松菊探偵事務所 医者殿を探せ

前篇

 その日、飯田町の松菊探偵事務所には珍客が現れた。
「我は客ぞ。茶の一杯も出せぬのか」
 同じ飯田町に診療所を持つ林東吾の義甥吉法師が腕を組んで、事務所としている座敷にふんぞり返っている。
 見かけ十五の年頃にしか見えぬが、その身が放つ重すぎる気も……そして茶褐色の瞳が樹齢何百年の大木と変わらぬ威風堂々として年輪を覚える。そんな時を感じる重き光を放ち続け、それが妙に似合うのが不思議だ。
 一見端麗にて、誰もがその強き気に惹かれ、顔の作りとは不均衡な尊大すぎる物腰に圧倒され、息を飲む。
「どのような用件だよ。こんなちっぽけな何でも屋に頼らなくともアンタなら何でも見通しだろうが」
 応対は副所長の吉富が大店の手伝いの副業に出ているため、なんの因果か居合わせた井上馨が当たっている。
「茶は出ぬか」
「この俺様は茶など入れたことはないんでね」
「情けないではないか、井上馨。この我とて一度や二度は茶くらいいれたことがある」
「えばるな」
 井上はこの吉法師も、その義叔父である魑魅魍魎の親玉たる東吾も、とてつもなく苦手だ。
 出来うるならばこの二人とは関りたくないと切実に思っているのだが、どうしてかことあるごとに「摩訶不思議」なことばかりが起き関わり合いになることしばしば。
「我とてこのような場所に頼るつもりはない。ただ……」
 吉法師の切れ長の瞳はキッと井上を見据えた。
 分かるものにはわかる。この瞳に見据えられるたびに、体内にある血が凍るほどに怯える。
(力ありすぎるもの……)
 井上は昔、あの動乱の長州で闇討ちにあったことがあった。
 そのおりに本人いわく三途の川にかかる橋を二つ見たとのことで……九死に一生を得て意識をとり戻した時には、「不可思議なものが視える」ようになっていたとのことである。
 多少なりとも「非現実」を覗く立場として、この吉法師の気は……この魂が吹き飛ばされるほどに強く、恐ろしい。
 戦くのを抑えるのがやっとだ。
「我の力をもってしても、どうにもならぬことの一つや二つはある」
 悪いか、とまたしてもふんぞり返った吉法師に、井上は吐息を一つ落とした。
「その一つや二つはなんだ」
 吉法師の目にさらに力が込められ、井上は思わず目をそらして胸の鼓動を抑えた。
「みつからぬのだ」
 かほそく吐き出された声は、その目光からは考えられぬほどに弱く、
「アレがどこにもおらぬ」
 話は数刻前に遡ることにしよう。


