11章
涙によりかすれた視界にも、確かにとらえる聖鏡の中にあるその人。
「時雨」
その声は記憶するものと何一つ変わらぬ。いつも淡々とし、さしたる感情をその声に刻みはしない。
姿そのままに毅然と、そして波の立たぬ湖面の如し静謐な声。
上宮の巫女である祖母斎子は、時雨の知る無の感情のままの顔面で、ただジッと時雨の顔を見据えている。意識せずとも滲むその威厳に、いつもながら時雨は圧倒された。
「お婆……斎子さま……」
半ば夢現で呼んだ名に、鏡の中の人はその唇を緩めた。
「何を呆けた顔をしておる。時雨」
「……何ゆえに。斎子さま。……これは」
狼狽が色濃く表に出、今の時雨の頭の中は真っ白である。
この現実を現実とは受け止められず、されど全て否定するにはこの目が耳が捉える祖母は、紛れもなく現実味を帯びている。
「その手にあるは聖鏡であろう。……時雨の力の片鱗が鏡に落ち、時空がコチラと繋がっただけぞ」
意図も簡単に平然と言ってのける祖母。
思えばこの祖母の驚愕の表情など見たことはなく、いつも淡々と「始めより何もかも承知」という顔をしていた。
それを不思議に思ったことはない。祖母という存在そのものが超越しており、不思議を思わせぬ神聖な存在といえた。
「……斎子さま」
時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 11-1
「そうじゃ」
耳にピンと響くその言霊は、時雨の意識を我に戻させた。
「そなたが時空を渡り、この昭和の御世は一年が過ぎた。あの大戦は夏に終わり、今は異国の兵隊が乗り込んできておる。我が上宮村に異人は踏み込んではおらぬが、この国の体制の何かが変わろうとしていることは確かといえよう」
夏の訪れに舞い降りたこの飛鳥の地は、未だ初秋の風が吹くばかり。
暦にして三月ほどしか過ぎ去ってはいない。
あの空より爆弾が舞い降りる時勢は終わったのか。戦争という哀しき響きは、あの国より消え去ったのだろうか。
「皆さま、お変わりはありませぬか」
すると斎子はわずかに声をあげて笑った。
「この上宮は何一つ変わらぬ。いつの世でもそれは同様のこと」
「……よろしゅうございました」
「だが変わったというならば、藤子かのう。長年心の病にかかっていたアレの気鬱が消えたのか。今ではよう笑いおる」
ビクリと肩を揺らした時雨の反応を、斎子は見逃しはしない。
「そなたが恵し子であったことが、藤子の心の傷を全て癒したのであろう。宗家の嫁として、今では積極的に祭事に働きおる」
「……そうですか」
自分という「逆縁の子」の存在が、母藤子を狂わせたことは周知の事実。
時雨の母というだけで、藤子はいわれのなき中傷を受け、日日精神をやつれさせていったのも事実。
何ゆえに自分は生まれたのか。何ゆえに生みの母を苦しめる存在として、この目に光を宿したのか。
時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 11-2
現世に思いをほとんど抱かずに生かされてきた時雨にとって、母たる存在は心の痛烈なる棘ともいえた。
「時雨、この斎子に尋ねたきことがあろう」
時雨はジッと祖母の黒き瞳を見つめる。
「百も千もあろうが、今宵はそちらは三日月。月の力も、そなたの力も未だ未熟。こうして時空が繋がるのが精々。いつ途切れるか知れぬ」
時雨よ、時空を強引に繋いでいるのじゃ。そちの体とて気を吸い取られていっていよう。
祖母と話が出来ているという高揚により気付くのが遅れたが、
いつしか呼吸がわずかに乱れている。そればかりではない。体が徐々に重くなり、だるさが全身を包み込む。
「わらわも力を注いでいるが、未熟なそなたと比較しても格段に弱い。……またいつそなたと話せるか分からぬゆえ、尋ねたきことは尋ねる。よいか」
「……はい」
「聖王君のもとに無事にたどり着けたか」
「はい」
「そうか。ならば良い。上宮のものとして、聖王君を一とし、何事も聖王君の望むがまま、決して逆らわぬように」
