風は天を翔け、地に贈る




 ……毎年迎えるこの日。昔は喜びを抱き、少し前は悲哀が濃く胸に到来した。
 そして今は……。

 水無月二六日、眠りよりうっすらと覚醒し、ぼんやりしつつも目をあけると、
『桂さん……』
 この耳はその声をとらえる。
『おめでとうじゃ、桂さん』
 それは過去の声を拾ったものか。それとも今、この自分は幻聴を捕らえたのか。
 木戸孝允はそのどちらでもないという確信を得て、ゆっくりと起き上がった。
 昨今は色濃い翳りが見えるその黒曜の瞳に、穏やかで優しい感情が滲む。
「……晋作」
 明治に入り、毎年この日にだけ聞こえるこの声が、どれだけ哀しかったか知れない。
 かつてのようになぜこの場にいない? この自分の顔を見て、あの邪気のない笑顔を見せて「おめでとう」となぜ言ってくれないのか。
 辛かった。声だけが聞こえようともこの胸によぎるは痛みでしかない。
 一年また一年が過ぎ行くと、痛みがわずかに麻痺していったのか。徐々に聞こえるこの声に、懐かしさが伴うようになった。
 木戸は寝巻きに羽織だけをかけた軽装で、濡れ縁にそっと踏み出した。
 明けの六ツ時。わずかにひやりとし清んだ静謐な空気を木戸は愛する。
「今年もありがとう」
 入道雲が悠々と浮かぶ空を見据え小さく放たれた一声。
 数年前までは「ありがとう」などとは到底言えず、感情を示すのはとめどなく流れる涙であり、空を睨むようにして見上げた自分の心ばかりといえた。
 かりそめとはいえ今の心は平穏であり、空にかの幼馴染の姿を思い浮かべて微笑むことすらできる。
『桂さん……』
 それは幻聴ではない。かつて耳にした声を再現したものでもない。
 誰が認めなくとも、信じなくとも、良い。木戸だけが認識していれば、それだけであの幼馴染はニッと笑うだろう。
 水無月二六日。葉桜美しき初夏の一日。
 陰暦と陽暦の違いはあるが木戸が生まれた日付であるこの日に、天から優しい声が届けられる。
 それは風にのり天より贈られる自分への贈り物だと信じて疑わない。
 今年もその声が届いた。
 嬉しい。されど哀しいといったこの矛盾。
 たがこの声は……木戸を微笑ませる薬ともいえた。


