藤二輪

1章

「時宗丸。ダメだ……中庭はダメだよ。母上の部屋に続いているから」
「だって梵天。中庭の藤がきれいだよ。きっと喜多も虎哉サマも喜ぶ」
 今を遡ること数十年前。その日、まだ幼い小生は嫌がる従兄の梵天丸の手を強引に掴んで、中庭から普段は許可なく入ることは禁じられている奥の主、義姫(お東の方)の部屋前に忍び込んだ。
 義姫とは米沢城の主伊達輝宗の正室たる人。梵天丸の実母であるので、母方の血をたどれば小生には義叔母にあたる。
 といっても奥より滅多に出ることのない義姫と小生はほとんど会うことはなく、印象はと言えば少しきつめで怖い人というものでしかなかった。
「勝手に母上の部屋には行ってはいけない、と。ダメだよ、時宗丸」
「うるさい。梵天だって母上に会いたいんだろう。藤の花をもらいにきたって言えば大丈夫だよ」
 滅多に実母とは会うことも許されず、一人傅役たちに囲まれて日々過ごしている梵天丸だった。傅役の喜多が母親代わりとはいえ、きっと義姫に毎日会ってその膝に甘えたいと思っているのではないか。
 小生には母はすでにない。物心つく前に、父に連れられ伊達宗家の世継ぎの梵天丸の遊び相手とされた。母なしの小生ですら時折母を思っては哀しくなった。きっと近くにいるのに会えないでいる梵天丸は、もっともっと哀しいのだろうと思って、半ば強引に梵天丸の手を引いたのだ。
 今は藤の花が美しく咲き誇る季節だ。
 中庭にある藤棚は特に美しいと評判で、見事に飾られている。その中の一厘が欲しくて手折りにきたのだが、母の声が聞こえお顔が見たくなったとでもこじつければ、出入り禁止の中庭の奥の義姫の部屋に入る口実になると小生は思った。
 会わせたかったのだ、梵天丸を母義姫に。
 いつのまにか梵天丸も諦めたのか、トボトボと小生に手を引かれるまま歩いている。
 その顔には不安と期待が混ざっており、梵天丸の手も燃えるように熱い。緊張でもしているのだろうか。
 きっと母に会えたら、この顔が満面の笑顔に変わるのだろう。その顔が見たくて、小生は梵天丸の手を掴んで先を急いだ。
 中庭には藤棚が美しく飾り立てられている。花などさして興味がない小生からして、その美しさに見惚れるほどだった。
 紫がかった色合いが陽に浴びて美しく光り、つい小生は一厘手折ろうとしたそのときだ。
「……竺丸」
 中庭の奥、義姫の部屋より小さな声が聞こえてくる。
「これお竺。こちらにおいでなされ」
 庭戸や襖が開かれていて、部屋の中が見えた。
 そこには義姫に梵天丸の弟の竺丸。そして数人の侍女たちがなにやらにこやかに歓談している。
 とても楽しげな雰囲気で、あのきつめの印象の義姫がにこやかに微笑んでいるのが小生は嬉しくて、中に入れてもらおうと梵天丸の手を引っ張って行こうとしたのだが。
「ダメだ、時宗丸」
 拒否を、梵天丸は凄まじい力で小生の手を掴むことで現した。
「梵天?」
「帰ろう。やっぱりここに来ては行けなかった。ダメだった」
「なんでだよ。母君は楽しげだよ。中に入れてもらえば……」
「ダメ」
 梵天丸はまるでイヤイヤと駄々をこねるように首を横に振るので、小生はかなり驚いたのだが、それでも手を引っ張ってあの部屋の中に梵天丸を連れ込もうとした。
「ほんにお竺は最上の兄上さまに似ていること。よかった。最上の血が濃く生まれて……」
 風にのってそんな声が小生の耳にかすめた。
「梵天のように伊達の血が色濃い子どもならばどうしようかと思っていましたよ。……伊達の血は最上には悪しきもの。最上には伊達の血が色濃い子など必要なきこと」
 柔らかな表情でそんな言葉をサラリと流した義姫は、幼い竺丸を抱きしめて幸せそうに笑む。
「梵天?」
 傍らを見れば、梵天丸が小生の手を握り締めたまま藤棚の下に座ってしまっている。
「梵天丸? 」
 義姫が竺丸を溺愛しているのは小生の耳にも届いていた。おそらく梵天丸の耳にも届いているだろう。伊達家の嫡子。世継ぎの立場ということで母のもとより遠ざけられ、傅役たちの側で厳しい教育を受けている梵天丸はいつも寂しげで、小生は見ていてかなり辛いものがあった。
 ……母に嫌われているのではないか。
 そんなことを梵天丸が心の奥底で思っていることを、小生は知っていたのだ。
 そう一年前に梵天丸がはしかで片目を失明し、眼帯をつけるようになって以来、自らの姿を醜いと嫌い鏡を見ることもなくなり、そればかりか極度に人前に顔を出すのを厭うようになったのも、すべて母に自らの姿を見せたくないためだった。
「梵天丸は伊達家の子どもだ」
 独り言のように梵天丸は小さく呟く。
「梵天は父上の子。母など必要ない」
 強がって言い捨てて、だが言葉で強がろうとも身体の反応は正直だった。
 梵天丸はガタガタと震えていた。繋がれた手より伝わる小刻みな震えで、母の言葉がどれだけ梵天丸の心に傷をつけたかが伺える。小生はこの場に梵天丸をつれてきたことを後悔した。
「梵天には母などいない」
 小生は、梵天丸の手をギュッと握り締める。
 伊達家世継ぎとして先行きの期待を身一つで受ける梵天丸。
 梵天丸は伊達家にとって期待の星。おそらくその期待を裏切らない巨星となって世を駆けていくだろう。
 けれど、母の言葉に傷つき震える危うい心が、梵天丸の心には絶えず息づいているのだ。
「時宗丸は、ずっと梵天の側にいて支えるから。だから、梵天」
 そんなに苦しまないで。
 まだガタガタと震える梵天丸の身体をギュッと抱きしめて、小生は心に誓った。
 いついつまでも側にいて、梵天丸を支えていこう。
 時として危うい梵天丸の心を抱きしめ続けよう。
 そのために小生は強くなる。
 陽が落ちるまで藤棚の下で抱きしめていた。あの時、小生は梵天丸の哀しみを少しでもこの身で受けたいと心から願った。


