月夜に

前篇

「土方副長、副長」
 その日、自室でゆっくりと一人趣味の俳句に勤しもうかと思っていた新選組副長土方歳三の密かな計画は見事に邪魔が入った。
「大変なんだ、副長」
「どうした山崎君。桂小五郎の潜伏先でも見つかったのか」
 新選組監察山崎烝は沈着冷静な男だ。重大事発生の時にも、顔色ひとつ変えず、まして息など乱すことは一切なく、淡々と必要最低限の言葉で用件のみ伝える。
 そんな男が、だ。バタバタと足音を響かせ、血相を変えて飛び込んでこられたものだから、さすがの鬼副長も何事!!!と顔色をわずかに変えたのだが。
「副長、副長。沖田さんが……」
 と山崎はよほど動転しているらしく、しどろもどろ語り始めるのを聞きながら、副長は「なんだ」と安堵ととも落胆とも知れぬ気分を味わった。
「総司が何かしたのか」
 新選組一番隊組長沖田総司。隊内の中でも吉村、斉藤と並び一、二の剣術の使い手といわれる男だが、その剣とは裏腹……見かけは二十歳を幾ばくか過ぎただろうに少女めいた可愛さがある……美少年という言葉が実に的を射た男だ。 といっても、沖田が「泣き虫宗次郎」と呼ばれていた子ども時代より、何かと面倒を見てきた副長にしてみれば、その顔は見慣れたものであり、もう少し剣士らしく威厳がついて欲しいものだ、と適わぬ要求を抱くだけで、他の隊士のように沖田を「可愛い」などとは思いもしない。
まして、沖田のことなど知り抜いているからか、何がおきても驚くことなどほとんどなくなってしまっている副長だ。
 そう、例え千人斬りを達成しようとも、人ならぬものにとりつかれても、だ。
「とにかく副長。こっちに来てくださいよ。百聞は一見にしかず、だ」
 と、山崎に引きずられるまま、一番隊組長の部屋の前に赴けば、そこには何十もの隊士が何だ何だ、と興味本位で部屋を我も我もと覗いている。
「土方副長」
 平隊士の一人がそう叫び声をあげると、数十もの隊士がピシャリと背筋を伸ばし、副長にいっせいに頭を下げるのだった。これぞ鬼副長の威厳。
 副長は、普段どおりの怜悧な無表情のまま山崎に招かれるまま部屋に入ってみると、部屋内には各隊の組長がほぼ集まっており、入ってきた副長に縋るような目を向けてくる。
「そ……総司?」
 かの祇園祭の日。新選組の重大事となった池田屋斬りこみ以来体調を壊し、よく咳き込むのを見受けられる沖田は、局長近藤勇の命令で療養中の身の上だ。
 部屋内で留まることなど一番にキライな元気小僧も、さすがに親代わりの局長の命令となればおとなしく自室で療養をしている、と安堵していた副長だったが、自室療養の暇さが世にも恐ろしい結果をもたらしたことを、今、せつせつと感じてしまった。
「土方さ~ん」
 と、沖田はいつもの明るくさわやかな笑顔ではなく、これぞ何かにとりつかれたのではないか、と思わせる陰気な顔をして、クックックッと不気味な笑い声をあげたのだ。
「見てください土方さん。もう少しで出来上がりますよ」
 沖田総司。知る人が知る物づくりの天才である。一見、剣術しか取り得のない少年に見えるのだが、子どものころよりお江戸の試衛館にて内弟子として、貧乏道場の掃除、炊事、または衣服の繕いまでこなしてきたという経歴から、沖田は女性よりも家事一切に卓越しているのだった。
 それというのも沖田が家事を覚えなければ、あの男だらけの道場は世にも恐ろしい阿鼻叫喚の場となっていたのだろうが……。
 などと差し出された人形を見つつ、過去の現象を思い出していた副長だったが、ちくちくと裁縫に励んでいるだけでこの騒ぎはなんだ、と頭をかしげた。
