夏の月 後篇

1章 + 新たな旅立ち +

 佐久間信盛の謀反未遂事件より二年の歳月が過ぎ去った。
 その日、筆頭は領土と居城の一切を預けている一応は養子の伊野則唯と、忍び頭妖禾を岐阜に呼び寄せた。
 幼き日に筆頭に山奥にて拾われたことから、その生涯において絶対的な忠誠を誓う忠義者の則唯と、隙あらば筆頭の身体を奪おうとする筆頭いわく変態忍びの妖禾の二人を、最終的には誰よりも筆頭は信頼しているようだ。
「……おまえたちに頼みがある」
 伊野は穏やかに笑む。
「いまさら頼みなどといわれるような仲ではございませんはず。ご主人のためならば、何でもいたします」
 年相応の落ち着きを見せ、伊野は柔らかな笑顔で筆頭を見つめ続ける。
「俺は伊野のように人は良くないぞ。褒美をくれなければ、動かないからな。いとしの筆頭さん」
 その褒美はたいていは冗談なのか、いや九割は本気だろうか。筆頭の唇がほしい、と口にされるたびに、頭痛を覚える。およそ幼きおりより、忘れたくとも忘れられぬ最初の口づけの相手が、この三歳年上の妖禾であることに、改めて背に寒気が走るのだった。
「妖禾。俺のために動けぬというならば、もはやおまえには頼まぬが」
 珍しく筆頭は冷たくあしらった。
 と、
「冗談だよ、筆頭さん。人が悪くなったな。俺がアンタの願いを一度たりとも拒んだことがあったかい。俺はアンタの喜びを第一としているんだよ」
 それも嘘が五割、本音も五割と言うところだろうか。
 最終的には妖禾は筆頭の願いに逆らうことはない。すげなくしておけば、しばらくは懲りて筆頭に挑んでくることもないだろう。甘い一夜の関係を望んでやまぬこの忍びを、徹底的に筆頭は苦手としているのもまた事実だ。
「則唯。那古野城を一つの埃も立たぬよう整理しておくてくれ。勤めているものは五郎左か権六に頼んで再仕官させてもらう」
「ご主人、それは」
「織田家から出る。織田家より頂戴したすべてのものを捨てる覚悟はついた」
「筆頭さんよ。織田家筆頭家老を捨てるのかい。まぁ、いつかくる日だからな。それで、これからどうするんだい。まだ、織田家を潰すつもりはないんだろう」
「知らぬよ」
 妖禾はニヤリと笑った。
「先も考えずに無茶をなすような男じゃないよ。信長を意図も簡単に捨てると言い捨てる潔さもいいね。……惚れ直したよ、筆頭さん」
「おまえに惚れ直されても嬉しくはない。妖禾、則唯を手伝い、那古野城を整理を頼む」
「心得たよ、で?」
 食い入るように妖禾は筆頭の顔を見据える。
「その後のことは」
 と、伊野も筆頭の目を覗いてくる。
 筆頭はやれやれと風のいたずらで揺れる髪を気にしつつも、この二人は織田家に残れ、と命じても決して従うまいことを心得ていた。おそらく、無一文になろうとも筆頭の跡を追ってくる。
 腐れ縁は永遠に切れぬようだ。
 馬鹿な男だ、と嗤いながらも、馬鹿でなければこの己の側近など勤まらなかった、と改めて思い知る。
「先の生活の保障は一切ない。俺は風の吹くままの気の向くままの生活をしてみたく思う。それでも良いのか」
 まず伊野が嬉しげに笑んだ。
「則唯はどこまでもご主人に着いて参りますよ。たとえ地獄までも」
 昨年妻を亡くし、子を得られなかった伊野には何一つ未練はない、と潔い顔で、先の算段をもはや考えている。
 妖禾はこう言葉にした。
「俺らは織田家に仕えたつもりは一切ない。代々林家に仕えてきた。アンタがすべてを放逐しようとも林家のものは裏からアンタを支え続ける」
「ならば……建前で通政に林家を相続させる。弟たちには大望がために裏で……水野家と共に動くための算段をすでに言いつけてある。重臣たちはほぼ通政に仕えるが、……通政には織田家に仕えてきた林家の幕の閉じ方をすべて申し付けた」
「俺は忍び頭は一応譲ってアンタについていく。アンタを守ることが俺の生涯の役目と思っているからな」
「またおまえの嫌な顔を見続けなくてはならぬかと思えば、それも嫌なことだ」
「だが、アンタは俺を置いていかぬさ。長い付き合いだよ……。一生の付き合いとなろうさ」
 筆頭の風来坊の旅に、二人の同行者が決まった。
「城は一月でたため。俺のほうの始末も一月でつける。良いか」
「心得ました」
「了解」
 相変わらずの二人の変わらぬ心に、少しばかり筆頭は救われた思いがした。


