続編
「俊輔、俺さまはなぁ。昔から高杉晋作が気に食わないんだよ」
と、祇園にて芸者をあげながら井上(志道)聞多は酒の勢いでそんなことを口にした。
「えっ。そうなの。いつも一緒なのにおかしな感じ」
受ける伊藤俊輔は酒をちびちびと飲む。一挙に飲むと泣き上戸になり、誰彼かまわずに絡む癖があるからだ。
「よっ征夷大将軍。あの一言でアイツは一躍名が知れた。英国大使館焼き討ちも俺様も俊輔も協力したけどよ。やったのはアイツだ。
なんだかなぁ。昔から気に食わなかったが、このごろは特に気に食わないさ」
「昔って? 聞多は村塾の塾生でもなかったし、どういうところから高杉さんとそう気に食わないほどの接点ができたの? 僕たち生まれは周防だけど、高杉さんは萩でしょう」
「高杉が生意気な小僧の時から知っているさ。四歳ほどのアイツを知っている」
「うわぁぁぁ……そんなころからの知り合いだったの」
「あぁ。桂さん関係でな」
ぶっきらぼうに答えて、井上はグイッと酒を飲み干した。
「おかしな聞多。桂さんともそんな昔からの知り合いなのに、どうして聞多はいざというとき以外は桂さんに冷たいの?」
「なんだと。俺様が桂さんに冷たいと言うのか。冗談じゃない。ちゃんと大切に接しているじゃないかよ。長州の首魁に対してさ」
「そうなんだよね。友達というよりもそんな一線がある接し方なのに。いざとなると聞多はいちばんに桂さんを頼るし、桂さんが病を隠していたりすると聞多だけは見破って。なんか変な関係」
「俺は桂さんの友達なんかじゃないさ。当然、高杉のもな」
では何なのか、と伊藤の目がまじまじと見据えてくる。
(言えるわけないじゃないか)
幼少のころの桂の姿を、なにひとつ根拠もなく「女性」と勘違いしたこと。またあろうことかその姿に「初恋」をしてしまった自分のことを。
井上にとって桂小五郎という人は決して友人ではない。未だかつての少年のころの面差しが漂う姿がある以上、井上にとっては自らを情けなくさせる
「初恋の相手」でしかないのだ。
そのテレもある。思い出したくない思いもある。
だからこそ必要最低限にしか顔を見たくはないと思うのだ。
「まぁ俊輔は飲めよ」
と、手ずから酌をし、井上は思いっきりため息を漏らしてしまった。
高杉が気に食わないのもやはり桂関係だ。桂が六歳年の離れた高杉の子守をしいるころに知り合ったため、高杉は桂を奪われないように事あることに桂の傍による井上を目の敵にした。
幼いままに高杉と桂の奪い合いを演じてしまった過去がある。
高杉は今でも桂を独占し、その身から離さぬように誰も近寄らせないように目配りをしていたりするが、未だに「いちばん大切な人」と公然と桂のことを言える高杉は、ある意味井上には意味不明で同時に「たいしたものだ」と思えたりするのだ。
勝手に女と思い込み追いかけた自分とは高杉は違う。
(けどよ)
このごろ「ニヤリ」とした笑いを高杉は向けてくる。
あの昔の自分の「感情」を察しているというのか。だが高杉ならばそうと知れれば思いっきり「弱味」としてちくちく攻めて来るはずだ。
桂は昔から妙に人に慕われ、なつかれ、近寄ってくるものすべてを高杉が竹刀を持って追い払うを繰り返してきた。
今も同様で、桂は苦笑をしつつも高杉を決して邪険にすることはない。
「なぁ俊輔」
手早く酌をしていたため、伊藤はかなり酔いがまわってきたらしく、庭先のネコ相手に独り絡んでいるようだが。
「おまえ桂さんが好きか」
尋ねると、ネコが絡みに迷惑がって頬を引っかいたが、そのネコを腕に抱いて座敷に戻ってくる伊藤。
腕の中にいるネコはまさに迷惑至極といった顔で、井上に助けを求めているようだ。