「斎子さま」
「よろしいか、時雨。望むがままぞ。そなたは上宮の人間。決して……聖王君に望まれぬことをしてはならぬ」
「それは承知しております。されど……私が時空の恵し子というならば、家刀自をお助けするのが役目。この御世において、家刀自の力は二分されております」
時雨は恵し子として如何様に生きれば良いか。何をすべきか。
時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 11-3
それが未だに掴めず、悩み、苦しんでいる思いが言の葉となり、斎子に告げた。
「わらわの口からは、聖王君の御意のままにとしか申せぬが。時雨よ、そなたは選択を迫られよう」
「………」
「幸玉宮の逆登皇女を選ぶか、池辺の聖王君を選ぶか。それにより、時代は史はめまぐるしく移り変わる」
血が舞い上がるかのように動き出す。
血が騒ぎ、血が警告し、そして血が告げる。
……恵し子は、時が来たならば、どちらかを選ばねばならぬ宿命。
視界がクラリと歪み、祖母の顔が揺れ動く。時雨は自らの気力でどうにか現を繋ごうと、歯を食いしばる。
「……斎子さまは……始めより何もかも承知でございますか」
それが今いちばんに問いたいものかもしれない。
あの日、この飛鳥の時にわたるその時において、祖母のみ平然とした顔で時雨を見た。
……時雨、聖王をお頼みします。
自分を当初より「恵し子」と承知していたとしか思えぬ祖母の一言。
ならば何ゆえに「逆縁の子」として幽閉したのか。自分だけならば良い。何事も甘んじて受けよう。されど、あの母に……藤子にいわれのない痛みを十八年の月日において味わわせたことが……時雨には苦しい。
「承知」
躊躇いを何一つ刻まずに斎子は告げた。
「生れ落ちた時より時雨は恵し子たることは承知。
時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 11-4
いずれ聖王君のもとに旅立つことも、飛鳥の地にて重大なる役目を覆うのも承知。だが時雨。恵し子として一身に幸を受けねばならぬそなたを、あえて幽閉して育てた意味を、そのうち知ることになろう」
「斎子さま」
「人目を憚って育てねばならぬほどに、そなたは特異な存在たる。このわらわは未だにそなたを隔離して育てたこと、何一つ間違えたとは思わぬ」
それは確たる自信より沸き立つ芯の通った一声。
「じゃが藤子には辛かったろう。だが仕方のない。アレの血はアレが繋がってきた血は、恵し子を排出するもの。恵し子を産み落とすものは、本来ならば体を犠牲とする」
「………!」
「何を驚いている。そなたが当初より恵し子とされていたならば、藤子は恵し子を産み落とした聖なるものとして、その場で命を断たねばならぬ」
今までそのような話を聞いたことも読んだこともない。
「そのようなこと……私は古文書でも見たことはありません」
「道理じゃ。古の昔、聖なるものの誕生は、その聖を覆うたびに母の血の穢れにより俗物とされた。でなければ、聖物は魔に見入られ、魔に取り付かれる。だが子の誕生とともにその母の命を断つのは哀れと先祖は考えたのだろう。恵し子に血の穢れではなく、言葉の穢れを負わせることにより身を守ることにした」
「私は……逆縁の子……と」
「作用じゃ。そなたの場合は聖が濃かったゆえに幽閉場には強力な結界を張った。人につく魔より守るがために人との逢瀬も禁じた。分かるか、時雨。
時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 11-5
そなたは藤子に何一つ負い目を持つことはない。藤子はそなたの誕生とともに命がなかったのじゃ。それが今は笑っておる」
「では母の妹とされている遥という女性も同様に」
「アレは恵し子であると同時に、生まれながらにして哀しみを宿した娘。ましてや力は非常に弱かった。手白香皇后のもとに旅立って後、一切の消息は知れぬが……」