 時として小生は幼少を振り返り思うことがある。
 兄弟同然に育った我ら。梵天丸の後をいつも必死に追いかけていった小生。
 されど、時とは無情であり、時が兄弟同然であった我らの絆を簡単に引き裂き、脆くも消え去らせた。
 人は必ず時が大人にする。
 大人になるにつれ見たくはないものをその目で見ねばならない。
 そして子どものときの純粋で無垢な心でさえも、時は簡単に打ち破る。
『時宗丸は、ずっと梵天の側にいて支えるから……』
 あれほど堅かった幼少の思いさえも、あえなく打ち砕くほど、時とは小生には無情だった。



  +++

 相模糟谷での春の風は、かの東国の吹きすさぶ風と比べれば穏やかで、優しく頬を撫でる。海風の香も心地よい。
 伊達成実はその日は相模の海を見に来ていた。
 縁もゆかりもない相模の春を迎えるのもこれで二度目となった。
 日々平穏に何一つ移り変わることもなく過ぎていく時をいとおしいと思うと同時に、憎くもある。
(俺はなにをしているのだ)
 何をしたいのか。
 二年前にこの世のすべてを厭う感情が身を支配した。妻も待望の子さえも病死し、なにひとつ身に背負うものがなくなったときに、魔が差したというのか「すべてを捨て去りたい」という感情に支配された。いや直接的な原因は、十数年前より心にくすぶっていた。それが妻子の死で直接的に表に出てしまったに過ぎない。
 頬を撫でる風が「おまえは此処にいていいのか」と問いかけるように触れる。
 成実には答えはない。
 伊達家を出奔して、高野山に入ったそのときに、世をすべて捨てて僧になろうと考えた。
 だが御坊に説かれるたびに、自らはまったく僧には向かないことを自覚し、こうして相模に移ったのだが。
 広大な海を目にするたびに、心には穏やかさと苛立ちが同時に沸き起こる。
 成実は今年三十二歳。今がまさに男盛りの年齢を迎えた。
 ここで名もなく朽ち果てることになろうとも良いのかという、忸怩たる思いもあった。
『伊達成実殿、五万石で我が上杉に』
 米沢の上杉家よりそんな誘いを受けた。家老直江兼続は文武両道にて才色兼備。直接に顔をあわせ、その人柄に心惹かれるものはあったが、成実は二つ返事で承諾することは、ついにできなかった。
 成実が「殿」と呼んだのは、この世でただ一人。
 まばゆいばかりの覇者。しなやかで強く賢い成実にとってはまさに王者そのもの。母方の血を辿ると従兄、父方をたどると自分が小叔父という立場となる……伊達政宗。
 かの人以外を「殿」と呼ぶのに、二年の月日が過ぎ去った今でも、成実は躊躇いがあった。
(藤次郎……天下の伊達政宗)
 この相模の海の如く広く、強く、移り変わりが激しく、厳しい人。
 伊達家で生きてきたすべてを捨てたというに、成実の心に去来するのは捨てたはずの「伊達家」のことばかりといえる。
 それも当然だ。生まれて歩き始めたころから、伊達の世継ぎの遊び相手として米沢に召しだされ、政宗と兄弟同然に育ち、ともに月日を共有してきた成実である。
 むしろ伊達家を離れたこの二年の違和感。もどかしさ。そればかりが成実の胸に去来しては、それを思うことは捨ててきた自分には許されぬとして封じ込めてしまう。
(戻りたいのか、俺は)
 いや、と間髪いれずに成実は胸の中で言い切った。
(政宗殿にあんな目をさせるくらいならば、あんな目をさせる俺という存在はいない方がいい)
 成実が背を向けたとき、その背を政宗がどのような目をして見ているのか。成実はよく心得ている。この海の冬の冷たさ同様の氷の目で背中を睨み据えているのだ。……それは、成実にとって最たる胸の痛み。あの寛大な覇者の瞳を翳らす自分という存在を、成実は自分自身でも許せなかった。
「奥羽の春……」
 つぶやいた声音はすぐに消え入る。
 現在、天下は確実に動いている。太閤豊臣秀吉の死去、その世継ぎたる秀頼を護り豊臣政権の存続をはかる石田三成などの五奉行を始めとする連中と、我こそが天下人という野望を隠さずにあらわにし始めた徳川家康。
 両者に組する大名などが入り混じり、わが国で史上これほどの大戦はなかったのではないか、と思わせる戦に突入しようとしている。
 今はまだ戦の前の、嵐の前の静けさと言うべきか。
「伊達は……政宗殿は」
「時宗丸」
 大海に眼を移していた成実の耳に、風が思いも寄らぬ声音を届けた。それは幻聴か。ただの風の悪戯なのか。この二年、これほどまでに怯えたことはないというほど成実はガタガタと震え、振り返るのを恐れた。
「時宗丸。そのように海を眺めて何を考えている?」
 もはや幻聴ではない。恐る恐る振り返った先には、よく見知った顔がふたつ。
「………」
(小十郎……政宗殿)
 そう名を呼ぶ声が、成実には出せなかった。
 二年ぶりに再会した元主君で従兄の伊達政宗と、伊達家一の知恵袋、冷静沈着で成実にとっては兄的存在たる片倉小十郎景綱は、涼やかな表情で背後に佇んでいた。