 その日はいつもさやさやとした優しい風が身を包む。
 廟堂に出仕することを免ぜられている日ということもあり、木戸はこの日一日をただ自分の思い出のために使うこととした。
 早朝よりしばらく濡れ縁に座し、庭を見つめていた。
 昨夜は小雨が降った様だ。眩しいばかりの日差しが庭の葉露を照らし、にぶい光をかもし出している。
 葉が水滴の重りに耐えかねゆっくりと傾いていくさまを、ただ目を凝らして見ているだけの静寂。
 この駒込にある別邸は、静けさが身を包み込む場所である。
 明治三年にこの地を購入した。忙しない宮城近くの九段本宅より離れたこの場所で、一時の安らぎと憩いをと願う。
 近くにはかの柳沢吉保が築庭した名庭として名が通る六義園があり、気が向いたときにふらりと散歩に出かけるのには適した場所といえた。
 木戸はこの駒込がとても気に入っている。
 よほどの大事がない限り政府関係者が訪ねてくるのも禁じた。
 そう……鳥の声や猫の鳴き声。風音に耳を傾けて……のどかな一日を過ごしたいがためだけに駒込に木戸は足を向けるのだ。
「あなた」
 左側より響く慎ましい声音に、ゆっくりと視線を移す。
「このように朝も早くから。しかもそのような薄着では風邪を引きましてよ」
 妻松子は少し厚めの羽織を手にし、木戸の肩にふわりとかけた。
 二枚重ねになり少しばかりかさばるが、この妻の気遣いが嬉しくて木戸は笑む。
「風邪は万病のもと。初夏とはいえ朝は随分と肌寒いものです。気をつけてくださらないと……」
「いつから松子は山県なみに口うるさくなったのかな」
 まぁ、と右手で口を抑えた松子は苦笑を禁じえなかった。
 木戸は笑う。引き合いに出した長州の後輩にて陸軍卿山県有朋は、昨今木戸の「過保護」やら「小姑」やら言われている男だ。山県と比較されたことが思いがけなかったらしく「そんなに口うるさいかしら」と小さく呟く妻の肩をポンと叩き、
「山県と比べれば松子は優しいよ」
 慰めにもならぬ言葉をかけておいた。
 もしもこんな姿を山県が見たならば、問答無用で抱きかかえて部屋に放り込んだだろう。そして褥に寝かされている。その後、風邪がどれだけ身体に及ぼす悪影響か過去の事例を持ち出して語り、コツコツと説教を続け、最期には「食を極めて取らぬゆえ」と枕詞が出てくる。
 普段はあれほどに寡黙な男が、いざ自分のことになると饒舌とまではいかないが口数が多くなり、ついでに容赦がない説教に木戸はコクコク頷くしかなかった。
 今もって山県が「食事」と口にするたびに、木戸は小さく縮こまる。
「……山県さまなみに厳しく当たれればよいのに……松子はあなたには結局は弱いですから」
「アレを見習わなくてもよいからね」
「いつも感謝していますのよ。誰もがあなたに言えないことを言ってくださって」
「……過保護すぎる」
「それがよろしいのよ」
 松子は小さく笑い声を立て、ふと何を思ってか木戸の肩にそっともたれてくる。
「……松子?」
「誕生日、おめでとございます、あなた」
 この年になり年を重ねることはとてもめでたいこととは思えないが、
 毎年変わらずにこの言葉を口にしてくれる妻を愛しく思える。
「ありがとう、松子」
 元来この国には「生誕日」を祝う風習などなかった。
 陰暦は日時は定まらない暦である。例えば昨年の一月一日であった日が、今年は一月二十日というように一年一年日付は変動する。
 そのため古来よりこの国の人々は月日に対する感覚が薄い。維新政府方針により明治に入り陰暦を廃し、陽暦を用いることとなったのだが。
 陽暦の三六五日毎年決まった変動せぬ日付が用いられる風習は、この国に「記念日」という真新しき風習をもたらす。
 西洋の風習である誕生日を祝うこともその一つといえた。
『生まれた日の六月二十六日は、陽暦に直すと八月十一日になる? そんなのどうでもいいんじゃ桂さん。大切なのは記念の日付。毎年忘れずかかさず祝える印なんじゃ』
 幼少のころから幼馴染は木戸が生まれた日を「特別」といい、「おめでとう」と祝ってくれた。
 坂本より西洋では誕生日に大切な人に贈り物をする風習があると聞くと、はにかんだ笑顔で差し出される誕生日を祝う贈り物。
 その全てが今では木戸の大切な宝物となった。
「松子。今日は二人でゆっくりと過ごそうね」
 肩にもたれたままの松子は「どうでしょうか」と首をかしげた。
「今日は休養日でもあるし、訪ねてくる人もいないよ」
「まぁ桂さんったら」
 無意識に松子が旧名の「桂」の方の名を呼ぶと、鈍く胸の中が痛むのを笑顔でごまかす。
「皆さんあなたの誕生日は忘れていませんことよ」
 クスクスと笑い松子は立ち上がった。
「どうぞお気のすむままに光景をお楽しみ下さい。あなたは……そうして濡れ縁に座るときは一人になりたい時でしょう?」
 明治に入り政治家となった木戸とは、ほとんど一緒に過ごすときはなかったというに、松子はそっと木戸の日日を観察しているようだ。
 衣擦れの音が消え、この場にまた一人となった。
 目を閉じると、風のそよぐ音が聞こえてくる。鳥の鳴き声に、人の声も遠くから聞こえるようになった。
 目を開けて空を見上げる。ゆうゆうと風に流れる雲を見つめることに退屈も飽きもない。
 早朝より夕暮れ時までただ見上げていたこともあった。
 風は流す。何事も流し、舞わせ、そして届ける。
『桂さん……笑っちょるな。自分は桂さんの笑っちょる顔がいっとう好きじゃ』
 この声は天から風に乗じて届けられる贈り物。
 この身に声は舞い降り、優しく包み込み、そして涙を落とさせる。
「でも……ね、。やはり私はおまえに会いたいよ」
 それはいつか届く願い。いつか適う望み。けれど口に出さずにはいられない哀しき夢。
 そして今は……私は毎年この日、ただひたすらこの声を追う。