「好きだよ。僕たち長州の人間で、あの人を知ったら真っ向から嫌う人なんていないんじゃないの」
「高杉を前にしても、俊輔は好きだと言い切れるんだな」
「えっ……それは……たぶん無理じゃないの。あぁぁぁ僕ねぇ。高杉さん怖い」
「情けない奴だな。高杉が絡むと……みぃんなそうなるんだけどよ」
「僕たち松門の中では、桂さんにだけは絡むな。手を出すな。高杉の前では親しくするな、が合言葉だよ。あのねあのね。確か栄太が風邪が祟って倒れたんだ。
医者の心得が在る桂さんが傍にいて抱きかかえたんだけど。それだけで高杉さん、ほんとうにいやぁな顔をして。桂さんの腕の中にある栄太を引き離したんだよ」
「大人気ない奴。昔からなぁんもかわっとらんな」
「でもそんな高杉さんをみぃんな分かっているから、さして気にもならないんだ」
「俺は気にしたさ」
「聞多……いつもはけっこう高杉さんと飲み歩いたり仲良くしているのに、そんなに屈折したものがあるの」
「俺はな、俊輔」
井上は伊藤の中にあるネコを引き取り、よしよしと頭を撫でて庭に放してやった。
「桂さんが嫌いということはない。おそらく一生、なんらかんら気にしていくだろうけどよ。高杉だけはごめんだ。高杉は一生、桂さんに近寄るものを許さなかったらさ。きっと、桂さん嫁ももらえないぞ」
「縁談まとまって結婚まで進んだのに、壊れた要因って……高杉さんなのかな」
「それしかないだろうが。あの穏やかでやさしく美男子の桂さんを嫌う女なんて滅多にいない。桂さんに女を近づけたら、高杉の逆鱗にあうぞ。
くわばらくわばら」
離しながら井上はゴロリと横になり、十数年も昔のことを懐古していた。
まだ井上が桂を正真正銘の「女」と信じていたころ、先ほどの伊藤の話ではないが一度だけ同じような現象がおきた。
あれは初めて久坂玄瑞、当時は秀三郎と幼名を名乗っていた久坂と会ったときだったろうか。
「久坂秀三郎でしゅ。高しゅぎと同じく桂しゃんにお世話になってます」
桂が十歳。高杉が四歳。久坂が三歳であるこの時期。
桂は高杉と久坂の父親に拝み倒されて、この二人の子守を毎日していた。
よく子守などできるものだ、と井上は感心した。二人の子供は桂に懐ききっており、そればかりか高杉は久坂が桂に触れると、
見るからにいやぁな顔をして邪魔をする。
久坂は露骨に反撃はしないが、桂に懐ききっており高杉をおもしろからず見ているのも知れた。
(また敵がひとり増えた)
などと井上もおもしろくない。
久坂は高杉のように「独占欲」を表に出す子供ではなかった。よく書物などを持ち込み、それも大人顔負けの書物を呂律がまわらない口調で読んでいく。高杉も負けずに、と思うのだろうが、その高度さについていけていない。
「秀三郎はきっと将来は藩でも指折りの知識人となるね」
書物を読んでいく久坂を「よい子よい子」と桂は頭をなでる。
するとニコッと久坂は笑い、嬉しそうに桂の腕に抱きつくのだ。
「ふれるな、久坂」
「桂しゃんはたかしゅぎの桂さんじゃない。だから秀がこうしてもいいんだもん」
「なんだと、この……」
およしなさい、と桂は二人の取っ組み合いの喧嘩を止め、同時にふたりの頭を撫ぜる。
「私を哀しめないでおくれね」
すると二人ともがシュンとなり、ただ桂に謝るのだ。
よくできた三角関係と言うのだろうか、井上は久坂が読破している書物を見て頭が痛くなってきた。
わずか三歳でこれだけの書物を読破する久坂が、井上は空恐ろしくなったが。
「井上さん」
と、桂は井上を呼んだ。
「この二人と仲良くしてくださいね」
桂はとてもやさしくニッコリと笑い、それを一心に向けてくれる。好きだな、と思い、瞬間、二人の子供の井上を見る目が僅かに鋭くなった。