「新八さん。総司の裁縫など見慣れたものだろう」
 二番隊隊長で、江戸試衛館以来の仲間永倉新八に話を降ると、昨今芸者と所帯を持つのでは、と噂される男は、
「……土方さん。それ、それ」
 と、沖田がまたしても針でちくちくと作り始めている人形を指差すのだった。
 なんだ、とチラリとしか見ていなかった人形を凝視すると、その人型は切れ長の目で髪は志士風にひとつで結ばれ、高く結ってある。可愛いといえば可愛いが、なんとも憎らしげな雰囲気が際立つ人形は見事なでき。だが、つい副長は拳を握り締めた。
「総司、その人形は……」
「呪い人形ですよ」
 沖田はケッケッケッと喉を鳴らす。
「このあたりがそっくりでしょう、土方さん。ちゃんと髪の毛も一本中に入れてありますからね。……あぁ別に、丑三つ時に嗤人形の代わりにして大木に打ち付けるつもりではないのでご心配なく」
「俺の人形だと」
「そうですよ。呪いの、ね。毎日、この人形を抱いて寝てあげますから。このごろ僕をまったく構ってくれない土方さんの代わりに、この人形を身代わりにして、あぁんなことやこぉんなことをしてしまうんだから。歳さん呪い人形ですよ」
 あぁんなことや、こぉんなこととは何だろう。
 己の人形……しかも呪いのを作っている沖田の姿が不気味なために、いつもの明るい沖田しか知らないものたちは動揺しているのだろう、と副長は検討をつけたが……。
 針を止め、人形の頭をよしよしと撫でたり、ギュッと抱きしめたりしているのを見て、さすがの副長も茫然自失となり、こんな光景は見たくはないとばかりに踵を返そうとしたのだが
「沖田君。呪いの人形と言うからには、人形の髪は副長の髪の毛がよいと思うのだが」
 沖田の同年齢。普段は寡黙を常とする三番隊隊長斉藤一が、ボソリと言った。
「一さん、それはいい話で」
 沖田の目がキラリと輝く。
「やはり呪いというものは、その人の髪の毛があったほうが念がこもっていていいと思うのだが。ちょうど副長もいる。そのサラサラとした黒髪を一房いただいてはどうだ」
(オイ……斉藤よ)
 何と余計な一言を言ってくれるのだ。
 副長は自らの日本人のものとしても黒く、真っ直ぐな黒髪を中々に気に入り、手入れすら欠かさないでいることを知ってか知らずかの意地悪ではないか、と副長は疑念を抱くが。そんな疑念に浸っている余裕などない。まるで狐にも憑かれたのかクックックッと不気味に笑いを浮かべたまま、スッと立ち上がり、どこからか鋏を取り出してニャッとした。
「土方さぁ~ん」
 鬼副長最大の危機。愛しの黒髪に迫ってくる狐憑き?の恐ろしい迫力に、一歩、二歩と後ずさりながら、その腕の中に抱えている「歳さん人形」を隊士には見せたくはないという本能から、近いうちに呪いの人形を燃やしてやろう、と心に誓い迫り来る沖田から颯爽と逃げたのだった。
「総司。その呪い人形は冗談にしてもやめておけ」
 永倉がげんなりとなって言った。
「土方さんのキャラピッタリだが、その人形をおまえが抱いて眠っているなど……土方さんには耐えられないというか。今のおまえなら丑三つ時に本気でやりそうだ」
「やりませんよ。いやだなぁ永倉さん。……今はね」
 またしてもクックックッと笑いながら、何と「歳さん呪い人形」二号の考案を始めている沖田だった。
 そう二号の髪の毛は必ずや実毛にしようなどと企んでいるのだが、沖田はいつもの「土方さん」にっこりキャラが消え去り、池田屋以来「呪い人形」にはまり、しかも不気味な笑いを毎夜響かせているのだった。
 沖田総司……狐に憑かれたか?
