月はなく、花もなく 雨フル宴

前編

「もうすぐ誕生日だね、山県は」
 まさにつむじ風のように、不意に現れ、今陸軍卿室のソファーにて膝を組んで座っているこの男。
 こいつと「昔馴染み」という言葉が使われるたびに山県有朋は寒気がする。が、十代のころからの付き合いであることには、どのように否定したくとも事実である以上、何一つ否定する言葉は出ない。
 縁を切りたい一番手であり、まさに何度始末してくれよう、と思ったかしれない男が、「紅茶がいいな」とわざわざ要求してきた。
「誕生日? なんだ、それは」
「なに? おまえの誕生日は閏四月二十二日じゃないの」
「そのようなこと、なぜに覚えている」
 するとこの男工部卿伊藤博文は、鼻でへへんと笑った。
「人の誕生日は大事なんだよね」
 瞬間、山県の背中には、ゾゾッと悪寒が駆け巡った。
 今、脳裏によぎった「想像」は、基本的には何一つ間違ってはいないだろう。
 伊藤が「天敵」のこの己の「生まれた日」など、覚えていようはずがない。第一に興味などないだろう。
 もしも伊藤が、この己の誕生日に興味を持ち調べるとなれば、その理由はただ一つだけに思える。
「伊藤……それほどに私を呪いたいか」
 山県は淡々と告げた。
「なに?? なにその飛躍……僕がおまえを呪うって。冗談じゃないよ。そんなことをしたら、呪い返しをされてこの僕の大事な大事な命がパッと花火さ。あぁぁいやだ。 僕の呪の力よりもおまえの呪返しの方が絶対に効力は上に決まっているんだからね」
 よくわからぬ自説を、伊藤は熱っぽく述べ始めている。
「いい? おまえはさして知らぬかもしれないけど、おまえの呪ってすごいんだよ。この僕を殺そうとすれば、きっと僕はこの世に生まれたことを呪うくらいいやぁな死に方をするだろうね。あぁぁぁいやだ」
 そして今度はなにやら想像を始めたらしく、ぶるぶると震えだし、今、山県が入れた紅茶をごくごくと一気飲みしてしまった。
 山県はなぜか知れぬが思いっきり疲れてしまっている。
「呪いではないのか」
「誕生日なんて僕らはみぃんな知っているよ。木戸さんが、みんなの誕生日にそれぞれ贈り物をするようになってからは特にね。おまえだって覚えているはずだよ。それにおまえの誕生日は……」
「あの男の命日に日付だけ見れば近いゆえに忘れぬか」
 陰暦では毎年その日その日が異なるため、さして日本人には日付を重要視する慣習はなかった。
 されど先年より太陽暦を用いるようになってからは、一年一年同様の日が繰り返されるので、人に「記念日」の風習が生まれようとしている。
「高杉さんは……関係ないよ。昔昔から木戸さんはみんなの生まれた日を祝ってくれていたからさ」
 四月十四日に逝った長州の英雄の名は、未だに同郷の人間の胸からは消えることはない。
「誕生日……か」
「この頃木戸さんはふさいでいるからさ。おまえの誕生日にかこつけて、パッとパッとさ。憂さ晴らしをしてもらおうと思ってね」
「人の誕生日を使うな」
「いいじゃないか。ちょうど葉桜香る時期。久し振りに仲間うちでパッとさ。それこそ芸者をあげて。あっ! 新橋がいい。僕は新橋が好きだし」
「おまえのための宴ではなかろう」
「でもさ。にぎわいがあるのはやっぱり新橋だと思うんだよね。ほらさ……なんていうか艶があるというかさ」
「おまえの自説はいい。それにあの人は芸者をあげるなど好かぬだろう。むしろ静かな……」
「庭園は却下。あんな静かな……なんだっけ? 枯山水の技法とか……に見惚れけているなんておまえくらいなんだからさ」
「おまえなどにあの庭の素晴らしさがわかるか」
「一生わかりたくないね。この女よりも庭を愛する……枯れきった男」
「女で噂が立ち、女房に追い出される男よりましだ」