「風の強弱を感じ、風景を楽しめる場所か。時宗丸も風情に心を置くようになってか」
 現状では、決してありえないことだった。
 豊臣対徳川の大戦を前にして、伊達家を率いる立場にある二人が、なぜにのうのうと相模などに姿を現すのだ。
 成実はこれは白昼夢ではないかと思い、政宗の声を聞くたびにビクリとした。
「よいところではないか」
 政宗は成実の仮の住処を物色し、満足げに笑んだ。
(政宗殿……)
 二年ぶりに顔を合わせた従兄は、どこか頬がこけ全体的にやつれた印象を受ける。眼光の鋭さ、油断のなさはまったくその色合いを翳らせていないというのに、受ける印象が若干荒んで見えた。
(何があったというのだ)
 武者というほど体格が良いというほどではないが、奥羽の伊達の当主として生気満ち溢れ、その目には油断なく人の心の奥底まで見通す隙のなさを宿していた。
 だが武者としての強さと相対するように、不思議と受ける印象には、どこか気品さえ漂わす……そんな成実の自慢の従兄が、暗闇の影と荒みに身を包まれているとはどういうことか。この二年という月日に何があったか、今すぐにも問いただしたいという心を、成実は必死で抑えた。
「ワシも時が過ぎ去ったならば、このような趣がある場所でゆったりと過ごしたいものだ」
 と、政宗が庭に降り立ち、ひとり風景を楽しみ始めたころ。政宗の一歩後ろに控えていた片倉小十郎が、ようやく重い口を開いた。
「殿をあれほどまでに苦しめれば、おまえも本望だろう」
 小十郎は顔色ひとつ変えぬ無表情のまま、冷めた目で成実を見据えてくる。
「おまえが伏見を出奔して以来、今日まで殿がどれほど心配したと思う。私と留守政景殿に探索を命じながら、おまえの身をいつも気にかけていた」
 十二歳年上の小十郎は、いつも成実の面倒を見てくれた。政宗の遊び相手だったときから、無鉄砲なことばかりをした成実だったが、小十郎の言葉だけには不思議と耳を傾け、良く言いつけを守ったものだ。
 長い付き合いのため知っている。小十郎は冷静沈着で、たいていは無表情で感情を顔にのせない。されど、自分や政宗の前では柔らかな表情を表に出す。それが、今、成実に、無表情で冷めた目を向ける。これは怒りを胸に抱いているときの小十郎の顔だ。
「殿は決して言わぬゆえ私が言葉にする。……おまえの身を気遣うあまり殿はやつれた。今、朗らかに笑うが、今までは鬱になりかけるほど沈むことが多かった。殿には理由が分からない。おまえは決して口にしてはいかなかったゆえ、思い当たろうとも私が口にすることはしない。藤五、もう殿を許して差し上げよ」
「小十郎。それは違う。俺が許すとかじゃない。……俺が俺という存在が殿を苦しめ……」
「目に見えぬところにいれば、なお殿は傷つく」
「……小十郎」
 小十郎の口調も、その表情もなにひとつ変わりはしない。
「徳川より仕官の話があったと思うが、私の手で妨害させてもらった。おまえを徳川に仕えさせる訳には行かない。ゆえに奉公構をだした。伊達の対面のためにも、殿の心の平常のためにも、だ。いや、徳川だけではない。他のどのような武将も。……藤五よ、おまえは一角の武将だ。ゆえに問う。殿以外の武将にその身を捧げたいと思えるのか」
 成実は自嘲をもらした。
 そう、政宗以外に仕えることをこの心が許せるならば、こうしてこの月日を相模の海を見て過ごしていることはなかったろう。それでも戻れない。戻りたくとも戻ってはならないのだ。
(政宗殿……)
 気づいていないと思っているのか。
 それとも貴殿はまったく意識せずにしているというのか。
 庭の風情を目にしている政宗を成実は見据える。涼やかな表情で政宗に目をむける小十郎とは正反対な顔を成実はしていた。
 三人して幼い日から、どれだけ夜を徹して話しただろうか。
 どれだけの楽しい日を繰り返してきただろうか。
 だが、すべては変わってしまった。あの日を境にして……。
 成実は目を閉じて、忘れることなど決してできないあの日のことを頭に描いた。