 織田信長は覇者として突き進んでいる。
 残忍さが特に目立つようになり、数年前に数百年の歴史を刻む比叡山延暦寺を焼き討ちしたばかりか、僧ばかりではなく女子子どもまでも惨殺を命じるにいたった。比叡山と同等の権威高野山の僧をも惨殺し、キリスト教を保護して仏教の権威をも確実に落とそうとしている。それが全国の僧の怒りをもたらせたが、信長は平然としたものだ。
 また足利幕府も滅ぼして以来、信長の偉業達成を誰も疑ってもおらぬ。そして偉業の象徴として近江に城を築くことも考え始めている。
 つい先日であったか。
 年貢を横領した家来を、皆の前で惨殺し、その家族から一族にいたるまで皆殺しにした。その一人一人が殺されていく姿を無表情で見つめる姿に、長年の重臣もゾッとしたという。
 そればかりか妹お市の婿となった浅井長政の裏切りを許さず、浅井家を滅ぼすばかりか、長政やその父の久政の撃ち取った首を洒落首と称し、髑髏を金色に塗りたくり、頭の皿の部分を杯として、それで酒を飲み干したときには、人々が信長の真の残忍さを知ったときであったかもしれない。
 筆頭は蚊帳の外にいた。
 徹底的に残忍な行いをしたその夜に、不意に酒を飲まぬか、と信長より誘われ、庭のはなれで二人きりで酒を飲むと、杯を持つ信長の手が微かにだが震えているのが見える。
 誰かに弱さを見せるのを拒む信長が、いまだに筆頭の前でだけは弱きを見せてしまうその心に、筆頭は優しさも救いの手も差し出しはしない。
「おまえは俺を批難せぬのか」
 筆頭は答えを与えはしなかった。
「助命嘆願もせず、何も見ぬようにもなった。言いもしない」
「この俺にまだ止めてほしいのか。愚かな考えだ」
「もはや、止めるのもやめたのか」
「いつも言っていたはずだ。もはや、信長殿は自らの考えで突き進めばいい。誰の言も聞かずともいい。それでいいのだよ」
 それは誰が耳にしても、突き放しと受け止めただろう。
 筆頭は苦笑しながらも、ほとんど私的に接しなくなった信長の酒の誘いだけは付き合うのは何故だろう、と考えもした。
 一切の救いを出さぬと言いながらも、少しだけ迷いがあるからか、こうして時に顔を合わす。
 信長は筆頭の杯に酒を注いだ。
「おまえとはいつまでも酒を交わしたい、と思う。そうだな、天下を手にしたならば巨大な船を造らせ世界を見て歩くのも良い。どうだ、一緒に行かぬか……通勝」
 そう茶色がかった瞳に、ゆっくりと見つめられ、筆頭はその視線を受け止める。
「もはや天下を手中にしたつもりか」
「天下などどうでもよい。二人でゆっくりと旅をせぬか。……思えば、おまえと旅をしてみたかったのやもしれぬ」
「……何もかも終わったあとの話だ」
「そうだな」
 信長はあまり強くない酒を飲み干し、立ち上がろうとした身体がふと揺らいだ。
 筆頭の両腕が無意識に動く。それを必死に抑えこみ、差し出しはしなかった。
「おまえは俺を変わったというが、俺よりもおまえの方が変わったのではないか」
 その信長の言葉を耳にしつつ、筆頭は杯をゆっくりと飲んでいく。
「俺はさして変わっていない」
 などと口にはしたが、変わったかも知れぬ、と思いもした。
「見かけは何も変わらぬというに……。通勝、三日月が出ている」
 信長は月を仰いでいる。
「おまえと月を見るのは久しぶりのことだな。昔はよく共に月見をした」
 月の下で二人はよく話をした。
 愛情も憎しみも、月の光に包まれて、一瞬だけ忘れ去るときもあったか。
「夏の暑い日。幼いときだな。眠れぬ俺をおまえは外に誘ったものだ。おまえの顔と月を見ながら、俺の月はおまえだと思った」
「月と……か」
「決して手は届かぬ。あのほのかで毅然とした月の神々しい光。おまえは月のような男だった」
 酒の酔いからか筆頭の片腕にしがみつき、信長はぼう然と月だけを見つめていた。
 幼い信長を両腕に抱き上げ、よく小さな庭を歩いたものだ。夜の少しばかりヒヤリとした闇に包まれつつ、信長は筆頭の腕の中で眠りについた。
 仰げは、そこにはいつも月があった。
「………」
 何かボソリと呟きつつ、信長は筆頭より離れ居室へと戻っていく。
 あえて筆頭はその言葉を聞かなかったことにした。
 今は、聞いてはならぬ言葉だった。

