に、上官たる当時は歩兵頭だった大鳥圭介は、その官職呼びを一切せず、人を名字で気軽く呼ぶ。
 あれには驚いたが、それ以上に驚かされることが多々あったため、今の今まで本多は思い返しもしなかった。
「ついでにな。俺さまのことも名前で呼んでくれや」
「はあぁぁぁぁぁ?」
 間延びする疑問形の言葉に、井上は二ヤッとする。
「馨さんというのはどうだ?」
「一介の秘書が政府の重鎮たる貴方さまに使う呼び名とは思えないのですが」
「おまえさんは身内同然と言ったじゃないか。これからも、ずっとな。傍で秘書をしていて欲しいと本当に思っているんだ」
「……恐縮です」
「だからな。さらに互いに絆を深めるためにも名前だ。聞多と旧名で呼ぶ奴はけっこういるが、馨さん呼びは現在いねぇ。馨くんと嫌みたっぷりに呼ぶ奴もいるがよ」
「………」
「おまえにはそう呼んでほしいんだ。ついでにこれからは、俺様はよほどの公式の場以外では、幸七と呼ぶからな」
「……はい。井上さん」
「違う。ちゃあんと馨さんと呼ばんか」
「はぁ」
 思わず重い吐息がこぼれてしまうほどに前途は多難のように思える。
 「幸七」という呼び名は、大鳥が時折使っていた。
 心が切羽詰まって苦しくなった時に、「幸七」と助けを求めてくる。
 かの宇都宮で柿沢が亡くなった時も……何度も「幸七は死ぬな」と叫び、抱きしめられた。
 それか、私的によほどうれしいことがあった時、本多の手を取って、大鳥は「幸七」と満面の笑顔で呼ぶのだ。
 幼友達などは「幸七郎」 かつての同僚は「本多」と呼び、部下は「本多さん」で統一されてきたのだが……。
(大鳥さんには……言えないな)
 地位も立場もある大鳥だが、いざ本多のことになるとはっきりと言って損得関係のない大人げのない人間となる。
 呼び名一つでもめることなど、簡単にやってのけるだろう。
 これは機密だ。
 大鳥の前では決して井上を「馨さん」などと呼んではならない。ましてや井上が「幸七」呼びの時に、大鳥が居てはならない。
 本多の気苦労はいつまでたっても尽きることはない……ようだ。


 半月後、
 井上馨の晩餐会に招待された大鳥は、主催者をそっちのけで、すぐさまに広間の端で差配を取る元副官の傍による。
「本多」
 にっこりと笑って傍らに立つその人。
 並ぶと、身の丈のある本多の肩もとに頭がようやく届くくらいの背の低さ。
 本多は屈むことが癖になっているが、本日は大鳥に構う暇はほとんどないだろう。
「お招きありがとう」
「それは……私に言う言葉ではないですよ」
「おまえがいなかったら、井上さんが俺を呼ぶはずないだろう」
「……大鳥さん」
 にこにこと大鳥は笑っている。本日はなかなかに上機嫌だ。
「おまえに会えるなら、俺はどこでも行くがね」
「昨日、お会いしたと思うのですが」
「昔と違って昼夜問わず傍に居られなくなって実に寂しい思いをしている。今からでも遅くない、本多。俺のところに来ないか」
「その言葉も昨日、聞きました」
 お互い多忙の身でありながらも、三日とあけず顔を合わせている二人である。
 本多が井上の秘書を受ける際に、大鳥が出した譲れぬ条件が、必ず時間をつくって自分と顔を合わせること、というものだった。
「大鳥さん」
 苦笑を浮かばすが、本多はわずかに屈んで、大鳥の頬にそっと自らの手をあてる。
 わずかにヒヤリとするこの手に触れられるのを、大鳥はとても喜ぶ。
 今日もにこりと笑ってくれた。それだけで本多はとても穏やかな気持ちになれる。
「昔のように傍にはおられませんが、いつまでも心は貴方の傍に」
「……新手の断り文句を持ってきたな。しかも妙に本多らしくない。けど……なんだかこそばゆくて、嬉しい」
 大鳥が笑ってくれるならば、本多とて……嬉しい。
「好きだな、本多」
「知っていますよ」
「昔はそこで詰まって赤くなったりいろいろな表情が見れたんだが」
「もう十数年、聞いていますから」
「……好きだよ」
「はい、大鳥さん」
 その言葉に慣れて、その言葉に染まって、その言葉をいつしか当然と思って。
 だけど、好きという思いは変動的で、いつまでも永遠に続く感情ではない。
 ゆえに今の「好き」を受け止めねばならない、という境地に本多は至った。
「私も大鳥さんが好きです」
 きちんと「好き」という言葉に、「好き」と返し始めたのは、いつからだったか。
 大鳥は本多の言う「好き」がことのほか嬉しいらしく、顔を赤く染めて、ジーっと顔を見つめてくる。
 ここが公共の場でなかったならば、抱きついてきたかもしれない。
 緊張感が満ち溢れた晩餐会で、その場だけは妙な甘さをにおわせ始めたころ、
 井上馨ご自慢の料理が運ばれてきた。