+++

 慶長五年の現在からさかのぼること十五年前の天正十三年。
 政宗十八歳。成実はひとつ下の十七歳。
 伊達家一門の成実は、いずれは政宗の傍らにて伊達家の副大将となる人物とみなされていた。
 親しいものは成実とは呼ばず通称の藤五郎で呼ぶ。
『藤五』
 その中でも父を抜かせば二人だけ、そう呼ぶものがいた。
『暇そうだな。戦でもない限り暴れたりないか』
『藤次郎。そんなに俺は暴れ馬じゃないぞ』
 一人は通称藤次郎……伊達政宗であり、もう一人は政宗の傅役で兄的な存在たる片倉小十郎だった。
 まだ少年といっても過言ではない成実は、伊達家の中でも一門ということもあり好き勝手をほぼ許されていた。父は家督を継いだ政宗にとっては大伯父、母は政宗にとっては叔母。そんな政宗とは血の近い境遇の生まれで、当主と一歳しか年が離れていない。伊達の一門は成実にはことさらにあまく、よく言えば可愛がられていた。
 だが、あの日。一門であるこの血を、あの場に立ち会うことになった運命を成実は呪わずにはいられない。
「藤五郎、藤五郎なにをしておる。わしをこのまま敵地に行かせるつもりか」
 隠居した伊達輝宗(政宗の父)のもとに、政宗への領地安堵の口利きの礼に参上した畠山義継という武将がいた。
 もとより伊達とは縁続き。政宗に臣従の礼も尽くしていた。されど先の戦では大内に唆され、芦名側に付き伊達と一戦交えた。だが大内は逃げ、芦名も退散したとなれば、伊達勢に降伏するしかない。
 本領安堵を嘆願する畠山に対して、政宗は領土の半分ほどの割譲を申し付けた。そのため畠山は隠居したとはいえ、政宗に絶大なる効力を要するといわれ、仏の輝宗と呼ばれる隠居に本領安堵を嘆願し、輝宗の口利きで畠山の南地の本領はもとのまま保証されるにいたった。
 危ういところだった、畠山は。あと少し輝宗より口利きが遅ければ政宗は二本松を攻め取る戦の準備を始めただろう。
 その礼に畠山は輝宗を訪ねた。
 当主政宗はあいにくこの席にはいない。そのことが、この後の伊達家の運命を決定づけたといっても間違いはなかろう。
『政宗に受けた恥辱。この畠山義継決して忘れはせぬ』
 畠山は懐より短刀を取り出し、電光石火の早さでそれを輝宗の喉元に突きつけたのだ。
『政宗があれば、こうして政宗を質に取り拉致せんと思ったが致し方なし。隠居の輝宗でよかろう。我が畠山の領地二本松まで同行していだたく』
 もとより畠山がはじめに頭を垂れて仲介を願ったのは成実の父実元だった。
 そのためこの席に実元と成実親子が畠山と旧知ということで同席していたのだが、実元は酒に酔い席を立っている。
 宴席に残ったのは成実と数名の輝宗の小姓だけだった。
「藤五郎」
 輝宗を人質に取られたとならば、成実は動くことができない。急の報せを聞いたモノたちも、鉄砲や刀を片手に畠山に連れ去られていく輝宗を、背後より見つめているしかない。
「なにをしている藤五郎。わしをこのまま二本松に連れ去られては伊達はどうなる。この義継がどのような難題を突きつけるか知れぬぞ」
 縄目の屈辱を受けている輝宗が叫ぶ。
 輝宗は隠居をするほどの年ではない。まだ三十代半ばの男盛り。文武に通じ、人の情を何よりも大切にすると言われた武将だった。家中の面々は皆、輝宗を慕っている。
 その輝宗が昨年十七歳の政宗に家督を譲ったのは、家中で政宗の家督相続を不服とする面々がおり、弟の竺丸を世継ぎとすべきという声が意外と多かったからだ。それも家中の名門のものばかりが竺丸擁立の連判に名を連ねていたのだ。