「ふん……これが男の甲斐性ってやつさ」
「そのような甲斐性など必要ない」
「なになになに? そんなにこの僕を批難したいなら、いっそ男にも貞操を守る法律でも作ったら。法があれぱこの僕だって少しはね」
「分かった。いつか作ってやろう」
「楽しみに待っているよ。そんな法律なぁんかできたら僕は腑抜けになってしまうけどね」
 三度の飯よりも女性好き。女性と遊ぶことが生きる効力とまでいっている伊藤である。
 政治の原動力も女と言い切れるところが、ためいきものだ。
 ついでに男性に貞操を守る義務が法律で定められたのは大正十三年のことで、伊藤が韓国で暗殺されて後のことであった。
「話が大幅にずれている」
「おまえが悪い」
「何を言うか」
 二人だけで顔を合わせれば、寡黙無表情で名高い山県が、こうまで言葉を弁じてしまう。
 山県に言わせれば何かの引力に引き込まれる、ということだ。昔からの付き合いゆえ「慣れ」となってしまっているのかもしれない。
 故に、昔から伊藤博文という男が、山県としては大いに苦手であり、嫌いなのである。
「それで木戸さんだった……木戸さん」
「あの人を憂さ晴らしさせるならば、我が家の猫と戯れさせるだけでよい。猫の毛は本当によろしくないが、気分転換にはなろう」
「そんなの面白くないじゃないか」
「おまえはそうだが、木戸さんは喜ぶ」
「僕としては、みんなで木戸さんを喜ばしたいの。だから仕方なくおまえの誕生日を祝うことに決めたのさ」
「おまえが私の生まれた日を祝うなどありえん」
「そんなの当たり前じゃないか。未来永劫、この世が滅びたとてしてもない。山県もこの僕の生まれた日なんて祝いたいと思わないはず」
 ある意味、よく会話の歩調があった二人である。
 これでこの中に同郷の井上馨が入れば、もう少し穏やかな会話となるのだが、二人だけとなると……二人ともが自らを決して抑えはしない。
 天敵という名を自他ともに使い、ことあるごとに「不倶戴天」とまで称する二人だが、はたから見ればそれなりに息が合ってまぁまぁに仲が良くみえなくもないのだ。
「それで誕生日だけど」
 根本の話より話がとびに飛ぶのが伊藤の伊藤と言える所以だ。
「……なんだ」
「僕と聞多と市だけにしてやるよ」
「おまえらもいらん」
「憂さ晴らしなんだからパッとだよ」
「私の生まれた日だ。何ゆえに……おまえらの守りをせねばならん」
「なに? その言い方。しかも守り? 僕はね。おまえに守りをされたことは……」
 そこで伊藤は深く深く過去のいきさつを思い返し、サッと顔色を青ざめさせた。
 大いに覚えはあるだろう。自分が酔った際に、散々に己に介抱させた記憶というものが。
「まず第一におまえは酔うと笑い上戸と泣き上戸が交互に来る。次には甚だ迷惑な口付け魔。次いでだれかれ構わずに抱きつき、しまいには大の字で眠る」
「うるさいな」
「守りは懲り懲りだ」
「わかったわかった。よぉく分かりました。今回の宴では僕はちょっとしか飲まない。酔うほどに飲まない。市はどうせ牛乳しか飲まないし、聞多は酔わないから、おまえの迷惑にはなるまいよ」
「では決まりだ。宴は旧水戸藩庭園。東屋で月を見ながらだ。円月橋の風情も見事だろう」
「うわぁぁぁ……イヤだよ。あんな静かで……」
「おまえでもあの場では羽目を外せまい。飲めぬ。木戸さんの前で飲めば……伊藤」
「……分かっているよ」
「なにが分かっている? おまえの酒乱の様相を見られれば、おまえは……黒田同様に木戸さんの心を不快にさせるに違いない」
 明治政府でも札付きの酒乱黒田清隆。薩摩人で現在は開拓使次官の陸軍中将である。
 この男、普段は性格は温厚。体格は偉丈夫で、古武士の風格すらある。