 新選組屯所では、狐憑きを祓うために神主を頼もうなどと思っていたりする隊士もいるようだ。


「やはり狐が狸に憑かれたか」
 屯所より沖田総司の猛烈な追いかけをからくもかわした副長は、山崎烝一人を連れたって往来を歩いていた。
「沖田さんは体調が芳しくないので、あれは病による気の病ではないかといって、しばらく見て見ぬ振りをしていたのだが」
 毎夜……それも丑三つ時にクックックッという嗤いを高々と響かせて呪い人形を作り出しては、さすがにおかしくなったのでは、と心配になりだしたのだが、その心配がいつのまにか恐怖に転換されたらしい。
「あの沖田さんが……あれですから」
「山崎君。神主かおがみやを捜してくれないか。あの不気味な笑いは尋常ではない」
「それ本気で言っているんですか。副長」
「私はいつも本気だ」
 と、何かどつぼにはまったらしく山崎烝は吹き出してしまい、必死に笑いをこらえている。
「山崎君」
「あの沖田さんは、そうですね。子どもが両親や兄に構ってといっているようなものではないかと」
「山崎君。総司は構ってほしいときは、そんな回りくどいことをせず私か局長に抱きついてくる。そういう男だ」
 サラリと副長は言ってのけて後……数秒。往来にピタリと立ち止まり、思わず顔を手で覆った。
 いまさらながら自分の発言が、取り返しもなく照れ……恥ずかしいというような。また何と己は沖田を甘やかしているのか、といまさらながら思い至った瞬間だったのだ。
 鬼と呼ばれる副長も、お大尽土方家の末っ子だからか、己より年下でいつも側に寄ってくる沖田が弟のように思えてならないのだった。
「……今より神主手配します。丑三つ時のあの笑いを止めた方がよいと思うので。天才剣士沖田総司におかしな噂が立っても困るでしょう」
「沖田総司が狐憑きだという噂を流せば、志士たちも避けて逃げるのではないか」
「副長。それも……本気なんですよね」
 ジロリと冷めた目で山崎を見据えつつ、何か己はおかしなことを言ったかと無表情の顔の下で思っている鬼副長だった。
 山崎は未だに笑い出したいのをこらえつつ、神主を手配しに行くといって消えた。
(あんなに笑う男だったか)
 沈着冷静の仏頂面しか見たことはない副長には以外だったが、それは山崎のほうも同様だったろう。沖田のことについて話す言葉は、山崎には冗談にしか聞こえないことばかりであったようだ。
 そのまま団子屋の前を通れば「総司は団子が好きだったな」やら、美しい人形が売っているのを見れば先ほどの「歳さん呪い人形」を思い出しげんなりとし、医者の前を通れば、やはり一度は医者に診察をしてもらったほうがいいな、と思ったりする土方歳三。通称恐れられる壬生狼の中でも鬼と呼ばれる男。
 こんな心底の優しさを知っているのは……果たしているのだろうか。
 そうして異国より伝わったという金平糖を、沖田への土産として鉄面皮の無表情でもとめていたときのことだ。
「土方さまではないですか」
 背後より声がかかった。ふと振り返る前に副長は思考する。
(この俺に都で、しかも往来で声をかけてくる女がいたか)
 芸者や遊女は街角で出会おうとも、よほどのことがない限りは声をかけてはこない。
 男ならば数えられないほど……と思って、ついげっそりとなった。いのまにか「たらしの土方」の名を返上する始末となっている。
 覚えはないが、とりあえずは、と振り返った目の前に立っていたのは、確かに副長にとっては見覚えがある女だった。だが、それはこの都での見覚えではない。数年前、お江戸の試衛館に居候をしているときにひょんなことから出会った女。
 確か名前は……お涼(すず)。
「あんた、桐蔭家の女中だった……」
「覚えていてくだされたのですか」
 二十歳を幾ばくか過ぎたころの娘は、そう頬を少しだけ染め、二コリとやわらかく笑んだのだった。
「それは覚えている。桐蔭の御曹司には世話になった。ついでにアンタは腹を空かせて館に出入りする俺に、よく飯を食わせてくれたからな。それも何一つ文句を言わずに」
「土方さまは何でも美味しいといって食べてくださるから、私も嬉しかったのです」
 旗本九千五百石。幕府の譜代の中でも名門中の名門で、いささかいわくはあるが、ぞくに中小の大名よりも裕福で優雅な生活を送っていると言われるほど羽振りがいい桐蔭家。 その家の病弱な御曹司と偶然に出会い、以来何かと馬が合うというか仲良くしていた。その館の女中だったのがお涼。きりっとした美女で、しかも心優しくよく気も回る。
 始めて会ったときから副長は、この女を気に入っていた。
「だが、なんでアンタが都などに」
「桐蔭のご家老の命じられて、とある料亭に使いに参りましたの。……土方さまは、なぜに都に」
