夏の月 前篇

1章 + すべては宴より始まり +

 夏の月。
 それは笛曲としては高度な名曲。
 遠き昔……前漢の皇帝が好んだといわれる宮廷音楽の一つである。今では、この曲を自由自在に操れる者は稀になって久しい。
 かつてこの曲を見事なまでに美しく吹き上げた男が、ひとり、いた。
 今でも覚えている。
 あのはかなくも………毅然とした笛の音を。


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「苦くても苦しくても我慢して飲むんだ」
 それは二歳の時のことだった。
 目の前に父通隆が、一杯の茶碗を差し出した。中を覗けば真っ黒な薄気味悪い液体で、父上? と新五郎は首をわずかにかしげると、
「我が家の嫡子は、二歳になると必ずコレを飲まねばならぬ決まり。父も爺さまも代々飲んできた」
 いつもにない父の厳しい顔と声音。またその場の雰囲気が戦慄するほどに厳粛なものだった。
 新五郎は、ためしに嘗める程度に舌ですくう。その、あまりもの苦さに吹き出しそうになってしまった。
「すべて飲まねば我が家の当主にはなれぬ」
 父の目は一切の妥協を許さず、ただ「飲め」と命じていた。
 それははじめての覚悟だったかもしれない。
 新五郎は茶碗をギュッと握り締め、息を止め、一気に無我夢中にその液体を飲み干した。薬よりも苦く、また胸のあたりがギュッと絞られるような、そんな痛みがした。思わず戻しそうになったが、父の鋭い眼差しがそれを制止する。喉元が熱く悲鳴が知らず知らずに洩れていた。
「新五郎、それは軽い毒だ」
 思わず胸元をおさえ、父を睨んだ。
「我が家の男子は生まれたときより、微妙な毒を身体に流し続ける。………毒に身体を慣らし、成人した際にはかのトリカブトであろうと受け入れるようになる」
 二歳の時に始めて毒だけの飲み物を飲まし、身体にどれほど毒が馴染むかを試すのが我が家の慣わし、と父は言った。
 知らずしらずに自分の身体も毒に染まっていることが新五郎には衝撃だった。
「十歳になるまでには、普通の人間が一滴で致死だろう猛毒をも受け付ける体になろう。毒殺を封じるには毒に慣れる。これが我が家の初代の遺訓であった」
 その初代は父母を毒により失い、一時はお家存続の危機になった。毒への憎悪と恐怖。その心が、毒を飲み慣れるという手段を選ばせたようだ。
「おまえは我が家の世継ぎ。おまえが家督を継ぎ、子を儲けたならばその子にも伝えねばならぬ遺訓だ。よく覚えておくように」
 その日より毒茶と称される軽き毒が含まれた茶を、毎日三度飲むことが義務付けられた。体がなれるたびに毒の高度は強くなっていく。
 新五郎は何度卒倒しただろう。何度、軽い死を味わったか知れぬ。それでも父は無情にも毎日毒茶を飲むことを強要した。
 目の前にある茶を飲めば胸が締め付けられるほどに苦しい。それを承知してなお、なぜ、この毒茶を飲まねばならないのか。
『我が家の当主も世継ぎも決して毒で死んではいない。……武勇誉れ高き我が家では、当主が毒などで死すのはもってのほか。最大の恥。相手にもたらされる死ならば、戦場で死せ』
 毒を恐れるために毒を我が身に取り込む一族。
 新五郎は時として毒に身体を弄ばれ、仮死や発作を繰り返し、毒により苦しみ続け、それが和らぐ瞬間の安堵を何度も体験した。
 林家の嫡子は、毒に身体が弄ばれなくなったそのときこそが一人前と認められる。
 一子相伝にして門外不出。
 毒を流し続けたこの体は、今では、どのような毒でも受け付けないだろう。
 そう信じたことが、あくまでも欺瞞でもあり油断であったのかもしれない。
 毒は我が家の唯一の恐怖。
 まだ知らぬ『猛毒』がこの世には必ずあるということへの畏怖を、いつしか新五郎は忘れてしまっていた。