「斎子さま。いつの世も恵し子と生まれたものは、私と同様の宿世であったのですか」
「そうじゃ。業を背負い聖を隠した。時空をわたるまで、恵し子は幸福を知らぬ。それで良い。渡った先で大切に扱われよう。大切に崇められ……」
「二度とそちらに戻りたいとは思わぬようですか」
そこで斎子はフッと静かに笑いを漏らした。
「少しは聡くなったのう、時雨よ」
時雨も飛鳥の地に舞い降り、この池辺の宮の人々に大切にされ、特に厩戸に触れ合うたびにあの昭和の御世に戻りたいという思いは……ほとんどない。
あの御世は遠く、何よりも自分の居場所など始めからないものだった。ただ息を吸ういかされている人形に等しい。
だが、ふと思うのだ。
今、降りし雨音は、あの昭和の御世と同じ音。
時に口ずさむ歌は、あの故郷の一室で何気なく歌ったひとつの歌。あの上宮の景色が、時折「懐かしく」時に「帰りたい」という思いを強烈に胸に刻む。
「遥という人は帰りたいと泣いていたとのことです」
「ほう、遥が。こちらの世では何一つ幸福などなかろう娘がのう」
時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 11-6
「それが故郷というものではございませんか、お婆さま」
時雨の気力が限界を報せている。
目の前の聖鏡に映る祖母の姿がぼやけ、原形を留めなくなって来た。
「戻りたいとは思わぬことだ、時雨よ。そなたの息吹はその地でこそある。……よいか、聖王君の御意がままに生きよ。決して他に目を移すでない。これがわらわがいえる精一杯じゃ、時雨」
「……承知しております」
「じゃがそなたは何一つ承知しておらぬ。その日が来るまでこの言葉の真意など分からぬままじゃろう。……そろそろ時刻のようじゃ。次の満月の夜にこの聖鏡に自らの水滴を落とせ。それで時空は繋がる。もう少し話が出来ようぞ」
その言葉を残し、斎子の姿は消え、聖鏡には自らの顔を映すばかりとなった。
目の前が真っ白になり、意識が途切れていく最中、うつろになる意識の中で、祖母の姿を描いた。
やはり聞けなかった。
もう一つ聞かねばならなかった……言葉がある。
……お婆さま……もし私が聖王君を……。
意識が途切れる最中「時雨」と呼ぶ声が聞こえた。
厩戸が時雨の部屋を訪れたとき、部屋の中央で鏡を抱いたまま時雨は倒れていた。
「時雨」
慌てて駆け寄り、その手を取る。
鼓動が聞こえる。きちんと波打つ命の灯火。
時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 11-7
ホッとした厩戸は、時雨が抱いている鏡を見た。
それは時雨が現れたとき、唯一手にしていたもの。時雨が居た「場所」と今を繋ぐ唯一のもの。
透き通るほどに美しきその鏡は、神事で使用される聖なる鏡よりもさらに美しい。透き通るほどに的確に、厩戸の顔を映す。
「……鏡……」
厩戸の力をもってすれば、それが力持つ「鏡」とすぐに察せられる。
悪しき気配はない。それは計り知れないほどに強く、だが清らかで……常に時雨を守るように気で包み込んでいる。
だが厩戸はこの鏡によき感情は一切持ってはいなかった。
唯一の「故郷」とのつながりたるこの鏡。
時雨が一人この鏡を見つめるときの感情の揺れ。
いつか帰りたいと思うのではないか。もとの「場所」に戻りたいと願うのではないか。
怖い、と思ってしまった。
この手から時雨を奪うものは、どんなものであろうと……許さない。
(時雨はこの皇子だけのものぞ)
厩戸は手を伸ばした。その鏡に何をしようとしたわけではない。ただ触れたくて、触れたならば何か時雨についてわかるのではないかと思い。
鏡をそっと手にしても時雨は目を覚ますことなく、そのまま健やかな呼吸が滞ることはない。
鏡面に自らの顔を映す。透き通るほどにまがうことなく自らの顔を映すこの鏡が、一瞬憎くてならないものに見えた。
一瞬の激情か。それとも喪失の恐怖か。