 山県に口うるさく言われていることもあり、不承不承だが昼食を軽くすませ、部屋に戻った木戸は碁盤を取り出した。
 木目美しいその碁盤に白と黒の陰陽を物語る碁石をパチリと音を立てて、打っていく。
 それは数年も前のこと。病んで下関で療養となった幼馴染に「一局相手になってほしい」とせがまれ、仕方なく対した対局のおりと一手違わぬ再現ともいえる。
 かつてを思い浮かべながら黒石を木戸が打つ。
 一息ついて後に、幼馴染が打った手を打つ。
 初手天元。玄人ならば決してせぬこの一手も、あの不遜で天上天下唯我独尊だった幼馴染が打つと「らしい」と笑えた。
 それを時間をかけて繰り返しながら、木戸は鮮明に幼馴染のありし日の姿を思い浮かべていくのだ。
 いまだ過去にするには時間が浅く、心の引き出しにしまうには胸の痛みは顕著なもので。
 時折こうして在りし日を再現するような一日を過ごし、鮮明に思い出し、そして心を痛めて涙を流す。
 そんな一日の過ごし方を誕生日にするとは、自分も変っている。
 つい自嘲の笑みが口元ににじみ、木戸は首を左右に振った。
(誕生日だからこそ……)
 一日幼馴染に浸っても良いと木戸は自分に許したのだ。
「おまえはここで待ったをかけて……熟考したね。それが長くて……」
 ようやく一手を打ったときに、相当に疲労があったのか、そのまま褥にバタリと倒れた姿。
「……ここで終わった」
 幼馴染が最期に打った一手。
 続きは明日、と笑っていたというに、翌日は大量に血を吐いてそのまま意識の淵を彷徨った。
『晋作……晋作!』
 手を握り名を呼び続け、ようやく幼馴染が目を開き、自分を見た。
『桂さんは心配性じゃ』
 と笑ったあの笑顔は清みすぎていた。
 後々に思えば悟りと諦めを滲ませたその笑顔は、死を明確に覚悟したものなのかもしれない。
 白石を置き、この後の対局は永遠になされることがないことを自覚してもなお、
 木戸はどうしてもこの一局を忘れられず、一手一手を記録するほどに……もう何度この一局を再現しただろうか。
「いつか……ね」
 この一局の続きをしよう。
 自分は全ての手を覚えているから、すぐに続きができるよ。
 それは決してこの光あふれる地上では許されぬ対局。
 今、この頬を撫でる風に乗り、地を翔け、天に翔んで、あのふわふわとした入道雲の上で一局を対峙する。
 そんな夢は、夢想家と言われ続けた自分には似合いのものではないだろうか。
 クスクスと声に出して笑ってしまった。
 周囲を見ればすでにこの日最後の日の眩しさも終わり、西の空が桃色に染まっている。
 薄闇に浮かぶぼやけた月は徐々にその存在を主張するかのように、光を放つ。否、周囲を染め行く闇が月の存在を際立たせているのだろう。
 木戸は碁盤をそのままにし、もう一度濡れ縁に出る。
 月明かりの中に浮かぶ庭の光景もまた静かで、飽きることがないのだが。
「お客様ですよ、あなた」
 楚々とした足音を立て松子が現れた。
「静けさを……高杉さんをこのまま偲ばれるとおっしゃるならお帰り願いますよ」
 木戸は松子に視線を向ける。あえて「誰?」とは聞きはしない。
「酒の用意を。今日は少しばかり過ぎると思うけど」
「大丈夫ですよ。あなたのお酒はしっかりと山県さまが監視してくださるはずですので」
「今日は誕生日だから山県も大目に見てくれると……思いたいのだけど」
「あの方がそんな甘い方?」
「……目をかすめて飲むことにするよ」
 まぁ、とクスクスと笑った松子に、木戸は苦笑を返す。
 酒好きだが銚子三杯ほどでつぶれる弱さはよく承知していた。身体によろしくない、と一杯飲んで後は山県がことさらに止めることも予想している。
 容赦のない山県だ。一杯飲んだ後は杯を奪いかねない。
 それでも馴染みの人間たちと飲むささやかな酒は、どんな甘美な飲み物よりも美味しく感じるのだ。
「……木戸さん」
 母屋より聞こえる賑やかな声が徐々に近くなり、
 なじみの顔が六人木戸の前に並んだ。
「誕生日おめでとうございます」
 誕生日を祝ってくれる人がいる。この風習を始めた幼馴染に習い、いまだにこの後輩たちは木戸の誕生日を祝うことを忘れはしない。
『いいか、おまえら。この自分の誕生日は祝え。当然桂さんの誕生日をも祝え。心を込めて祝え。忘れたら……おぼえちょれよ』
 大切な人の誕生日を祝う風習。
 それはどんなに年を重ねようと、生まれてきたことを、今生きていることを認めてくれる一つの印。
 木戸は微笑みながら後輩たちの顔を一人一人見つめ、
「……ありがとう」
 この時もまた涙を落とす。
 失った大切なものを偲び思い返し忘れぬように刻みつけ、過ごした一日。
 最期は今生きていることを刻み付けられる後輩たちの姿を目にし、この身が温かく息吹いていることを再認識する。
 ……生きている。
 もう少し……生きていよう。
 ……あの一局の続きは少しばかり遠くなった。


 その場に風が流れる。風が吹きぬける。通り過ぎる。
 天より届けられた風が運んだ声を、木戸は耳にすることなく、後輩たちと酒を交わした。
 ……はやく会いたいんじゃ、桂さん。
 生あることに一握の喜びを抱ける人間にとっては、これはまだ不必要な風が運んだひとつの贈る言葉。


風は天を翔け、地に贈る

風は天を翔け、地に贈る

  • 全1幕
  • 長州閥小説
  • 【初出】 2008年6月26日
  • 【修正版】 2012年12月13日(木)
  • 【備考】木戸孝允誕生日記念作品