20章
星らは所隊を率いて札苅まで引いたが、海より軍艦による攻撃にあい、海岸沿いでは防ぎきれずと判断し、さらに泉沢まで引くことにした。
この一戦で箱館側には死者は百名あまり。重傷兵もかなりの数だ。緊急に陣を張り、負傷兵は運ばれる。死者を回収するゆとりはなく、そのまま打ち捨ててきた。今、木古内の街には多くの死体が転がっていよう。
「……今に大鳥さんと伝習隊が救援に来る。それまでの辛抱だ。木古内は奪い返して見せる」
星は負傷兵を元気づけようと走り回った。星自身も腕に傷を負っているが、それは治療を受けずただ白い布で縛ってあるのみだ。
『俺はあの死にたがりの医者さんにしか手当てをしてもらわないのさ』
松前より撤退する兵たちの治療に最前線に回した……あの小五郎という医者の顔は此処にはない。
道すがら手当てを受けた兵たちの話によれば、まっすぐ松前に向かって歩いていったという。まさか松前に入ったとは思わないが、あの無茶な医者だ。松前近辺において傷ついた兵の手当てを施し、その際に征討軍に捕まったのではないか、と星は考えた。
武装はしていなかったため命は取られていないと思うが、なにせ死にたがり屋だからな、とついため息がもれてしまう。
それにしても見事なまでにやられたものだ。油断していた訳ではないが、朝霧の中を敵軍が夜襲をかけてくるとは夢にも思わなかった。
「大丈夫か、伊庭さん」
遊撃隊の伊庭もやられた。全身に砲撃を受け、今では息があるのも不思議なくらいだ。凄まじい精神力で星の顔に視線を向け、
「ほし……さん」
と、懐より一枚に紙を取り出し、星に差し出す。
そこには挽歌がしたためられている。昨夜遅くに月を見ながら伊庭が読んだ歌だ。
まてよ君 冥土も共にと 思ひしに 志はしをくるる 身こそ悲しき。
親友の本山小太郎を思う心情が哀しいまでに伝わってくる。
「持っていてくれ……おいら……もう、いけねぇや」
うっすらと笑った瞬間、その場に咳き込み、鮮血が舞う。
「まだまだ行けるぞ。天下の伊庭が弱音を吐くもんじゃないさ」
星は一切視線を外さない。その顔に笑みすら見せて、飛び散った鮮血を懐紙で拭く。
旗艦回天か蟠竜を回してもらい、負傷兵は五稜郭に送らねばならない。伊庭の顔を拭きながら星は考える。
重傷兵の多さに、腸が煮えくりかえるほどに己が情けない。
「星さん」
松前奉行の人見勝太郎がいつのまにか横に来ていた。人見は遊撃隊出身だ。仲間の伊庭の容体が気になるのだろう。
「大鳥さんが到着次第、海軍に駆け合ってもらうつもりだ」
負傷兵の輸送のことを人見は言っている。
その童顔で育ちの良さげな風情の割には、強烈なまでに血気早い人見という男を、星はとても気にいっていた。
「俺もそのつもりでいる。人見さん、あんたもやられたかい」
右腕と左腿に白き包帯が結ばれていた。うっすらと血の赤が滲んでもいる。
「なに。八郎ほどではない」
こんな傷、と人見は強がって見せるが、相当に痛々しい。
「人見さんも旗艦で戻りな。箱館病院で傷の手当てを受けた方がいい。見くびると大変なことになる」
「そういう星さんも腕は血だらけではないかね」
「こんなものはかすり傷さ」
意地を張って笑って見せ、今、伊庭に渡された挽歌を人見に手渡した。
伊庭は気を失っている。その青白き顔は生者かそれとも死者か区別が付かないほどに血の気がない。
「……八郎らしい。小太のことが相当にこたえたか」
今日も先陣を切って駆ける姿は、まさに一刻も早く死にたがっているようで見ていられなかったと人見は言う。
「戦って戦って、戦いぬいて小太のもとに逝きたいのだろうな。それほど急がなくとも小太は待っていてくれるだろうに」
馬鹿な奴だ、と人見は苦しげに伊庭の顔を見ている。
星は立ち上がり、その場に広がる疲労感を吹き飛ばすように大きな声をあげた。
「伝習隊が来る。大鳥さんと本多くんが援軍を引き連れてくる。それまで辛抱してくれよ」
本日の奇襲が予想外であったため、知内に彰義隊が取り残される形になってしまった。
身捨てるわけにはいかない。木古内を取り戻さねば彰義隊は征討軍に一斉射撃を受けるだろう。
茂辺地に布陣する伝習隊の本多の部隊が援軍に回ってくれれば木古内は回復できるかもしれない。