 当然のごとく、本日の主催たる井上の手作りである。
「本多くん。中和剤は今日は作ってくれないの」
 長州閥の重鎮にして首相伊藤博文が、顔を真っ青にして飛び込んできた。
「いえ、本日は大丈夫です。中井さんがおりますので……」
「中井が来ているんだ。でも……さ」
「いえ、悶々としておりましたよ。中井さん用に究極の不味い料理を作るか、いつも通りに美味しいものを作るのか」
「……そ、それで」
「本日は仲のよろしいお方をお呼びした内輪の晩餐会。いかに不味い料理でも、おそらく外国や各界に飛び火は致しませんよ、と。それに貴方の料理はいかに不味く作ろうとも美味しいのですから、と」
 伊藤の目はそこでキラッと輝いた。
「ということは中井用に不味い料理を作ったんだ」
「……はい」
「よし。今日は生きて帰れる」
 ふふん、と鼻歌混じりで伊藤は井上の方に向かっていった。
 世に言う「井上料理」という究極のゲテモノ料理は、世間一般的な舌では、とても味わうことができない料理と言える。
 味の均衡が滅茶苦茶。しかも最初に強烈な味わいが襲い、たいていの人間はその味で意識が遠のいていく。
 だが、だ。百万人に一人、この井上と同じ舌を持つ人間も存在する。
 その一人、中井弘。
 井上自身が認める天敵で、井上夫人武子の元夫という間柄と言える。
 しかも憎んで別れあった夫婦ではない。中井の留守中に井上が武子にほれ込んで、奪い取ったというのが正確なところだ。
 ゆえに未だに中井は井上邸に顔を出し、事あるごとに武子に求愛しているというありがたくもないいきさつがある。
 その中井ゆえに……いつもは善意の塊で人に「美味しい」と思ってもらうために料理をつくる井上が、
 この中井だけには、不味い料理を食べて気絶しろ、と本気で思っているらしい。
 されど中井、幸か不幸か井上の舌の味覚を理解する星のもとに生まれてきた男だった。
 なにを食しても美味しいと大絶賛。
 こうなれば井上は不味い料理を出して追い出そうとしたのだが、その料理が究極に美味い味わいに仕上がるという「いわく」が生まれた。
「究極に不味く作れば、本当においしいものができあがる。実に面白いことだよ」
 大鳥も、いわくありの井上の「不味い料理」に舌鼓を打つ。大鳥は食通で知られ、その舌の確かさには定評があるのだ。
「今日は美味しいものを食していただけそうですよ」
 中井のために作る、と宣言したため、あえて本多は今回は手を出さなかった。
 いつもならば井上料理の最初の強烈さを緩和し、続いて中和する料理を作りだすという役目が本多にはあるのだが、本日は静観と決めている。
 だが秘書は秘書だ。いつまでも大鳥とのほほんと立ち話という訳にはいかない。
「おい、幸七」
 井上に呼ばれ、それでは、と本多は大鳥に会釈をし、すぐに身をひるがえした。
 ゆえに気づきはしなかった。
 一瞬にして、大鳥の顔から和やかさが消え去ったことを。
「中井に今から食べさせるんだ。いざという場合は処置してくれ」
「……大丈夫ですよ、馨さん。……どのような料理でも、馨さんの料理はとてもおいしいですから」
「だけどな……今日はちょいとやりすぎたというか。さすがに気絶されたら困るっていうか」
「味見をしましたか」
「する訳ないだろうが」
 不味いと決め込むと、一滴たりとも味見をしないのが井上だ。
「仕方ありませんね」
 と、本多が苦笑したところで、
「井上さん」
 背後より大鳥が、一切の表情を消して近づいてくる。
 本多は思わず身を引いてしまった。
 滅多に見ることがないゆえに、恐怖が先に立つ。
 今の大鳥は本気で怒っている。
「これは大鳥さんよ。アンタ、忙しい身の上なのにな。いつもまめだな」
「井上さん。今、本多のことをなんと呼んだ?」
「えっ? な、なんじゃ」
 しまった、と本多は自らの失態に気付いた。
 不意に忙しさで頭から見事に抜けてしまっていた。
 大鳥の前で「馨さん」と呼んではならない。井上に「幸七」と呼ばせてはならない。
 この自分に対しては「大人気ない」大人に平然となる大鳥は、呼び名一つでこの世を壊してもいいと思うほどの嫉妬を抱く男だ。
「本多、なんで井上さんを名前呼びになった?」
「それは……」
「俺様が言ったのさ。身内のようなものなんだから、いつまでも他人行儀ではいたくないってな」
「………!」
「お……大鳥さんよ。いつものにこにこはどうしたんだ。滅茶苦茶怖いぞ」
「えぇ。ここに大砲がなくて残念です。この鳥居坂の館ごとあなたをぶっ放したい」
「……おいおい」
「大鳥さん、そのような物騒な言葉はいけません」
「俺は本気だ」
 見るからに大人気なく、見るからに怒気を現して大鳥は必殺の蹴りをどうにかこらえている。