 家中に伊達家の次代は政宗でしかない、ということを思い知らせるため、輝宗は自らが退き、当主として立つことで政宗にも「君主」たることを勉強させようとした。
 今もって家中では、戦好きと政宗を揶揄し、再び輝宗を当主に戻すべきという意見もあった。
 そんな最中に重大事が起きてしまったと言わねばならない。
「藤五郎よ。鉄砲でわしを撃て。はよう撃たないか」
「大殿」
「このままわしを二本松に行かせては成らぬ。伊達のため政宗のためぞ、藤五郎」
 政宗に良く似た輝宗の目が、まるで成実を貫くのではないかと思わせるほど鋭く睨みつけてくる。
 撃て、とその目は言っていた。
 ……わしの命は尽きた。今此処で撃て、と。
 このまま二本松に連れ込まれては、畠山義継は輝宗を人質にどんな和議の条件を突きつけてくるか分からない。
「黙れ! さすがの鬼畜の政宗でも父の命を見殺しにはできまい」
 義継の勝ち誇ったその声が耳につく。
 成実は鉄砲を片手に、今までにない決断の場に立っていた。
 そこが運命の分かれ目だったのかもしれない。
(伊達家のため……藤次郎のため)
 正論が頭をかすめる。だが父親をこよなく敬愛している政宗だ。ここで父の命を失ったとすれば、その心にどれだけの傷をつけるか。成実も、甥の自分をこよなく可愛がってくれた輝宗に鉄砲を向けたくはない。
「どうした藤五郎。その豪胆の名が泣くぞ」
 輝宗の叱咤する声は厳しさと同時に、優しさがあった。
 ここで輝宗を拉致されることも罪。鉄砲を撃ったならば、おそらく畠山義継は思い余って輝宗の命を奪うだろう。
(大殿の命を消失させるのも、それも罪)
 ならば今、あえて自分が罪を覆う形にした方がいい。政宗の憎悪をいついつまでも自分が受ける形にした方が、あの時には脆い心を傷つけなくてすむのではないか。
 この川を渡らせたら、そこは二本松の領地。狡賢い義継だ。川の向こうには兵を待機している。輝宗を追って伊達勢が踏み込めば、その場で鉄砲に狙い撃ちされるのが火を見るより明らかだ。
 もはや川際まで輝宗は連れ込まれた。浅い川瀬に義継の足が入る音がした。
(ここまでか)
 政宗は父輝宗の重大事に、ついに間に合わなかった。
(大殿にこの川を渡らせてはならない)
「……撃て」
 それは搾り出すような声だった。
「撃て。畠山義継を……撃て」
 成実は叫んだ。その悲痛な声と同時に、鉄砲が乱射される音が響き渡る。
 畠山義継にも輝宗にもあたりはしなかったが、覚悟したのか義継は刀を抜きその刀を輝宗に向け振り下ろした。
 成実が駆けつけるより先に、輝宗は刃により絶命していた。
 畠山義継も伊達勢によって惨殺されている。
「大殿……」
 輝宗の縄目を解き、成実は沈痛な顔で輝宗の遺体を抱きしめる。
「お許しください、大殿。大殿……」
 せめてもの救いだったのは輝宗の死に顔が安らかだった。それだけだ。
 そのまま誰一人として動けない中、報せを受けて駆けつけた政宗の顔は蒼白だった。
「父上……」
 成実の腕にある輝宗を抱きしめ、政宗は茫然自失となった。
「父上、藤次郎をお許しください。……すべてはこの政宗の油断、父上ぇ~」
 涙は流さない。歯を食いしばって耐える政宗の目が一瞬だけ、成実を見た。
「…………」
 言葉はなく、ただ視線の一瞬の交錯。
 それだけで成実は政宗の思いを感じ取ってしまった。
(藤次郎……)
 おそらく、政宗はこう瞳に込めたのだ。
(藤五。おまえがついていてなぜに……)
 その思いが矢となって成実を貫いていた。