今まで双方のみを「敵」と見てきたのだろうが、その目に不意にもう一人「敵」が現れたという目。
「カツラさんは、自分のものじゃ」
と、高杉は桂の左腕をギュッと掴み、その目は井上を鋭く睨みすえ、
「だから桂しゃんはたかしゅぎのものじゃない」
同様に久坂も桂の右腕に抱きつく。
(この幼子たちはこの時期からすでに……)
桂を狙っているのかと思った。まさにこの二人の方が年月的に桂の傍にあったときは長い。すでに出遅れているが、年齢的には二歳しか離れていない自分の方が断然有利だろう。
「仲良くさせていただくよ」
年上の余裕を見せてニヤッと井上が笑った。
「おまえ、気に食わない」
高杉は何度も同じ台詞を井上に叩きつけ、ピシッと人差し指を向けてくる。
「久坂も気に食わないけど、おまえも気に食わない」
「晋作……なにを言っているんだい」
「カツラさんは自分のものじゃ。誰にも渡さん。ずっとずっと自分だけのものじゃ。自分からカツラさんを奪う奴は絶対に許さない」
そして四歳の高杉晋作のここまでの独占欲はどうだろう。
言葉通りに「自分のものじゃ」と大人になっても言い続けたならば、なんと小姑がもれなく桂の結婚相手にはついてくる。
そんな高杉をよしよしと撫ぜ、そっと胸元に抱きしめる桂の様子は高杉を愛しく見ているのも知れる。
「晋作も大人になったら、きっと守らないとならない人を見出すのだよ。その人を守り、いとおしみ……」
「自分はカツラさんがいい」
「可愛いお嫁さんをもらうのだから」
「カツラさんを嫁さんにする。なんなら自分がお嫁になるんじゃ。ずっとずっと一緒にいるんじゃ」
(見上げたものだ、このガキ)
そこらの「大好き」とはまったくといって桁が違う。高杉は心から思いのたけすべてを込めて「好き」といっているのだ。
(上等だ、高杉晋作)
と、まさに敵として日一日と高杉を見ていく自分がある。
いつの日かこの高杉に向けるやさしい桂の目を、自分に向けさせたい。
高杉より奪いたいのだ。奪ってしまいたい。
「おや……秀三郎どうしたんだい」
桂の右腕に抱きついていた久坂が、いつのまにかグッタリとして体を預けているではないか。
「秀三郎」
久坂の額に触れて、桂の顔色が変わった。
「しっかりしなさい、秀。すぐにお家に連れて行くから」
「桂……さ……ん」
そう久坂を抱きかかえようとしたときだ。
「イヤじゃ」
高杉が桂からしがみついて離れようとはしない。
「カツラさんいやじゃ。いやじゃ。そげんことせんといと。イヤじゃ」
「晋作、いいかい。今は秀が……秀が熱が出ているんだよ」
「イヤじゃ」
一種の異様なまでの激しく強い執着心と独占欲。
「カツラさんは自分の。自分だけのもの」
「晋作!」
桂としては珍しいまでの強い口調で高杉を嗜めると、ビクリとなった高杉はわんわん泣き始めるのだ。
「桂さん、自分が」
女性の細い腕に、わずか三歳と言えども子供を抱かせるわけにはいかない。
「家に案内してください」
久坂を抱きかかえると、桂の言うとおりすごい熱だ。
慌てて桂が高杉の手を引いて、先を急ぎ始める。時折振り返り桂は心配げな顔で見てきては立ち止まり、それから久坂の手をギュッと握り締める。
「大丈夫だからね、秀」
この人はとてもやさしい人だろう。
だが同時に、その傍らを「我が物」顔をしている高杉には、決して譲れないものが在る。
(俺は適うのかな、このガキに)
思うに一生このような思いを抱えていくかのような、そんな気がした。
涙を流しても、決して桂を離さないこの執着はなんなのだろう。
空恐ろしく、薄ら寒く、すさまじく、同時に哀しいまでに激しい。
(子供が近所のお姉さんを好くにしては……異常だな)