 それから数十年後。
 暑い夏の日に、先の戦の戦勝を兼ねての月見の管弦を催されることになった。
 厳かなれど賑わう宴に背を向けて、織田家筆頭家老林新五郎通勝は杯を手に人がいない場所にて月を見ている。
 管弦は口が裂けても卓越しているとはいえない。流れる音に耳を汚しながら、杯の中の酒が切れたことに気づき、筆頭は酒置き場に足を向けた。その場にはたった一人の男がいるのみだった。
 気配を殺して近づいたために、男は筆頭の存在に気づいてはいない。
 手には小さな紙袋。それを酒に入れようかどうかを多少躊躇っていたが、覚悟をつけサラサラと酒の中に白い粉のようなものが注ぎ込まれる。
 筆頭は、その男に近づき背後より肩にポンと手を置いた。
 さぞかし驚いただろう。男はビクリと肩を震わせ、まるで猫に包囲された鼠のような顔をして恐る恐る振り返ってくる。
 筆頭は無表情のまま、その白い粉が入った酒を手に取り、そのまま杯にいれ飲み干そうとする。
「筆頭殿!」
 その声には構わずフッ笑い、粉入りの酒をすべて飲み干した。
「何も見なかった」
 と一言だけ筆頭はいい、もう一度、笑った。


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『十五夜の宴を庭にて開く』
 今日はまさに十五夜当日。
 夜空にポッカリと浮かぶ満月を仰ぎながら……当主がポツリと口にした。
 宴会ですか? と当主の背後に控える猿に似た小男が甲高き声音をあげた。あぁ、と当主が心ここにあらずの頷きを洩らす。
「御屋形さま」
 当主はなにかを考え込んでいるようだ。
 月を見上げているというのに、鉄面皮の怜悧な顔貌のその瞳には月など映ってはいなかった。だが、およそ騒々しい宴を好まぬ当主が、なぜ突如十五夜の宴を開くことを思いついたのかは知れぬ。
 鶴の一声ではないが、その感情のないボソリとした声より、すぐに宴の支度となっていった。
「たまには騒々しい宴もよかろう。満月の下で、賑わうのも一興」
 そうとは想わぬか、お乱?
 と、当主はこのごろお気に入りのまだ幼すぎる稚小姓の顎に指で触れ、グイッと持ち上げた。
 まだ十歳にも満たないその子どもの名は森乱丸。織田家重臣森家の次男で、その可憐な顔貌と愛くるしい笑顔。まして幼いながらも切れるといわれる頭脳を当主は好みで、常に側に置いている。
 当主の夜の相手たる色小姓になるには、まだ数年の年月を重ねることが必要だが、美貌的には当主付きの色小姓として乱丸は合格点であろう。
「上さま。宴には座興も必要か、と乱丸は思います」
「座興とは」
「管弦の宴を乱丸はみとうございます」
 およそ当主は文芸にはさして興味を示さない。上に立つものは文芸に金銭をかけ保護はするが、自らが傾倒してはならぬ、というのが当主に持論であった。
 時として要人や客を迎える際に当主は管弦の宴を催すが、ごく身内だけの宴では管弦を催すことは滅多にないことと言えた。
「管弦を呼べばただの一興が重くなろう。お乱は、小鼓がうまかったな。誰かに笛を吹かせ舞わせばよい。それで座興には充分だろう。……管弦師など名ばかりで格調だけが高く退屈極まりない、客をもてなす宴だけでたくさんだ」
 当主は軽く吐息を流し、
「どうだ、五郎左。ひとさし舞うてみるか」
 と、傍らに控えている青年に話を振った。