 思えば、世事には疎い娘だった。まさか、数年前まで桐蔭家に出入りをしていた御曹司の剣術仲間が、都で新選組というぞくに人斬り集団と呼ばれる組をつくり、鬼と呼ばれる副長をしているとは思いもしないのだろう。
 わざわざ名乗り、恐れさせることもない、と副長としては珍しく女を気遣った。
「今は江戸よりも都のほうがいろいろと騒がしいからな」
「慎一郎さまが気にかけておられますよ」
 旗本の名門中の名門桐蔭家の御曹司だが、病弱で表に出ることのない慎一郎は都での話などまったく興味もなく耳に入ることもないだろう。だが、その家老の佐田は違う。この国の情報をすばやく手に入れ、桐蔭家がどう立ち振るまえばいいかを切れすぎる頭で推し量っている。あの男が、都を騒がせている「新選組」を知らないわけはないだろう。
「……それよりアンタは、しばらく都にいるのか」
 今、この女の前では、ただの土方歳三でいいと思ったのか、副長はあえて何も「新選組」の名を出しはしなかった。それが思わぬ出会いをうむのだが、そのことを副長はまったく予想だにしていなかったのである。
「えぇ。三条木屋町の……。しばらく都見物をしておいで、とご家老がおっしゃって、とある料亭にやっかいになっております。そう、土方さま。一緒に参りましょう。とても料理が美味な料亭なのですよ。土方さまのお口にもあうと思うのですが」
 と、お江戸にいたときのように、副長の手を引きお涼は歩き始めた。
 そこに市中見回りの十番隊とすれ違い、槍を担いだ組長原田左之介は、それこそ鳩が豆鉄砲を食らったようにビックリした顔となっている。
 鬼副長が、まだ垢抜けない少女といっても過言ではない女に手を引かれて歩いていることが信じられなくても無理はなかろう。
 副長もお涼に手を引かれるまま、原田に軽く手をあげるのみで言葉を交わすときもなかった。
「オイ、今の土方さんだったよな」
 と、原田は横にいる平隊士に尋ねると、
「そう見えましたが、幻かも」
「いや、土方さんだった。あの人が、女に手を引かれているなど世も末だな、こりゃあ」
 原田が屯所で仲間たちに、自分が見た光景をつぶさに語ったのは言うまでもない。


 三条木屋町の料亭にたどり着いた時には、西の空に陽が沈んでいた。
「ごめんなさい。いろいろとつき合わせてしまって……」
 その言葉が語るように、不意に都見物をしたいといいだしたお涼に、それこそ千年の歴史のある都案内をさせられ、副長はいささか疲れていた。
 泣く子も黙る新選組副長が、少女の都見物のお供をしている現状。これが誰かの目に留まっていたならば、先の原田の話とともに尾鰭がついて屯所を駆け巡っていただろう。
「清水が気に入ったようだな」
「えぇ。都のお水はさして美味しくはないのですけど、清水さんのお水はなかなかに」
 ここです、と案内された料亭を見て、今度は副長は一瞬目を細めた。
(ここは、志士の溜まり場といわれる……)
 古くから長州藩と付き合いがあり、多くの倒幕、尊王の志士が立ち寄っていると言われる料亭。
 新選組の監察が、重要視して見張っているはずだ。
「ここにお世話になっているんです。どうぞ土方さま」
「いや……都の高級料亭はいちげんの客は紹介が……」
「大丈夫です。ご家老や慎一郎さまの知人なのですから。ここはご家老が昔、都に勉学で来た際に馴染みとなったそうなんですよ」
 さぁさぁ、とまた引きずられて、どうもこの女と一緒だと調子が狂うと副長は心底で思ったりした。
 どうも昔に食事の世話になったという恩からか、お涼の言うがままになってしまっている。
「女将さん。私の昔の知り合いなんですけど、いい? 桐蔭の若様のお友達で」
 よほど「桐蔭」という名は効力があるのか、それともお涼の顔を立ててくれたからか、あっさりと副長は二階の座敷に通された。
(山崎君がなかなかに入り込めないといっていた料亭か、これが)
 簡単に通されたぞ、と副長は知らず知らず顔を厳しくしてしまった。
 お涼は、副長の好物をよく心得ている。そのため下に何かと注文しにいっている間、副長は本来の土方歳三に戻り、料亭の気配を読んでいた。耳をそばたて人の声も聞く。
(ここが倒幕浪士の談合の場となっているというが……)
 そんな場所に、なぜ幕府の名門の旗本がつながりがあるのだ。
 長く倒幕の急先鋒たる長州と付き合いのある料亭だ。長州びいきで有名でもある。そこに「桐蔭」が繋がっていることが副長にとっては一番の怪訝材料だったが。
「本当に美味しいんですよ、ここの料理は」
 酒とともに、それこそ次々と料理が運び込まれてくるばかりか、料理長に女将などなど挨拶に訪れる現状に副長は唖然となった。
 誰もが桐蔭家の知人として接し、けったいな丁寧すぎる扱いまでしてくれる。
 これでは探ってくださいといっているようだ、と新選組副長は心底でため息ながらに思ったりした。
 勧められるままに決して酔わぬ酒を飲み、お涼が語る懐かしいお江戸の話を聞きながら、いつしか月が頂点でほのかな光を放つ時刻となっている。