井上は桂が欲しいと思うと同時に、高杉が「いけ好かない」と思った。
まさかこの先、この高杉とつるむことなど井上は一握たりとも考えてもいなかった。
ましてや、この熱を出した幼子久坂秀三郎と関ろうとは思わなかったのだ。
「久坂……ほんとうに熱があるのか」
多少は恋敵を気にはかけてはいるようだが、高杉はギュッと抱きついたまま桂から離れはしない。
おかしな間柄に自分も入ってしまった錯覚。
だがこの二人が桂を決して誰にも渡さないというのと同じく、井上も久坂の手をギュッと握り締めている桂に惹かれずにいられない。
(この人を妻に欲しい)
傍らにあるこの人が、すべての理想と思えて井上は姿を見れるだけでも嬉しく、胸がドキドキとなる。
(まっ俺様がこんなガキたちに負けるはずがないさ)
今に見ていろ。
この生意気な高杉晋作をポイッと追いやってやる。
前を歩きながら高杉の幼い横顔を睨みすえた。
すると、それに気付いてか井上を睨みつけてくる二つの強い眼光。
挑戦的であり、傲慢、不遜、そしてその自信が満ち溢れた表情は、この高杉晋作を物語る。
負けるものか。
負けてなるものか。
対峙するその日が来ようとも、自分はおまえになど負けはしない。
されど井上聞多と言えども、まさかその後は深く振り回され、付き合うはめになろうとは思ってはいなかったのだ。
この年の秋に井上が桂を「男」として認識するその日まで、井上の高杉に向ける敵対心は続くのだった。
「高杉は大人になってもなにも変わらない。相変わらず桂さん、桂さんだしな」
酒に飲まれて眠りに入った伊藤に自らの羽織をかけ、井上は天井を見つめたままで遠くを見ている。
独り言にように綴られる言の葉は、幼きときの繰言にも似たきれいで恥ずかしい思い出ばかり。
高杉のあの空恐ろしい執着は未だに続く。なにひとつ変わらずに「いちばん大切な人」と大切にし桂の傍によるものを許さない。
男女の恋路ではなく、あまいが「恋」とは違った甘さが高杉にはある。
男女でなくとも、恋でも愛とかでなくとも「運命の相手」はいるのか、と思うことにした。一生を共にする、共に歩く運命の相手は必ず存在する。
井上の「共に歩く相手」は、桂ではなかった。
だが桂小五郎という長州の首魁は、一生この目でみていかなければならない存在と思える。
「オイ俊輔。うわぁぁぁ俺様の羽織に涎を流すな」
さしずめ後の外務大臣井上馨が面倒を見ねばならないのは、この立ち回りはうまくてもなぜか仕事には失敗してへまをする初代首相になる男のようではある。
「でもな、高杉よ。おまえがいけ好かないことには変わりはないからな」
そしてもしも桂が女性だったならば。高杉と泥沼になろうと対峙したことを井上は疑わない。
それだけあの少年のころの桂は、きれいだったのだから。
「けどよおまえと張り合うよりは俺は俺の道をいくさ。どこまでいけるか知れないが、行くところまでいってみせる」
ちゃんと桂さんを大切にしろよ。
あまり独占しまくって桂さんの恋路を邪魔するでないぞ。
どれだけ女性が傍に寄ってこようとも、あの人の心は女性の柔らかさでは受け止めきれないから。
いつまでもおまえが傍らで守っていくといい。
おまえという「絶対的な」大切な人間が消えたならば、あの桂にはもはや逃げ場も安らぎもないだろう。
「桂さん……」
高杉を思い、桂を心配する。
井上は自他ともに認めない「心配性」という一面を有している男だった。
庭先で先ほど井上が救出したネコが、にゃあと鳴いている。
井上聞多が英国に渡る数ヶ月前のある一日の挿話……。
おさな心 続編
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