 青年の名は丹羽長秀。通称五郎左と呼ばれている。当主より一歳年下で家老の重責を果たす男なのだが、舞いと聞いてブルリと震え、いえいえ、と手と頭を振った。
「この五郎左の舞いの腕などお目の毒にございます。……舞いといえば卓越なされているのは筆頭殿でございましょう」
「……アレは舞いより笛がよい」
 当主は月に視線を移した。
「舞いならば剣の舞と称し、余の喉元に剣の切っ先を突きつけぬとは言い切れぬ。悪ふざけが過ぎよう」
「しかし筆頭殿の剣の舞は見事にございます。特に日本武尊がヤマタノ大蛇を退治する際の舞は誰もが絶賛するほどに」
 かつて要人を迎えた際に座興と笑いながらも、見事な剣の舞を披露した筆頭家老の姿に、思わず丹羽はうっとりしたことを覚えている。
 剣を持つときの筆頭は、普段よりも神がかった神秘的な美を醸し出すのだ。だがそれは芸のための剣である。その両腕に傷を持つ……かつては「天才」とまで称された剣の腕は、二度と見ることは適わない。
「上さま、乱は筆頭さまの笛の音を聞きたいです」
 ニコッと幼きもの特有の無邪気さを見せ、まるで父に甘えるかのように当主の顔を見る乱丸は、時にドキリとする可憐である。だが、丹羽などは美に免疫がありすぎてまったく意識することはない。
(誰であろうと、あのお人の魑魅魍魎と呼ぶにふさわしい美しさには適うことはない)
 今、話題になっている筆頭家老は、何も語らずただ無表情で佇めば、顔は年齢不詳にしてどこか中性的な奇麗という表現が似合う青年であった。
 武者として昔は名を知らしめたことを忘れ去るかのような、武将としては華奢すぎる体格なのだが、薄い筋肉が全身を覆いよく均衡が取れている。
 まして化け物と呼ばれるほどにその顔は、数十年前とまったく変わらずに奇麗さを保ち続けている。年齢不詳の雰囲気は十数年、ほとんど変わりはしない。いや年を重ねわずかに渋く、貫禄というものがついただろうか。 昔はただ「きれい」さが際立ったが、今はその「きれい」さにも重みがあり、時に見せる冷酷な眼差しが、きれいさを払しょくさせ、人に怜悧さを際立って印象付ける。
 その名を林通勝といい、年はあえて秘す。恐ろしくて知りたくもなかろう。
 当主より年上であることは確かなはずなのだが、よく見ても当主と同年齢。または年下に見ることが可能といえる。
「笛がよかろう。五郎左、筆頭に笛を持参で来るように伝えよ」
「はい。確かに伝えますが、あの筆頭殿は天邪鬼にございます。笛を吹けといえば、舞にする、と言いそうで」
 丹羽は筆頭の性格を思い、頭を抱えた。
「それに、この五郎左如しがお伝えしてもイヤだ、といわれればそれまで」
「天邪鬼……か」
「はい。何か物で釣らねば宴などおもしろくないといって姿も現さないかもしれません。あの人騒がせを人一倍大好きなお人も、人の賑わいは好みませんので」
 一人で月を見ながら酒を飲むほうが好きだと、いつか筆頭は口にしていた。
「今日は妙にアレの笛の音を聞きたく思う。余の部屋の戸棚に名酒がある。それを餌に釣ってまいれ」
 丹羽は、クスリと一瞬笑んだが、すぐに顔を引き締めて軽く会釈した。
 乱丸はポカンとしている。
「アレは少しばかり酒にはうるさかろう」
 と当主が何気なく口にした時には、宴会を望むものたちの手によって庭は宴の場に設定されていた。丹羽の姿はもはやその場には、ない。


