― 木戸と大久保 ―
年が明けて三日ほど過ぎた。
ようやくあいさつ客の訪問も少なくなったころに、ここ九段の木戸孝允邸を訪ねる男がいる。
内務卿大久保利通だ。
応対に出た書生より大久保の来訪を聞かされた木戸は、今までのご機嫌の顔が一点曇天となり、今にも雨か槍でも振りかねん顔をしてスッと立ち上がる。
その顔には、書生たちも驚き、つい茫然となってしまった。
「あけましておめでとうございます」
本日は紋付き袴姿の大久保は、まさに威厳整った風格に見える。
木戸は半ば棒読みで新年のあいさつを返したが、
「新年早々、貴公の見目麗しきお姿を拝見でき、嬉しく思います」
大久保が無表情の顔のままでシレっと口にした言葉に、木戸は思わず片手を握り締めた。
「取って食いたいと思うほどです」
続きの言葉に木戸の眉間がピキッと動く。
「願わくばこの後に逢引き宿にもお連れしたいと……」
「大久保さん」
ついに耐えられなくなった木戸は、
「二者択一を願いましょう。今ここで私に打ちのめされますか。それとも今すぐお引き取りくださるか」
そこで大久保は腕を組み、いささか考えて後に、
「私は貴公の美しき顔を眺めたいと思うのですが」
「誰か」
木戸は母屋に向かって叫んだ。
「研ぎに出していた清光が戻ったはず。それを持ってきておくれ」
今すぐこの頭の線が一本も二本も切れている男を成敗してくれる。
と、木戸は思ったのだが、目の前の大久保という男。自分に都合のよい解釈をしたようだ。
「この真昼間からとぎとは……貴公もその気と思われる」
「はあぁ?」
「だが言い方にはお気をつけください。とぎは寝所で相手を慰めること。私は慰めではなく、貴公の麗しい姿を見て後……」
「大久保さん、何をおっしゃっているのですか」
「貴公との寝物語のことを」
瞬間、木戸の頭に血が上った。
恐る恐る書生のひとりが差し出す愛刀備前長船清光を手にし、それを躊躇いもなく鞘から抜く。
「大久保さん」
そしてにっこりと笑うのだ。
「今日こそ貴殿を成敗してくれる」
危険予知の能力はそれなりに身に備える大久保は、すぐさま反転して逃げを打つ。
「お待ちなさい。麗しい私の姿を見たいのではないのですか」
「……なぜか体が走るので、それに私も従っているのみです」
「屁理屈はけっこう」
「私の木戸さん」
「お黙りなさい」
大久保の勘違いから始まった「愛の告白」のおかげで、木戸は日日「たくましさ」と「健康」を取り戻しつつある。
あの憂鬱を目に滲ませ、儚いまでに美しかった木戸は……この頃はとても強くなった……ようだ?