 されど酒を飲むとそれが一点。老若男女誰かれ構わずに絡み、その場のものを手当たり次第壊しつくす迷惑な男になり下がるのだ。
 しかも酔っている間の記憶がひとつもないというから手に負えぬ。
 黒田が酒を口にした途端、誰もがその場を離れるのが通常となっているのだが、ただ一人だけ例外がある。
 それが木戸孝允。
 黒田は例え酔おうとも、木戸を前にすると、ピキッと体が固まり、続いて身をただし、酔いが覚める。
「黒田と僕を一緒にしないで欲しいね」
 黒田がこうまで身をただすようになったのには、ある一つの出来事が大いに関わっている。
 政府の要人が集まり酒を飲みつつ話し合いをしているときだった。
 大久保利通大蔵卿の制止を聞かず、酒を口にした黒田はその場で豹変。だれかれ構わず組み、軽軽とポイッと放り投げる。
 そこで木戸がスッと立ち上がり、酒乱の黒田に立ち向かった。
 華奢で儚げな風情の木戸が、大男の黒田を見つめ、瞬間、見事に黒田を押さえ込み、なんと蒲団に簀巻きにしてしまったのである。
『酒乱の男は見苦しい。この簀巻きのままお持ち帰りなさい』
 木戸に対する見方が一変した瞬間であった。
 考えれば木戸はあの江戸三大剣術道場練兵館の塾頭だった男だ。柔術も一通り習得している。
 以来黒田は木戸に畏怖とそれを凌ぐ憧憬を抱き、なぜか懐きまくり付きまとっているという始末だ。
「木戸さんは薩摩人が好きではないし、薩摩人で酒乱、ついでに煙草を吸う人間など大キライだよ」
「おまえも酒乱と悟られれば、少しばかり避けられるかも知れぬぞ」
「うるさい」
「故に木戸さんの前では飲むな。私も介抱はごめんだ」
「うるさいうるさい。おまえ……それなら介抱などしなければよいじゃないか」
「………」
「面倒見がよい陸軍卿など……僕ら以外だぁれも信用しないな」
 長州の同郷の人間の面倒は、なぜか昔から山県は見させられていた。
 酒乱まではいかないが、酔うと異常に人に絡むあの長州の魔王を何度取り押さえ、ついでに背負って宿舎に戻っただろうか。
 いつしか「世話女房」という甚だ迷惑な言葉をつけられた。
「おまえは子供と猫と木戸さんには本当に弱い」
「伊藤。おまえは女と木戸さんに弱かろう。……井上さんにもか」
 ニッと伊藤は笑う。
「そしておまえは……最後には僕らを捨てられないし、古い付き合いの僕らの面倒くらいは見る」
「………」
「だから僕らは最後の最後でばらばらにはならない」
 自信たっぷりに言い切り、伊藤はスッとその場を立った。
「三日後の宴を楽しみにしているよ。木戸さんと聞多と市には僕から伝えるから」
 まだ山県は一度として宴を承諾はしていないのだが、伊藤は勝手に段取りに入ろうとしている。
 昔から自分勝手で何でも一人で自己完結をする男だ、伊藤は。
 だが、こうなった伊藤は止めぬ方がいい。下手に関わるとこの男のよからぬ「企み」に巻き込まれること大有りだ。
「分かった」
 肩越しに振り向き、また伊藤はニッと笑った。


 陰暦四月二十二日は太陽暦に直すと六月の中旬となる。
 だが、全く縁のない日にちに誕生日を祝うよりも、やはり日付を重視し陰暦の生まれた日付を祝うことを暗黙の了解とした。
 木戸孝允は四月十四日までは過去の感傷に捕らわれ、情緒が不安定となるが、十四日を過ぎれば後輩の誕生日に気をとられ、今年は何を贈ろうか、と心を弾ませる。
 三日前に伊藤より二十二日に旧水戸藩別邸「後楽園」にて、誕生日に宴を実施すると伝えられた。
 その日より木戸の頭はただ一つでしめられている。曰く誕生日の贈り物について。
 今年は……と考えに考え、木戸は見事な漆塗りの和傘を選んだ。
 前に木戸がさしていた傘を「良いものだ」と珍しく褒めていた山県を覚えていたからだ。