『ダメですよ土方さん。深夜の一人歩きをしては、狙われるだけです。必ず僕を連れて行ってくださいよ』
 などと沖田に言われていたことを思い出し、そういえば土産も買ったしそろそろ屯所に戻ろうかと思い立った。
 この女と江戸の話をしていたいが……。
「お帰りになりますの」
 お涼は少しだけ哀しげな顔をする。
 沖田が手を焼く弟ならば、このお涼は可愛い妹という感覚が副長にはあった。
「これから仲のいい芸者の姉さんに三味線引いてもらいますから、それだけ聞いていって。それとも待っている人がいますの?」
 少女の可憐な顔が、そのときだけ驚くほど女の顔となり副長を見ていた。
 このお涼を女として見たことはない。副長の女の好みとは違う。それに、お江戸の馴染みの少女ということから、ここまで付き合ったのだが、女となれば別だ。
(妹に振り回されているような感覚を楽しんでいたが……)
 だが、帰らないでと甘えてくる女を、なぜか副長は振り切ることができずにいた。
 それはお江戸にいたころの己への寂寥だったのか。今とはまったくかけ離れている己への哀惜だったのか。
「また会おう」
 女に次を期待させる言葉など決して口にはしない副長が、自然とその言葉を口にしていた。
「江戸の話を聞きたい」
 お涼は、一瞬の艶然とした「女」の顔から、幼い少女の顔に戻ってニッコリと笑った。
(佐田の家老が、なぜにお涼をこの料亭に使いに出したか気になるが)
 あの佐田次杳。決して女中の女に悟らせる用件を託すはずもなかろう。
 ゆっくりと立ち上がり、階段先に出たところだった。
「幾松姉さん」
 階段をあがってくる芸者の女を、お涼はそう呼んだ。
(幾松……。これが幾松か)
「こちら私によくしてくださる幾松姉さん。とても奇麗でしょう」
 名は何百回と聞いていたが顔を合わせるの初めてだった。幾松の方もそれは同じだろう。
(あの……桂小五郎の京女)
「幾松どす」
 と、優雅に会釈をしてくる女の背後を見れば、ひとりの見慣れた青年が立っているではないか。
 いつ以来だろうか。その姿を目にするは。いつ以来だろうか……こうして間近で顔をあわせるのは。
 そして一昔のように笑って肩をたたける間柄ではなく、
 今は会えば瞬時に刀を抜かねばならない我が身を、土方は心の中で舌打ちした。
 息を飲む。殺気が全身を駆け巡った。
「およしなさい。……ここには、すぐに私の仲間が数十人ほど来ます。見れば、あなたは一人。多勢に無勢でしょう」
 その青年は、温厚でよく整った顔に涼しげな表情を浮かべて、そういったのだ。
「お互い今は私的の場。それに私は、女性の前で刀を抜くつもりはありません」
「あんたさん……」
 幾松は馴染みの青年と、副長を交互に見つめた。
 長州藩留守居役にして長州一番手の大物志士と呼ばれる桂小五郎は、温厚な顔にわずかな冷えた微苦笑を乗せて、副長を見定めるような目を向けてきていた。
 下がザワザワと騒ぎ始めた。気配から数十人と客が入ってきたのが分かる。それも、鋭敏な気配をしているつわものばかりだ。
 副長は喧嘩をする時期も、そして引き際もよく心得ている男だった。スッと鞘より手を放し、桂を冷淡な目で見据える。
「ひとつ貸しにしておいてもらおう」
 いいですよ、と桂が笑んだ。
「私の貸しは高くつきます。それはあなたが一番によく知っているでしょうけどね」
 そのまま副長はもとの座敷に戻り、桂は幾松ともども奥の座敷に入っていった。
「土方さま」
 何がおきたのか判断のできないというお涼の顔。
「あの幾松姉さんのいい人と……。いいです。私は何も見ませんでした。今度お会いするときは、ここの料理は味わってもらいましたので、違うところにしましょう」
(聡い女だ)
 そして、こういう女を副長は好きだ、と思う。
「そうだな。また都の案内をしよう」
 お涼は別れ際まで、なにひとつ副長の素性を聞こうとはしなかった。最後まで初々しいが、どこか凛とした表情を匂わす表情で副長を見送ったのだった。
 空には美しいまでの月が雲隠れしている。


 奥の座敷では、幾松に酒の酌をさせつつ大勢の仲間の主義主張を耳にしていたが、ふと桂はその端麗な顔に笑みを刻んだ。
「どないしたんですか」
 珍しい、と幾松がそっと桂に尋ねる。
「いや、こんなところで鬼副長と会うとは。しかも斬り結ぶこともなく別れた。……面白い」
「やはり、あのお涼ちゃんのお連れが……あの」
 桂は首を横に振り、その名を口にしてはいけないよ、と冷たい瞳が告げていた。

月夜に 1-1

月夜に 前篇

  • 【初出】 2007年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月9日(日)
  • 【備考】倉庫に移す(12/9)