「成実は当然のことをしたまで。非はすべて当主たる政宗にあり、我の油断にあり」
 評定で一門に自らの不手際を詫び、父輝宗の死を報告した政宗は、一貫して成実をかばった。
 母義姫に詰られようと、当主として不向きといわれようと何一つ政宗は成実を責めようとはしない。
(どうしてだ……)
 まだ責められた方が成実には楽だった。罪有りと責め詰られた方がどれだけ心は楽だったろう。
 二者択一の場面で、成実が取るべき挙動は、どちらを取ったとしても後々に叱責を受けるものと覚悟していたといえる。
 それを、むしろ成実を庇い、行為を賞賛する政宗の態度。
(分かっているのか、藤次郎)
 おまえのその態度が、明らかに俺を責めているのだ。
 なによりもの辛苦を与え、生き地獄を見せている。
 知らぬと思っているのか。
 自分が背を向けたとき、今まで温和だった政宗の目が、スッと細められ、それこそ冷酷な目が成実の背中を捕らえて離さない。
(許しはしない)
 安穏とした思いを与えはしない。心を楽にはしない。
 そんな言葉がその目に込められているような気がして、成実は政宗に背を向けるたびに罪の業火で焼かれるのではないかと身を強張らせる。
 それが十数年続いた。
 伊達家の重臣、副大将と呼ばれ、天下にその名を轟かせようと成実の後姿を見る政宗の目は変わらない。
 表面的には兄弟同然の仲を何一つ変えずに、成実にも温和に柔らかく接する政宗を……時が経つにつれ成実は耐えられなくなってきた。
(俺という存在が、藤次郎にそんな目をさせるのか)
 人としての脆さ……負の感情を表面に立たせ冷酷でしかない目をさせるというならば。
 妻子の相次ぐ死もあり、十数年の表面的には目につかない……内部の深い確執が成実の心を支配した。
(もう終わりにしたい……もう全てがどうでもよい)
 自分が消えれば、政宗の心の内は穏やかになるのだろうか。
 ならば、と。伊達家を捨てようと決めた。この世のすべてから今までのすべてから去ろうと決めた。
 始めは高野山に入った。そこで自らの領土角田城を政宗により召し上げられ、抵抗する家臣たちが城を枕に討ち死にしたという報告も聞いた。
(俺という存在はおまえにとって何なのだろうな、藤次郎)
 角田のことを聞き、二度と戻れはしないという思いが深くなった。されど武士たることを捨てられないと悟り、この後の自分の未来というのが見えず、高野山を下りて相模で過ごすことにした。
 二度と自分と政宗の仲は昔の兄弟同然には戻りはしない。
 そのことを自覚しては、いつも胸が鋭く痛む。
『時宗丸は、ずっと梵天の側にいて支えるから……』
 あのときの幼い日々の自分には二度と戻りはしないのだ。


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藤二輪 1

藤二輪1

  • 【初出】 2005年ごろ
  • 【改定版】 2007年2月27日 【修正版】 2012年12月1日(土)
  • 【備考】