本多は若いがあの血気早い伝習隊をその手で操縦してきた男だ。奇策は用いないが、堅い戦をする。あの「全戦全敗」と悪口を言われる大鳥が、どうにか軍を保っているのは本多の沈着冷静な判断によると評判だ。
(本多くん。一刻を争う。頼む)
いざとなったら、おそらく満足に馬を駆けさせられはしない大鳥を置いてでもいいから駆けつけてくれ。
星は祈るような思いで援軍を待っている。
「水を……」
と一人の少年兵の呟き声が聞こえた。
医者は手いっぱいだ。星は慌てて井戸に走り、湯呑に水を汲んで戻ってきた。
「ほら水だぞ」
その少年兵には水を飲みこむ力がもはやない。
星はそっと水を自らの手に注ぎ、その水を少年兵の口に少しずつ注いだ。水はほとんどが唇よりこぼれたが、少しは喉に通り、ゴクリと喉が鳴ったのを見てホッとした。
「負けるんじゃないぞ」
この陣で傷と戦う人間全員に星は呼びかけた。
その宵に本多が伝習隊を率いて現れた。
「遅くなって申し訳ありません」
「いいや、思っていたより全然早いよ」
星が出迎えると、なんと本多は大鳥と二人乗りで駆けてきたらしい。
「やぁ星くん」
大鳥はニコニコと笑っている。本多の方がかなりばつの悪い顔をしていた。その光景を見れば、おおよそのことは検討が付く。
「大鳥奉行は馬に振り落とされでもしたんですか」
すると大鳥はわずかに顔を膨らませ、
「違うよ。別に馬に落とされた訳でも蹴飛ばされた訳でもない」
蹴飛ばされたのだ。その場の者は思わずため息をついた。この大鳥はもともと乗馬は苦手だ。何度、馬に振り落とされる光景を見たか。
おそらく本多は大鳥を見て、いっそ置いて行こうかと頭によぎったはずだ。だが全軍を率いる陸軍奉行である。仕方がない。若干恥ではあるが、軍が遅れるよりはましだ、と馬に共乗りで駆けてきたようだ。
(本多くんも馬もさぞかし走りにくかったことだろうな)
「来てくれただけでも感謝する。知内に彰義隊が取り残されたままだ。一刻も早く木古内を取り戻さないとならない」
「それについては報告を受けています。大鳥さんと考えてきたのですが」
「知内の彰義隊の兵士と連絡を取って、木古内の敵を挟み打ちにしようかと思う」
大鳥がヒョイと馬より飛びおりつつ、呟いた。
「伝習隊の数人を闇に乗じて知内にやった。明朝辰の上刻をもって木古内の敵にしかける」
「大鳥さんとしては上出来な策だ」
大鳥は策を用いるが、それが成功することがほとんどない。今回の策とて怪しい所が多々見られたが、あえて星は口にしなかった。その策以外、星も考えつかなかったのだ。
「俺の方からも知内に向けて伝令は向かわせたよ。考えは同じ」
大鳥がニコリと笑う。見るからに小僧と間違われるほどの童顔であるが、笑えばさらに幼さが引き立った。星も大鳥とほぼ同じくらいの背丈だが、引き締まった顔のおかげで大鳥ほど幼く見られることはない。いやこの蝦夷に来てからは、背丈の話題はほとんど出なくなった。誰もがちびっこという言葉で最初に浮かぶのは、この大鳥のようである。
「ただちに軍議に入り、すぐに寝よう。明日は朝早いからね。それと星くん」
「なんですか」
「回天と蟠竜に後方支援を頼んできたよ。明日は海上からの支援がある。それと……負傷兵の搬送の手配をお願いしていいかな」
「俺と人見奉行でやっときます」
ありがとう、と大鳥は笑う。それにしてもいつも笑っている男だ。大鳥から笑顔が消えたところを見たことがない。
苦戦続きでも笑い続ける。それもひとつの将器と言えようか。批判も多いが、星としては暗い顔で前線に立たれるよりは遥かにましだ。
本多は馬上より優雅に降り立った。その漆黒の瞳をまっすぐに星に向けてくる。
「早速ですが、星さん。お聞きしたいことがあるのですが」
「小五郎殿がいないだって」
星に見習い医者の小五郎が今どうしているのか。それを本多は尋ねた。五稜郭に戻っていた大鳥も、そのことが気になってならないようだ。なにせ箱館病院の院長高松よりは「一刻も早く戻していただきたい」と矢のような催促を受けている。
「自ら前線に配置して欲しいと願いで、福島に敗残兵の手当てに向かったとのことです。そこから行方不明とのことです。話によると松前に向かって単身駆けて行ったとのことですが」
「本多」
大鳥の顔色がわずかに陰った。
「小五郎どのは、非武装の医者だからね。万が一にも捕虜になろうとも、命はとられないと思うけど」