時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 11-8
その鏡面を叩きつけようと拳を握り締めたとき、
「なっ……何事」
この身を焼き尽くすほどのまばゆい光が、鏡より放出され、厩戸は耐えられずに目をつぶるしかなかった。
ただの鏡ではないことは分かっていたが、これは何か。
鏡がこの自らの悪しき思いに気付き、防御策を打ち出してきたということか。
このままでは目を焼き尽くされる。
たまらずに鏡より手を離し、自らの手を目にあてると、ゆっくりと光の強度が引いていく。
目を開けられる光の弱りを待ち、厩戸はその烏色の瞳をゆっくりと開く。
鏡面は弱い光が包み、厩戸がもう一度鏡を覗き込み、一瞬だが息を飲む。
(この鏡は……)
そこには厩戸の姿は映し出されておらず、映るは時雨によく似た面差しなれど、研ぎ澄まされ洗練された気に包まれた青年が一人。
「何者か」
思わず声を張り上げ、ハッと傍らを見る。
今の声で時雨が目覚めては、と厩戸は気になったのだ。
青年は少しばかり冷たく笑い答えたのは、
『御身様の孫にございます、上宮王』
その瞳は黒曜石の如し黒き瞳。真っ直ぐ前を向き、されどその瞳の中に映る感情はどこまでも無のままで。
青年よりは何一つ偽りは見出せず、厩戸の力をして、また血が「近い」ものと認めていた。
時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 11-9
「子すら持たぬ皇子に、突然に孫とは」
『察せられるはず。血が……そう認めている』
確かに。されどその姿は……時雨がもう十年も経てば得る姿に思えて、胸がドキリと高鳴るのだ。
『この鏡を無碍にされませぬように。聖鏡は時空を繋ぐ鏡。いずれ御身さまのためにもなる』
「このような鏡がか」
『はい』
「面白いことを言う。そなた……この皇子と同様の力を得ているか」
青年の黒曜石の瞳の純度が、力の強度を示す。
『……生まれつき微々たる力しか持ち合わせていなかったものを……つい先年、先祖がえりしたようです』
「そうか。先祖がえりか……」
『上宮王。そこにおられる時雨殿を大切にされよ。選択の日まで』
「……選択というたか」
『家刀自を選びしその時まで。……私が生まれなくなるのは困るゆえ』
その青年よりは「力」が見える。
それは六歳の厩戸を遥かに凌ぐ……未知なる力だ。
先祖帰りとはよくぞ言った。
その力の輝き、その力の暗闇。時として厩戸も感じている。
「この国の神々……天津神と国津神の力を宿したか、そなた」
青年は頷きもせず、首を左右に振ることなく、ただ静かに厩戸を見つめてくる。
厩戸はわずかに笑った。
時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 11-10
手白香皇后以来確たる「家刀自」は出現してはいない。
血は散らばり脈々と両派の系統に統一され、今、厩戸と逆登に半分ずつ受け継がれている。
もしもこの力の片鱗が集結したならば、おそらく今のこの青年同等の力となるのではないか。
「家刀自だな、そなたが」
「……そのようです」
「大王家を守るか」
青年は表情に何一つ感情を乗せず、「上宮王」と小さく呼んだ。
『あまり子どもらしくありませんと、そのうち時雨殿に愛想をつかされるかもしれん』
「なんと」
『幼子は幼子らしくしているといい。あまりに大人ぶろうと何一つ恵みはない』
思わず鏡を叩きつけようとしたときに、その青年は光に包まれパッと消えた。
鏡には厩戸の姿を一分もたがえず映している。
厩戸はその鏡を袋に入れ、鏡台に戻した。
そして寝転がり、時雨の胸元に顔を埋める。
「大切にするに決まっている」
この厩戸の力をもってしても、未来を映し出せぬ時渡り人よ。
透き通るほどに綺麗なこの厩戸の……聖人。
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