「なんだなんだ? 俺が幸七と呼ぶのがそんなにいけんのか」
「当たり前だ。俺も……そうたやすく呼べん名を」
「……えっ」
 井上はポカーンとなったが、見るからにあがる大鳥の怒気にぴくりとなり、
「んじゃあ。俺様……は挨拶まわりにいってくるぞ」
 そそくさ逃げるように井上はサッと駆けていった。
 この大鳥の傍に一人残されて本多は思いっきり青ざめるが、
「井上さんは……善意から言っています」
「……馨さん呼びは俺の前ではしないんだな」
「……大鳥さん。昔昔から、細かいことを気にしすぎですよ」
「おまえ限定でな」
「砲弾が飛び交う中でも、そんな顔はしなかったでしょう」
「……幸七」
「はい」
「俺がたまに呼ぶくらいだったのにな」
「……なぜたまにだったのですか?」
「特別だったから」
「……大鳥さん」
「悔しくて、悔しくて。なんでここにないんだ。大砲が」
「無茶を言わないでください」
「幸七郎……幸七」
 怒ったかと思うと、そんな泣きそうな顔をしてうつむくこの人が、たまらないほどに好きで……。
「では大鳥さん。そうですね……私も特別な日だけ……圭介さんと呼びます」
「………」
「特別な日だけです。お互いに特別な時だけ」
「……なぜだ」
「その方が私たちらしいですよ。……大鳥さんが特別な時だけ私の名を呼ぶ。私もそうします」
「………」
「大好きですよ、圭介さん」
 すると、大鳥は見るからに顔を赤く染め、たまりかねたかのように本多を抱きしめる。
「……幸七」
「私たちらしくていいですよ、この方が。なので怒らないでください」
「怒っている」
「機嫌を直してください」
「……嫌だ」
「そんな真っ赤な顔をして、大鳥さん」
「おまえが悪い。おまえが……」
 そのまま抱きついたまま大鳥は本多の胸元で甘えていたが、
「ひぃやあぁぁぁぁぁぁ」
 包み込んだ絶叫に二人ともパッと離れる。
「も……もんちゃん。こ……これ……」
 伊藤博文の悶絶しそうな絶叫に、本多はすぐさま秘書の顔に戻って水を手に伊藤のもとに向かった。
「伊藤閣下」
 意識が飛んでいる伊藤の頬をパチパチと叩く。
「ほ……本多くん」
「伊藤閣下、大丈夫ですか。あの……そんなに」
「も……聞多。これは何? この料理?」
「だから言っただろう、俊輔。それは俺様が腕をふるった最悪不味い料理なんだ。食べたら……悶絶するって」
「……うぅぅ」
 ゼハゼハ呼吸が戻らない伊藤を支えながら、本多はパクッとその料理を食べてみる。
 一瞬、くらあぁぁと意識が失われるかと思った。
 なんだこの甘さは。この……壮絶なまでの甘さは。
(甘さが殺人味となるとは)
 井上は甘いものが好きではなく、砂糖というものを全く使いはしない。それがこの甘さは……。
「井上さん。どれだけ入れたのですか、砂糖」
「ありったけさ」
「人を甘さで殺せますよ」
「しめしめだ。俊輔、二度と食すなよ」
「ほ……本多くん。中井くんのために作る料理っていつも美味しいのに……どうしてだ。どうしてこんなに……」
「砂糖はいけません。砂糖は……井上さんは砂糖は全く使い慣れていないので……」
「僕、しばらく機能できない」
 そのまま白目を剥いて倒れた伊藤を、とりあえずはソファーに横にさせた。
 すると井上は中井弘滋賀県知事に満面の笑顔で料理を勧め、中井は一口食し、にこにことまた一口食す。
「美味しいですよ、馨くん」
「なんだと」
 井上はパクリと一口食し、その甘さにさすがに「うっ」となったが、
 中井はそれはそれは美味しそうに全て食してしまった。
 さすがは中井弘。
 井上と同様の舌というよりも、どんな料理にでも対応できる万能舌を有している男。
「幸七、口直し、だ。とても……耐えられん」
 すると本多の前をするリと小さな影がよぎった。よく見ると大鳥だ。
 大鳥はにっこりと笑って井上にお茶を差し出している。
「い……いけません。それは飲まない方が」
 と、本多が止める前に井上はゴクゴクとその茶を飲み、その場にパタリと倒れてしまった。
 よく見ると恐ろしいまでに殺人的匂いがするどす黒い茶である。
「いつもの二百倍を濃く入れておいたよ」
 ふふん、と大鳥は笑った。
「……大鳥さん」
「俺の本多を幸七と呼んだ落とし前、これからよくよくはらさせてもらうよ」
 たかが名前の呼び名ひとつ。
 されど……名前。
 大鳥の嫉妬に散々にこの後井上は苦しめられることになるが、それでもめげずに「幸七」と呼びつづける。
 井上とはそういう男なのだ。

馨さんと幸七

馨さんと幸七

  • 箱館政府(伝習隊)
  • 全1幕
  • 【初出】 2010年8月7日
  • 【修正版】 2012年12月22日(土)
  • 【備考】