それには本多も頷く。確か小五郎は榎本が発布した医者の手形を持っていたはずだ。
「けれど死にたがり屋という困ったところもある。そこで本多。明日の一戦の後、敵の内部に入り込まない程度に探してほしい」
「はい」
本多は黙って頭を下げた。
傷ついたこの腕の手当てをしてくれたあの温かな手を忘れられない。
はかなく笑う人だった。小五郎を見ていると椿が花を落とす瞬間を思い浮かべる。儚く潔く、壮絶な覚悟を身に宿していると言うのに、常に死相がつきまとい、風情そのままに生に対して何の執着も見られない。
死にたがりという言葉がよく似合い、
どうしても死なせたくはない、と思うのだ。
それは本多自身も同様だからかもしれない。本多の願いもまた「死」であった。この身は蝦夷の地に踏み入ったその時からただ「死」だけを願う。願わくば大鳥の盾となって死せれば本望だと夢想し、その度に大鳥が本気な顔で怒るのだ。
『俺は命を大事にしないやつは大嫌いだ』
自分を大切にしてくれるならば生きてほしい。しぶとく足掻いてでも生きて生き残れ。
それは今は伝習隊の合言葉になっているが、総督の本多がいちばんにその合言葉に背を向けている。
大鳥にはいつも笑っていてほしい。どんな時でも笑顔を絶やさないその強さを、本多は守りたいと思っている。
『俺は本多がいるから笑えるんだよ』
いつか大鳥はそんなことを言っていた。
『本多は俺を守る。なら俺が本多を守る。死にたがりのおまえを、ずっとずっと俺は守るよ』
にへらぁと笑う大鳥を心から大切に思う。だからこそ、大鳥の願いを叶えられそうにない。
本多は負傷兵のいる陣にと向かった。そこに小五郎より手当てを受けた遊撃隊の兵がいる。最後に見た小五郎の様子を聞いておきたかった。するともう一人、小五郎らしき人を見かけたという負傷兵が名乗り出た。
「俺は松前の敵陣近くで見たよ」
その男は敵の刃を受け意識を失い、一人取り残されていたという。目が覚めた時は朝だった。このまま敵の捕虜になるのか、と最悪なことが浮かぶ中、それでもどうにかして脱出を試みている最中に非武装の青年が陣に向かって一人駆けて行くのが目に入ったという。
「武装していなかったからおかしいなと思ったんだ。単に本営とはぐれた征討軍の一人かとも思った。けど、あの人は刀を抜いてかかっていったんだ」
草むらの中に身を潜まして、その男は見ていたという。
小五郎らしき華奢な年若い男がひとり。敵の陣屋に刀を抜いて一人ゆっくりと歩いていくさまを。
「征討軍に申したきことあり、とかいってたな。襲い掛かるもの、すべて斬り捨てて。あれは鬼なみの恐ろしさだ」
そちらに敵が気をとられている中、どうにか逃げてきた。
「命の恩人のようなものだ」
最後にそう言って、無事でいればいいが、と男はポツリと付け加えた。
本多はその話を大鳥に報告した。
「……小五郎殿だね」
大鳥はため息をつきつつ、
「さすがというべきか。剣術に関しては……強い」
「……そうですね」
「……剣術はできる。刺客となるなら超一流。けどね。その手に剣を握るのがもっとも似合わない人だ」
大鳥は訳の分からぬ自信で「大丈夫」と本多の肩を叩き、そこでハッとなにかに気付いたのか顔をしかめる。やはり見逃しはしない。先の戦いで受けた本多の手の甲の傷は未だ全快してはいない。なにかの拍子で思い出したかのように血を流す。今も一筋血が流れていた。
痛々しげに傷を見る大鳥に、本多はあえて淡々と言った。
「……小五郎さんが手当てをして下さいました」
「あの戦の中なら応急処置だろう。見せろ。包帯と薬と化膿薬を探してこないとな」
「大鳥さん」
「あまり怪我をするなよ。おまえは怪我ばかりで俺はいつも心配ばかりだ」
本多はわずかに笑ったが、ゆっくりと首を振る。今は包帯も薬も負傷兵に使ってほしい。自分の怪我はもう全治寸前なのだ。
だが大鳥は心配そうに見つめ、何を思ったのか、本多の手の傷を自らぺろりと舌で舐め始めた。
「お……大鳥さん」
「化膿止め」
にんまりと大鳥は笑う。そして自らの軍服の裏地を斬り裂いて、本多の手の甲に巻いた。
「これはおまじないでもあるんだ。もう本多が怪我をしませんように。必ずその身は傷一つなく、俺のもとに帰ってきますように」
「……陸軍奉行の言葉とは思えませんね」
「いいんだよ」
大鳥はジーっと本多の目を見据え、