 筆頭は六畳の広さという居室で、今日もぼんやりとしていた。体を横たえ、もはや暗唱さえできるだろう古事記の一節を開きながら、今日は早く眠るか、と頭の中に言葉が過ぎったとき。廊下より静かな足音が響く。
 人を決して不快にさせないために、重大事であろうときわめて抑えた歩調を取る男が、どうも今日は迷いがある歩き方をしていた。
(不規則な歩調だな)
 筆頭は微かに唇をゆがめた。それは、この男にとって不快な感情を表す所作の一つである。期せずして、この場に現れる男を待つために、古事記をぱたりと閉じた。
 そしてわずかな間の後に、
「………筆頭殿、五郎左にございます」
 襖越しに無意識か盛大なため息を漏らしている男へ、筆頭は何だ、と返した。
 襖はゆっくりと開かれ、顔を現した青年は織田家一平凡人でありたいと願う丹羽長秀その人である。
「何か言いたくなさそうなことでも起きたようだな」
 そのどことなく曇り空の如し表情を見れば、おおよそのことが筆頭には分かる。
「信長殿の用件は何だ」
 筆頭は織田家で唯一人、当主信長を『信長殿』と呼ぶ。それは二人の関係を安易に物語っているのかもしれない。主従ではなく、対等であり続けているこの年月の重さを。
 丹羽は筆頭の顔を凝視し、イヤイヤながらも口を開くことにした。
「十五夜の宴がこれより催されます」
「俺は行かないよ」
 即答で答えた。この一言で丹羽の用件の半分は知れたのである。続いて、丹羽は大きくため息をもらし、
「そういわれると半ば予想をしていましたが、上さまが筆頭殿の笛の音をお聴きしたいといわれまして」
「笛を吹く気分ではない。俺は、もう眠るつもりでいた」
「まだお休みになるのは早いですよ。それに満月がとても美しいです。月見酒でもいかがですか」
「人の賑わいは好きではない。そのようなこと知りすぎているだろう」
「たまには、筆頭殿にも表にて親睦を深めて欲しいです」
「俺は表の人間と親睦などせぬ。……表の人間はおまえをはじめ真面目すぎでおもしろくはない」
「私とはお付き合いしてくださるではありませんか」
「それは俺の気まぐれだ」
「筆頭殿!」
「何を怒っている。別に怒るようなことではあるまい」
「怒ってはいませんよ。ですが、私は思い上がりかもしれませんが少しは筆頭殿に好かれている、と信じております。気まぐれで付き合ってもらっているなど……哀しいです」
 丹羽は少ししょぺくれて、畳みに視線を移した。
「……長い付き合いだ。気まぐれだけではないことくらいおまえが一番分かっているだろう。ついでに、俺は気に食わぬ相手の媒酌人を引き受けたりはしない」
「分かっているつもりですが………分かっていても筆頭殿の一言で落ち込んでしまいます」
「ならば、落ち込むだけ落ち込め」
「冷たいですね」
「俺は生まれたときから冷たい人間と思っている」
 軽く喉を鳴らして筆頭は僅かに笑って見せた。
「それで五郎左。信長殿は何を餌に俺を釣ってまいれ、と命じた」
 筆頭と当主も長い長い付き合いといえた。それこそ丹羽以上にである。言葉なしでもおおよそお互いの心を察することができる。そんな仲が、時として丹羽には微笑ましく感じていることなど筆頭が知るよしもない。
「名酒でいかがか、と」
 ほう、と筆頭は妙に感心したような声音をあげた。
「信長殿の秘蔵の名酒を出してきたか。確か高級な諸白(清酒)だったな。どこぞの寺院よりひったくってきたと言うあの! 戸棚の奥に隠し、俺に飲まれぬようにしていた」
 隠していることを承知ならば、それはすでに「隠している」ことにはならないのではないか。
 そんな疑問を丹羽は思ったが、それよりも「名酒」で筆頭の心は微かに動いたようだ。
「一曲であの諸白を飲めるならば、それはよい条件かもしれないな」
「本当に酒が好きですね」
「酒と女と賭博は俺の好物だ」
「そのどれにも一度も酔ったことがないでしょうが」
「俺を酔わせることなど、俺を殺すこと以上に難しいことではないのか」
「それでも酒は飲まれるのですね」
「いつか酔える酒と出会えるかもしれないということもあるが、俺は酒の苦さを好んでいる」
 どれほど強い酒であろうと、どれだけ飲もうとも決して酔わぬのが筆頭だった。それと対照的に当主は一定の量を超えると、もはや手に負えない。
「酒とおまえの顔を立てて宴には出てやろう。だが酒を飲んで一曲奏でたならば、俺は遠慮なく退席する。不快極まりない場所にいつまでも座しているつもりはない」
「承知いたしました。……小鼓は乱丸が打つそうで、舞は……」
「まさかおまえが舞うのではないな」
「お断りしましたが」
「そうか。おまえが舞うのだな。俺は見ないようにして、笛を奏でることにする」
「私の舞など見るに耐えないでしょうに」
「確かにだ。しかも俺が手慰みに軽く教えた舞いだ。まぁ座興にはよいだろう」
 と、筆頭は苦笑しながらも、戸棚より愛用の『龍笛』を手にした。
 そして丹羽が口にした乱丸という名に微笑する。あの美童は、あと十年もすれば信長殿の好みになるやも知れぬ。
 そうアレは好みの顔だということを筆頭はよく熟知していた。
「今日は気分が悪い。あまりよき響きを奏でることができぬぞ。それに信長殿の顔はあまり拝みたくはないからな」
「また、何かあったのですか」
「ない」
「ならば、なぜ上さまのお顔を拝みたくはないなどと」
「そういう時もあるということだろう」
「……あまり上さまに冷たい態度を取らないでくださいね」
「言ったであろう」
 筆頭は今度は冷たく……突き放すように笑った。
「俺は生まれつき冷たい人間だよ」
 丹羽は知らず知らずに大仰なため息を漏らしていた。


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