 江戸のおりよりの名工のもとに自ら出向き、その傘を購入してきた。本当は時間があれば彼に適した見事な傘を特注するのだが、木戸はあくまでも四月二十二日という日にちに拘る。
『生まれた日にちは特別なんじゃ』
 満面の笑顔でそう言った幼馴染の姿が脳裏によぎり、木戸の胸はやはりズキリと痛む。
 こういう時は大きく深呼吸をするように、と井上馨に言われていた。
「あぁぁああ今日は雨。後楽園は中止だってよ」
 今は政府からは離れ、「先収会社」というものを益田孝と設立している井上馨がヒョイと顔を出した。
 髪よりはポタリポタリと雫が落ちるのを見て、木戸はポケットよりハンカチを取り出しその髪を拭くと、
「水も滴るよい男じゃろう、桂さん」
 ニタリと笑った井上は、そのまま木戸よりハンカチを奪い、髪を乱雑に拭く。
「やはり山県は雨をつれてきたな。アイツが関わるとなかなかの割合で雨が多い」
「残念だね。狂介は後楽園の夜宴を特に好むのに」
「あんな静かな場所だと宴も質素でいかんさ。俊輔がよ、山県が好む庭もある料亭を手配したようだから、今日はそっちだ」
「俊輔は庭とかまったく分からないようだから……本当に狂介が好む庭を手配したのかな」
「それは……分からん。まぁ桂さんよ。結局は祝う気持ちが大切ってやつだ」
 ニヤニヤ笑う井上馨は、懐より煙管を取り出し口にくわえた。
 大の煙草愛好家であり、パイプと煙管にはこだわりがあるらしい。物に執着はなく無頓着な井上が、唯一煙管だけはこだわりを持って集めているようだ。
 今日の煙管には洒落た蝶が彫り込まれている。
「それに山県は……アンタが笑ってくれればどこでもいいんじゃないか。相変わらず子どもとアンタの面倒見は最高にいい」
「聞多。私はいつも思うのだけど、どうして狂介は私に対してあんなに過保護なのだい」
「なぁに……アンタは子どもと一緒だろう?」
「………」
「人がちゃんと口うるさく言わないと本当に食べ物は食べん。たまに仕事が忙しすぎると睡眠も忘れる。手がかかるおこしゃまじゃな」
「聞多!」
「眉間に皺が寄るほど怒るなよ。桂さんは……面倒見も良いが、たまに誰かに面倒を見られるくらいがちょうどいい。山県はそこらへんはぬかりはないさ」
「私は……誰かに世話を焼かれるなど」
「焼かれているだろう、すでに」
「私は!」
「山県も俊輔も世話を焼くのが好きなんだよ。アンタもそこらを心得て、ちゃあんと世話を焼かれていな」
 木戸はかなり腑に落ちない思いになったが、井上に肩をポンポンと叩かれ、一息吐く。
 そこへトントントンと扉の叩音が響いた。
「噂をすればなんたらだ」
 山県です、と声が聞こえ、井上が自ら扉を開けにいく。
「よっ雨男さんよ」
 揶揄を含んだその声に、山県はジロリとまさに冷ややかな視線を浴びせた。
「俊輔がな。最高の庭での宴を用意したといっていたぞ」
「……芸妓をあげるのはやめてほしいが」
「さぁて。おまえを喜ばすためなら、とか言っていたが」
 山県はわずかに眉をひそめる。まさにいやぁな感じが全身より溢れだした。
「狂介」
 木戸はにこりと微笑む。
「雨は残念だけど、おまえはやはり……雨が似合うね」
 山県はジッと木戸を見、小さく息を吐く。
「貴兄はまた食を十分にとっておられぬな」
 えっ、と小さく声を漏らした木戸は、思わずその場より立ち上がり逃げる場所を探してしまう。まさに図星だった。
「よろしい。やはり本日は料亭に参り、貴兄に食事をさせねば」
「きょう……狂介! 今日はおまえのお祝いなのだから」
「はっきりというが、貴兄以外に祝っていただいても何一つ喜ばしくない、たんに伊藤は私をだしに使っただけだ」
「それは違うよ。俊輔だってね……」
「アレは私を呪おうが、祝うことなどあるまい」
 そうだそうだ、と頷いた井上に、木戸はつい哀しげな視線を送ってしまう。が、山県は軽く頷いた。