― 聞多と俊輔 ―
「もんちゃぁん」
除夜の鐘が鳴り終わった頃、兜町の井上馨邸を訪ねる客あり。
なんとも無遠慮の客だ。深夜遅くに、門をバンバンと叩くとは近所迷惑もはなはだしい。
雑煮に何をいれるか考えていた井上は、少しばかりうとうとしていただけに、その夥しい声にハッと目覚めた。
「伊藤さんですね」
とは、妻の武子の言葉である。
「正月早々、梅ちゃんに追い出されたってところか」
ため息をつきしし、門を開けてやると、
「うわあぁぁん、もんちゃん」
鼻水を垂らして抱きついてくる相棒……伊藤博文の姿があった。
「正月早々、浮気がばれたのかよ」
「ぼ……僕だって正月は穏便に自宅で過ごそうと思ったんだよ。そうしたら梅子が……この頃良い人ができたようで、そちらで正月をお過ごしなさいませって僕をポイッて……」
「おい~~」
「どんなに謝っても家に入れてくれないんだ。こんなに寒くて、凍え死にそうだよ。だからもんちゃん……悪いんだけど……」
「……しゃあねぇな」
井上は人がとても良い。相棒が困っていると思うと、正月早々とは言え追い出すことができない男だ。
「しかもこんなに冷えてよ。待ってろ。起きたらつくるつもりじゃったが、すぐに雑煮をつくってやるぞ」
「えっ……」
一瞬、伊藤の鼻水もピタっと止まった。
「……雑煮……」
「とびっきりの雑煮じゃ。魚は何を入れようか今考えていたんじゃが思いついた。やはりめでたい正月じゃ。鯛に決まりじゃ」
雑煮に鯛……。一瞬だけ想像して伊藤はぶるりと震えた。
「も……聞多。僕、寒くないよ」
井上の料理はある筋ではとても有名である。常人の舌には受け付けない「ゲテモノ」料理としてだ。
過去何度も「井上料理」の犠牲となっている伊藤は、正月早々から三途の川は見たくはない。
「それに……迷惑をかけて、雑煮までごちそうになる訳にはいかないよ。僕は部屋の隅で寝かしてくれたら……」
「なぁに遠慮しているんじゃ。気にするなよ。いっぱい御馳走を造ってやるからな。いやいや腕が鳴るぞ」
鳴らさなくてもいい~~とは言えない伊藤は、心底よりこの井上邸を訪ねたことを後悔した。
こんなことになるなら妻梅子に土下座をして謝れば良かったと本気で想う。例え明日の新聞に「伊藤参議、浮気発覚で土下座」という記事が掲載されようとも、井上料理を食す羽目になることに比較すれば一時の恥で済む。
いや体面を気にして妾のもとに行かなかった自分を思いっきり責めても、後の祭り。
「ほら、そんなところに立っていないで早く中に入れよ。おい、俊輔」
伊藤博文、正月早々、三途の川を見そうな予感が……する。
― 大鳥と本多 ―
除夜の鐘が聞こえる。もう何時もせずに年が明けるだろう。
洋行帰りの大鳥圭介は、その両腕に餅をたんと抱えて、道を急ぐ。目指すは大鳥の「最愛の人」である本多幸七郎のもとだ。
大鳥の妻のみちが本多にと「おせち」をつくった。子どもたちと本日ついた餅もたんと入っている。
大鳥はにこにこと笑いながら早足で道を急ぐのだが、除夜の鐘も五十を数えたころに、はた、と気付く。
「あれ?」
振り返り、その知識の泉と言われる頭を総動員して考え始めるのだ。
昨年、本多は引っ越しをした。職場である陸軍戸山学校の近くにである。その新居にはもう何度も大鳥はお邪魔しているのだが、夜に訪ねるのははじめてだった。
「あと……確かここを左……じゃなかったっけ。右……」
その頭には五カ国語が入り、簡単にそらんじる大鳥圭介。現在、工部省出仕。
だがその常人には考えられぬ頭脳にも「道」に関しては不得手のようだ。
一丁ほど進み、また戻る。ちょいと右に曲がってみると、犬にほえられ「うわぁん」と逃げて、十字路に迷い込み、その時点で「ここはどこ?」状態となっていた。
「本多ぁ」
大の大人がちょいと涙ぐむ。
「正月は本多と一緒に迎えて、一緒に餅を食べて、ゴロゴロしたいと思っていたのに」
まさか迷子になるとは夢にも思っていなかった大鳥である。