「俺はおまえが大事だ。どこにいても忘れるな。おまえの命はおまえだけのものではない。俺がどれほどその命を大切にしているか」
「………」
「もう怪我などするなよ」
それにはわずかに頭を下げて、本多は微笑んだ。
「桂さんが……いた」
征討軍軍監品川弥二郎は、ひとり陣で打ちひしがれている長年の友の顔を見据え、ニタリと笑う。
「縮こまっているとさらに小さくなるぞ、市」
「……弥二。桂さんがいたんだ」
「こんな寒い蝦夷地に……桂さんがいるはずがないだろう」
「いたんだよ」
思わずその場で椅子を蹴りつけ、山田は品川の顔を睨みつける。
「ひとり……斬りこんできた。見惚れるほどに美しい……剣さばきをしていて……」
「市……」
「信じられないよ。この手で桂さんに触れた僕がいちばんに信じられない。……なんでこんなところにいるんだ。なんで……敵などに」
「落ち着け、市」
「この手を振り払っていったよ。僕は死なないで、というしかなかった。弥二、どうすればいい。桂さん……死ぬ気だよ」
「市、いいか、市。とりあえずは東京に報せを送らないとならない。それは分かっているだろう」
「………わかっている」
山田が小さく頷くと、それを見た品川はいつものからかい口調を封じ、真摯な顔で山田の肩に手を置いた。
「それから……いざという場合だ」
「いざという場合……そんなの僕は知らない。僕は……」
「しっかりしろ。おまえは海陸軍参謀。今回のこの戦の責任者だろうが。まぁなりは小さく陣頭にたっても、姿は探すがな。おぉい大将はどこだ。もしかしてあの豆粒か」
「弥二!」
品川も癖で、どんな時でもまずはこの山田をからかってしまう。
だが引き際はよく心得ている。
「万が一の場合、桂さんは……この蝦夷には決していてはならない人だ」
「………」
「あの人もすべてを承知しているだろう。市、万が一の場合、おまえ、桂さんをただの一兵卒として扱う覚悟、ついているか」
「………」
「ここに長州の首魁はいてはならない」
「……わかっている」
「わかっているが……どうなんだ」
「知らないよ、そんなの。桂さんの意思だから僕は往かせた。本当は縛りつけたって止めたかったよ。でもそんなことはできない。誰もあの人の意思を変えることはできない。長州の首魁の矜持を誇りを僕は決して汚すことはできないから、だから……行かせた。僕は間違っていたのかな。本当は今すぐ捕まえに行きたいんだ。桂さんの命は絶対に助けたい。死なないでって。お願いだから……ただ死なないで……」
「だがなぜ桂さんはこんな蝦夷地になど来たんだ」
その言葉を受けて山田はわずかに震えた。視線を逸らし、遠いところを見ながら「死」という言葉をどうにか吐きだす。
予想していた答えではあったが、あからさまに品川は失望した。
「そうか。まだまだ何も終わってはいないのに、あの人は皆にすべてを押しつけて逝く気か。一人よがりも甚だしいな」
「弥二!」
「そうだろうが。桂さんがいないためにどれほど……あの伊藤など苦労させてもいいがな。だが、長州閥の大痛手になる」
品川も長州の一人だ。桂こと木戸孝允にはどれほどに世話になったか知れない。だが山田や伊藤などに比較すると、一歩離れた位置から見ることができる。あの人の危うさを、あの人の恐ろしさを。そしてあの人の哀しさを。
(あえて蝦夷を選んだのか、桂さん。この真白き未開の地を…)
小五郎の願いはなんとなくわかるような気がした。
知る人もないこの地ゆえに小五郎は選んだ、自らの墓標として相応しかろうと思ったのだろう。
「なっなんとか助けよう。弥二、助けよう。桂さんを……どうか。この戦争をはやく」
「あぁ……そうだな」
この戦争を終わらせるよりも、あの小五郎を捕まえて送還する方が何百倍も難しいような気がした。
小五郎ほどの男だ。その身の意思により考えを変えない限り、梃子でもこの地を動くまい。なによりも、どこかの戦場に鉄砲玉のように飛びだしていかないか。その方が品川は心配だ。
「死なないで。生きてくれるなら……ただ生きてくれるなら、僕は何をも差し出しても構わない」
山田は下を向いて歯を食いしばって必死に涙を抑えている。
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逝く者、いくもの 20