「いつだったか。誕生日の祝いは呪いの藁人形でなかったか」
「そうだったな。おまえさん、アレを見てこういったんだよな。これでおまえを呪えということか、伊藤ってな。あの俊輔が震え上がっていたぞ」
「あの藁人形は未だに保管している」
「……さすがに使うのはよせよ」
 井上はポンと山県の肩を叩いた。
「伊藤の挙動次第だ」
 山県と伊藤は自他ともに認められる「天敵」であり、不倶戴天の仲と言われている。
 それでも何かあれば二人でなにやらぶつくさ言いながら話し合っている姿を見ると、木戸はホッとするのだ。
 仲が悪いといわれるが、きちんと山県と伊藤には「仲間」という思いが心の内に息づいている。
 長州閥という鎖が、山県を、伊藤を、決して独りにはしない。
「木戸さん、貴兄には必ず本日食事をしてもらう」
 そしてこの異常なまでに過保護は、山県にとっては「好意」の伝達手段なのだろう。
 木戸はゆっくりと、静かに、微笑んでいく。
「いかがされた?」
「私はおまえがほんとうに愛しい」
 おそらく何一つ予想にもしなかった言葉だったのだろう。
 山県は思考が停止したかのように瞬きだけを繰り返し、
 井上の「おいおい」という言葉に我に戻ったらしく、大きく息を吐き、「貴兄は」と山県は呟く。
「そういう無防備で、何一つ邪念のない言葉は、ひとつの武器にも等しい」
「えっ?」
「人を陥落させるのに必要なのは、力ではなく、時に貴兄の如し無防備というものかもしれない」
 故に、貴兄は危なっかしく、目が離せない、と山県は続けた。
「まぁまぁ誕生日に説教なんかしているなよ、山県。桂さんもそんなしょぼくれていないで、今日はパッとやるのさ」
 耳を澄ませば、屋根を打つ雨音が響く。
 先ほどよりさらに強くなったろうか。窓を叩く風も威力を増している。
「今宵は月を愛でるのは、無理なようだ」
 花鳥風月を愛でる山県は、少しばかり落胆している。
「それでもな。月も星もなかろうが、愛でる花はなかろうが、皆で集まるのは久々だ。楽しもうぜ。なっ」
「貴殿たちと一緒で私が楽しめると思うか。最後は守りだ」
「そういうな。おまえさんは……どうしてこう硬いんだろうな」
「貴殿が軽すぎる」
「狂介も聞多も……そう……」
「そして貴兄は優しすぎる。よろしいか、人を見れば悪人と思わねばこの世の中は渡っていけない」
「無理無理。桂さんは性善説だからよ」
「貴殿も少しこの人に説かれよ」
「まぁまぁ。ほら桂さんもな」
 三人集まれば長州の人間は賑やかになる。
 この長州閥でいちばんに寡黙な山県とて、他の藩から見れば驚愕するほどに弁を振るう。
 木戸はこの賑やかさが好きで、愛しく、何よりも胸が痛い。
(晋作……)
 かつてあの長州の地でいちばんに賑やかで、木戸を温かく包み込んだ幼馴染の存在が、
 今ここにないことを、しらしめる。
「笑いながら泣くのはやめな、桂さん。今日は祝い日だ」
 井上のジッと見据えてくるその目は、いつも人の心の奥底を掴み取り、決して違えることはない。
 その目は人ならざるものを視、その目は人の心を正確に見据える。
「そうだね、聞多。今日は狂介の祝いの日だから……」
 私もかつての感傷を封じて、今日は心から笑うよ。
 雨音が耳に響く。
 山県が、わずかに目を細めた。
 それを見た木戸は、あえて見ない振りをする。


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月はなく花もなく雨フル宴 -1

月はなく花もなく雨フル宴 前編

  • 【初出】 2009年5月26日
  • 【修正版】 2012年12月14日(金)
  • 【備考】山県有朋誕生日記念作品(一か月以上遅れました)