 こんな些細な甘えが、筆頭には苦痛しかもたらさないことを、信長は知るはずもない。
 伊野と妖禾に覚悟を告げて後、筆頭は濃姫にもことを打ち明けている。
『待ちに待った日でございますこと』
 そう言いながら、濃姫は寂寥の表情を浮かばす。
「主殿にとって貴方さまは最後の私情。それが崩れますのね」
 自由にお行きなさい、と濃姫の目は激励の言葉を告げていた。


 昨今、神であろうとする魔王信長に、誰一人として諫言するものはない。
 ならば、と筆頭は公的な場で、諸侯列座の中、信長の思考を糾弾し反したならば、もはや信長とてそのことを許すことはできまい。
『人は決して生きて神にはなれぬ』
 と公衆の場で断言してみせるのが、筆頭家老としての林通勝の最後の役目であり、言葉であった。
 その翌日、信長より家老を更迭され、二年前の佐久間同様に追放を言い渡された筆頭は、妙にすがすがしい気分になっていた。
 これで解放される。
 もはや、織田家には何も思い残す未練はないのだった。
 三日後、二人の男が筆頭を迎えてくれる。
「長年、せっせと貯金して置いてよかったです。ついでに、ご主人に渡すお金を少しばかりくすねて蓄えておきましたから、随分たまりましたよ」
 伊野は朗らから笑んだ。
「俺は蓄えなどないからな」
 と妖禾は言う。
「金目のものなどこの刀と、そうだな。随分前におかしな坊主からもらったこの茶碗。どうやら今ではかなりの値になるらしいから持ってきた」
 と、筆頭に妖禾はケラケラと笑ってみせる。
 身体が妙に楽になっていた。何の責務もない自由の身が、これほどにいとおしいと思う反面、織田家から解放されこの後その手に握る復讐の大きさを筆頭は苦笑いで受け止める余裕すらあった。
「まずは都に行こうか」
 と筆頭は無表情な顔で、二人の共を見つめた。
 その都に新たなる筆頭の運命と、なさねばならぬことが眠っていることは確かだった。
「どこまでも、ご主人」
 伊野はなにやら荷物を大量に持ったおり、風呂敷にいれ背負っている。
「はいよ筆頭さん。……この呼び名は駄目か。そうだな、昔に戻りこう呼ぼう。新五郎、とな」
 そんな筆頭自身忘れ去っている幼名を口にするなど、この忍び頭くらいしかいないだろう。
 好きにせよ、と口にした筆頭はもう一度ゆっくりと断崖絶壁の岐阜城を見据えた。
(信長殿よ)
 己を追放すると告げつつも、信長のその目には私情が込められていた。
『しばらく休暇をくれてやろう。そのつもりでいるように』
 信長は壊れはしなかった。中途半端な別離では、まだ完全な魔王にはならない。
 いずれ決着をつけねばならぬ日が来るだろう。それは都で、だ。
(俺は三度だけおまえに手を差し伸べよう。一度は五歳の時、二度目は十五のおり。そして最後は……)
 この手を最後に差し出すのは、おそらく信長の最後の時と筆頭は決めている。
 天守を見つめつつ、その場に立つだろう相手に筆頭は心の中で告げた。
(また、会おう)
「じゃあ行くか、新五郎さん」
 おかしな三人組の旅が今より始まろうとしてた。
 伊野と妖禾は守るべきものは、筆頭……いや林通勝しかいない。
 自由気ままに、そして楽しげな顔を浮かばせて、家という観念から解き放たれた三人はゆっくりと歩いていくのだった。
 その三人を天守閣より見つめている影があることを、果たして気づいていたのだろうか。


 この日、織田家筆頭家老林通勝は長年のすべてを捨てた。


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夏の月 後篇 1-1

夏の月 後篇 1