「いや……絶対に本多と一緒に過ごすんだ」
そのためにも現在の「困難」をどうにか是正しないとならない。
冷静になって考えてみれば必ず分かるはずだ。まずは通りに出よう。
トボトボ歩こうとも一向に大きな通りは見えてこない。大鳥はうぅぅ……と泣きべそをかく。
するとどこかしらネコが寄っくる。しかも黒猫だ。なんと縁起が悪いことか。
しかもそのネコ、にゃが、と鳴き、大鳥の前を通り過ぎていく。
「うううぅぅぅぅぅぅ」
大鳥は今、声をあげて泣きたかった。
こんなところで迷子になっている自分が情けなかった。
だが、自分も列記としたオトナ。人目をはばからねばならない。オトナは迷子になったからとはいえ、泣いてはいけないのだ。
(で、でも……迷子になったら泣いちゃいけないって法律はどこの国にもないし)
もう目からは涙がぽろぽろと流れている。ただ「うわぁん」と声をあげていないだけではないか。
こうなったらやけくそだ。
「うわあぁぁぁん……本多ぁぁぁぁぁぁぁ」
その声は夜陰に響き渡った。
周囲は月明かりのみの暗闇。人の気配とてない。わびしさと心細さで、大鳥はさらに叫ぶ。
「ほんだあぁぁぁぁぁ」
すると前方より慌ただしく走る音が聞こえてくる。
大鳥はピタっと止まった。目をごしごしと拭くと、
「大鳥さん?」
聞き馴染んだ柔らかな声音が聞こえた。
「本多ぁぁ」
駆け寄った本多はホッとした顔で大鳥を見て、
「遅いので探しに来ました。何事もなくてよかった」
「何事もなくじゃないよ。道に迷うし、犬にほえられるし、黒猫は前を横切るし……」
「大鳥さん」
「迷子なんてカッコ悪いけど、でもいいや。本多に見つけてもらえたし」
「……迷子? ですか。大鳥さん。ここは私の家の裏手の道ですが」
「えぇぇぇ?」
目を凝らしてみれば、本多の家の庭に植えられている桜の木が見える。
思わず力が抜けてへなへなと大鳥はその場に沈んだ。
「……大鳥さん」
「なんかどっと疲れちゃったよ」
すると本多は気遣わしげな顔をしたが、除夜の鐘に耳を澄まして、
「大鳥さん、あけましておめでとうございます」
といった。
きょとんとしてしまう大鳥に、
「今の鐘が百八つ目です。年が明けましたよ」
「……年明け……百八つ目なんだ。全然、煩悩ははれないや」
「はい?」
「でも……いいや。おめでとう、本多。今年もずっと一緒にいようね」
今年も来年も十年二十年先も、ずっと一緒に……今度は除夜の鐘に耳を澄まして正月を迎えられますように。
「よし、決めた。今年こそは方向音痴をなおす」
エヘンと胸を張る大鳥を見て、本多は穏やかに笑む。
― 桂と高杉 ―
「桂さん、凧揚げじゃ」
高杉晋作がニタリと笑う。
すると、先ほどまで高杉のツケでの飲み代の清算に駆けずり回っていた桂小五郎は、わずかに目を凄ませて、
「今日は晋作の顔は見たくはない」
と、言ってみた。
「俺様魔王」の高杉も、少しだけだが顔が曇る。
「なんじゃ。怒っちょるのか。じゃが……その飲み代は自分だけじゃない。聞多も俊輔も……みんなで飲んだものじゃ」
「知っているよ」
「なのに自分だけ叱られるのは……理不尽じゃ」
「じゃあ晋作。おまえたちの飲み代の支払いの工面をする私は理不尽じゃないのかい」
「それは……」
ちょいと下を向いた高杉だが、こういう時はあっさりと開き直る。
「目下のものがやったことは、目上のものが仕方ないといって工面する。これ長州のしきたりっていうんじゃ」
そこで桂は、畳を扇で叩いた。
「では私は今日から晋作の目上のものはやめる」
「か……桂さん」
「おまえの幼なじみもやめる。もう晋作など知らないよ」
「それは嫌じゃ」
「私は知らない」
「そんな子どものようなことをいわんといて。怒っちょるんか」
「……知らない」
「桂さん」
本気で困った高杉は、桂の横に正座で座り、上目遣いで桂の横顔を見るのだが、当の桂は視線を合わせようともしない。
「……自分……」