 吉原専属の霊媒師吉法師は、足取り軽やかに帰路を辿っていた。
 その日は住み込みの吉原の見世「常永屋」より、飯田町の診療所に戻る日だった。
 七日に一度の里帰りを吉法師は心の中では小躍りをするほどに楽しみにしている。一日中、東吾に引っ付いて甘えられるのはこの時しかない。
 といっても毎日毎日。巡回に訪れる東吾に時間が許す限り膝枕をさせたり、背中からベッタリと引っ付いたり。甘えの甘えを繰り返しているが、これだけではとてもとても吉法師は納得できない。むしろ大いに不満で、事あるごとに「通いにしたい」と東吾に訴えてもいた。
 勢いのまま乱雑に引き戸を開ける。いつものことだが鍵はかかってはいなかった。
 途端、包みこむ「喪失感」にゾクリと体が奮えた。
 人がない匂いは分かる。ましてや吉法師にとって一番になじみで、一番に知り抜いた気の喪失は否応なく体に刃となって貫く。
(………ミチ)
 足取り乱雑に診療所に入り、無自覚に寝所に足を踏み込んだ。
 匂いがない。気もない……。人の気配がどこにもない。
 数日間、この診療所には誰一人として動くものはなかった。それがありありと分かる。
 倒れそうになる体を壁に手をついて支えた。息をつくのも苦しい。覚えがある空気だ。……否応なく嫌な思いばかりが駆け巡る。
「ミチ……ミチ!」
 おまえがいなくなった場所には居たくはない。
 飛び出すように診療所を出、昼の活気を薄ら寒い目で吉法師は見据えた。
 飛び交う声も、人の熱気も、初夏の初々しい香もすべて、今の吉法師には邪魔だった。
「………」
 ただあてもなく歩くしかない。
「ミチ……ミチ。どこにいる……」
 花売りの少女が声をかけてくる。その横を通り過ぎ、みくじ売りに肩がぶつかったとき、
 ようやくにして吉法師は少しだけ我に返った。
 ……気を追うしかない。
 一町あたりの距離ならば、吉法師は東吾の気を探せる。全神経を集中させ、気を冴えに冴え渡らせればそれ以上も可能だ。
「そうだ……そうだ」
 落ち着けばいろいろと名案が頭に浮かぶもののようだ。
 この我を、狼狽し物事が判断できぬ状況に追い込むのは今も昔もただ一人。その存在なしでは生きられぬと知ったときから、この身はいつもいつもあの冷たい気に包まれることだけを望んでいた。
 足は近くの稲荷に向いた。江戸に多きものの一に数えられるのは「稲荷」で、見渡せばどこかかしこにあるものだ。
 鳥居を潜り抜ける。清涼な空気が包み、身に緊張が走った。
「我は大稲荷の力を有すもの。我は大稲荷の意を得るもの」
 この地をたばねる神の御使いよ。この我の前に姿を見せよ。
 淡々として抑揚がない浪々とした声音が響いた。
 一瞬にして、焼きつくような光が目前に現れる。吉法師は口元にニヤリとしたものを付け加えた。
「稲荷よ。我の命に従え」
 大稲荷の力を有する吉法師は、その力をもっと神の御使いたる稲荷に命じることができる立場にある。
 この地に奉られている稲荷が十数匹ほど現れた。
 中には尻尾が二つに分かれるものもいる。稲荷は尻尾の分かれようによって力の強弱が悟れる。
 懐より取り出した拭いを、その稲荷たちの前に放り投げた。
「その匂いの主を探してまいれ」
 一匹の稲荷が不満げに顔をあげたが、それを剣を含んだ目で睨み吸えておいた。
 空気に溶け込むようにして稲荷が消える。放り投げた拭いを握り締め、吉法師は唇を噛んだ。
(これで何度目だ)
 かつても大稲荷の力を駆使し、江戸中の稲荷から全国の稲荷へ伝言網を広げ、探したことがあった。
 あの時は吉法師の意識は半狂乱だった。
 闇雲にただ一握の手がかりを求めて、全国の稲荷に司令をかけた。駆け回った神の御使いはどれだけの数だったか知れない。
 この国で数百年も生きている八尾の銀狐が見つけてくれた時は、ただ存在を確かめるだけに駆けたものだ。
 あの時とは確かに違う状況にはある。消えるときは何かと「置手紙」を置いていく東吾が、今回はその手紙がどこにもない。
 吉法師は気を集中させ、東吾の気を探す。
 神の御使いたる狐からも、またその狐と連携している「野狐」からも、一刻がたとうともよい知らせは訪れなかった。
「おまえは……どこにいる」
 最悪なときではないことは知れていた。あの男に何かあればこの身は確実に知ることができるこの感だけは疑わない。
 吉法師は駆けた。江戸中の稲荷を渡り歩き、その清涼の中で身を潔斎させ気を集中させようとも捉えることが出来ない東吾。
「狐も役に立たぬものだ」
 ではそこらへんに散らばっている霊魂たちに情報を、と思ったが、日日浄霊を生業にしている吉法師だ。
 一目、目が合うだけで、恐れをなして霊魂たちはあっという間に消え去る。
「浄霊は今日だけはせんぞ」
 そんな言葉を信じる霊魂もおらず。
 吉法師はため息をつき、ガクリと肩を落とそうとしたときに、目の前に黒塗りの馬車が通った。
 なにかが頭の中でピーンとなったのが分かる。
「そうだ」
 こうなったら役に立たぬかも知れぬが、溺れるものは藁でも掴む、である。
 吉法師はもと来た道を猛然と走り出した。
 向かうは飯田町の「松菊探偵事務所」
 そこには霊と話ができる男や、東吾が主治医を勤める摩訶不思議な政治家もいる。ネコを自在に操る男もいるのだ。
 なにもせずに猛然と走っているよりも、役立たぬかもしれないが依頼をした方がいい。
(あの木戸孝允の側になら、ひょいと現れるかも知れぬ)
 そうして吉法師は松菊探偵事務所を訪れたのだが、客というにはあまりにも不遜尊大な態度で……応対にあたる井上馨は辟易した。


▼ 探偵外伝2 医者殿を探せ 中篇へ

松菊探偵事務所 医者殿を探せ-1

探偵外伝2 医者殿を探せ1

  • 【初出】 2007年12月27日
  • 【修正版】 2012年12月17日(月)
  • 【備考】