高杉としては珍しく小さな声でこう言った。
「桂さんに嫌われたら生きていけんよ」
桂の肩がビクリと動く。
「だから嫌わんといて。それに……正月は桂さんと二人で過ごしたいんじゃ。いろいろなことをして、笑っていたい。だから……勘弁しちょって」
俺様魔王も年上の幼なじみにはめっぽう弱い。
それを承知している桂はクスクスと笑って「晋作」と幼なじみの名を呼んだ。
「もう年が明ける。そうだね。正月七日までは休戦しようか」
「……桂さん」
「七日開けたら、聞多や俊輔に秀たちを並べて説教をするよ。だから……正月は……休戦」
「凧揚げをしちょる?」
「いいよ」
「桂さんが大好きじゃ」
「……知っている」
桂はクスクスと笑って幼なじみの体に両腕を回し、ギュっと抱きしめる。
「年が明けるよ、晋作」
「そうじゃ年明けだ」
「また……おまえに振り回される一年が始まる」
「そんことは言わんといて」
「でも……振り回されなくなったらそれはそれで寂しいから」
「じゃあ自分は今年も桂さんをいっぱい振り回しちゃる」
「こら」
コツンと高杉の頭を叩いた桂は、にこりと笑って、
「あけましておめでとう、晋作」
と言った。
「……おめでとうございます、桂さん。今年もよろしくじゃ」
「飲み代のツケはほどほどにするように」
「それは休戦のはずじゃ」
「………そうだね」
「起きたら凧揚げじゃ。いっとう高く揚げてみせちゃるきに」
「……風邪を引かないようにね」
「桂さんはそればかりじゃ」
幼いころから正月のはじめは凧揚げであったこの二人は、今もって正月一日に凧を揚げる。
この二人にとってはそれは行事であり、運だめしであり、そして。
毎年「共に在る」という誓いの現れでもあった。
「桂さんのために、自分、とびっきり高く、高く、凧を揚げるんじゃ」
まだ正月に凧揚げをする余裕があったそんな年の……桂と高杉。
― 山県と木戸 ―
「あけましておめでとうございます」
正月のあいさつに木戸邸を訪ねた山県有朋は、開口一番にそう言った。
「おめでとう、狂介」
木戸は朗らかな顔でその言葉を受け、
「今年はどこに連れて行ってくれるのだい」
と、尋ねた。
正月二日。正月のあいさつ客に辟易してくる頃合いに訪ねてくる後輩に、毎年木戸は同様のことを尋ねる。
山県の返答は変わらない。
「今から後楽園に梅を見に行こうと思っている」
「……今年は寒かったからまだ梅は咲いていないと思うよ」
「蕾の風情も一興」
「……去年と同じ言葉だね」
「貴兄の言葉も同様だ」
木戸は山県の顔を見てクスクスと笑う。
「では今年もおまえと一緒に梅を見に行こうか」
「……肌寒い。貴兄には厚着をしていただく」
「今年も新年早々過保護な狂介」
「……私も好きで過保護でいるわけではない」
「そうだね。私がおまえに世話を焼かせているのは承知している」
「ならば……」
「けれど、狂介は、私の世話を焼いているくらいが適度だとこの頃は思うのだよ。そうでないといつもの無表情の面白みのない男になってしまうから」
「貴兄は……」
「だから今年もたんと私の世話をやいておくれ」
木戸はにこりと笑う。それはどこか梅の花のように可憐で質実な笑みで、山県はつい見惚れた。
「そして私はおまえたちを守れるくらいに……今年は強くなろう」
強く、などと木戸の口から飛びだしたのは何年振りだろう。そのことに山県はいささか驚いたが、その驚きを消え去らせるほどに、今の木戸は美しく笑う。
「ちゃんちゃんこでも着ていただこうか」
「……了解」
その日、木戸と山県が訪れた後楽園には、梅は咲いていなかった。
昨年同様に蕾の梅を見て、木戸は微笑む。そして言った。
「また来年も一緒に梅を見にここに来よう、狂介」
受ける山県は梅のつぼみを見つつ、軽く頷く。
昨年と変わらない。二人の後楽園での一時。
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