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― 天敵の大喧嘩 ― (長州閥)

 ある秋のこと。
 この廟堂の一室には、今日もまた人垣ができている。
「また、やっておられるぞ」
「あの二人は、本当に犬猿の仲なのか」
「むしろ……ここまでやれたら天晴れな仲の良さだ」
 などと口々に言い合っている人垣の前では、
「この僕に協力しないだって。おまえ、何様のつもりだ」
 と手当たり次第、書類棚から本を掴み投げつけているのは伊藤博文。
「協力するかどうかの選択は、私にあるはずだ」
「その言い方。この僕がこんなにも、頼んでいるのに」
「人に本を投げつけるのが、おまえの頼み方か」
「おまえが全然僕の話に耳を傾けないからだろうが」
 と、分厚い辞書を伊藤は投げつけ、
「………」
 労せずして頭をわずかに動かして避けるのは、山縣有朋。
「どうしてこうもこうもおまえも、おまえの子分たちも僕の邪魔をするかな」
「知らん」
「知らんだって。おまえの号令のもとであの連中は動いているじゃないか。忘れはしない……あの予算案を貴族院に通そうとした際は」
「あのときは私もおまえの泣きつきのもとに調整に勤めたではないか」
「本気で調整しようなどと思いもしなかったくせに」
「伊藤」
「あぁ憎らしい」
 本を床に叩きつけて、伊藤は靴を鳴らして山縣の目の前に進む。
「世界でいちばん大嫌いだな」
 山縣の灰色のネクタイをグイっと引っ張って、伊藤はジロリとにらみ付けた。
「おまえがいちばんに嫌いだ」
「そんなことは知っている」
 その伊藤をその場に突き飛ばし、山縣は見物の人垣に視線を投げた。
「……今はこの廟堂内全体が休憩時刻か」
 その低き声音に見物客はピクリとなり、おずおずと先頭のものが扉をバタリと閉めたが、
 そのまま耳を扉に寄せて、内部の話を聞いている。
 そう、これは廟堂の名物。誰もが知っている「仲が悪い天敵の仲のよい喧嘩」なのだ。
 伊藤は今度は山縣の机の上にある書類や、ペンなどを投げつけ始めた。
「伊藤、今日の機嫌の悪い理由はなんだ」
「ねぇ山縣」
 伊藤はにっこりとあえて笑い、ジッと山縣の暗闇の目を見る。
「誰かは知らないけどこう言ったんだって。この長州以来の同僚の僕よりも、西郷海軍大臣の方が親しみやすいとか」
 山縣は記憶を反芻し、そういえば誰かに伊藤のことを聞かれ、親しみやすさならば西郷従道の方が数段上だ、と素っ気無く答えた記憶がある。
「言ったが」
「そんな馬鹿なことをなんでいったのさ。何が親しみやすさ、だ。この十代からの付き合いの僕以上におまえと親しんでやった人間などいるものか」
 山縣は吐息をつき、部屋の現状に眉をひそめる。
「何かあれば私の所有物を投げつけるおまえを、どうして親しめるというか」
「友達もいないおまえを見捨てずに付き合ってきた僕だから、いいの」
「身勝手な発想だな」
「それで真実どうなの。僕と西郷従道ならば、どちらが大事」
「………」
「どっちさ」
 これも伊藤の一種の「負けず嫌い」からくる発想なのだろうか。
 妙に山縣が「長州閥」以外の人間にわずかな好意を抱くと、こうして「妬く」に似た感情が表に出る。
「そろそろ私に仕事をさせてくれないか」
「答えを聞いていない」
「伊藤」
 邪険にしはじめる山縣のネクタイを、また伊藤は掴んだ。
「おまえは僕のものなのだから」
「それはどういう取り決めから出た言葉だ」
「ずっと昔から僕のものさ。おまえは僕がいないと前に進めないし、後にも戻れない。今のおまえの光は僕だけだ」
「………」
「誰も居ない。おまえに感情を持たせるのは唯一の天敵な僕だけだから。おまえが人としての喜怒哀楽を出せるのは僕だけだから」
 山縣の暗闇の目は、冴え冴えとした冷たさをもって伊藤を見据え、
「おまえの言う言葉にも一理ある」
「そうだろうとも」
「唯一の天敵として、私もおまえの存在は認めているつもりだ」
 次の瞬間に伊藤はにこりと笑った。
「……おまえには僕しかいないんだよ」
「伊藤には私以外の人間が多数おろう」
「当たり前」
「それならば私など自分のものにしなくともよかろう」
「あのね」
「天敵の私までも自分のものにしないと気がすまないほど、おまえは強欲か」
 瞬間、伊藤はその手でつかめるものを握り締めた。
「わからずやだね、山縣」
 ニタリと笑い、珈琲カップを放り投げる。
「おい」
「唯一の批判者のおまえがそういうのか。そうやっていつも僕を拒否する」
「したつもりはないが」
「どんなに自分のものがいっぱいあろうとも、本当に大事なものなどほんの僅か。その中でおまえは僕の中に天敵という位置をやっているんだ」
「そうか」
「そのおまえがこの僕のものであることを、いかにもちっぽけみたいなことを言いやがって。許せない」
「伊藤」
「なにさ」
「此処に来た趣旨が随分と外れている」
「そんなのは別にいいさ。いつものことだし」
「……おまえ」
 そこで伊藤は手についた本を投げつけた。
「僕が構わなければ、おまえなんかどこか遠くの超越した世界にいってしまうさ。だからこうして構ってやっているんだよ」
「迷惑だ」
「嬉しいくせに」
「どこからそういう発想となる」
「とてつもなく嬉しいくせに」
 山縣はそこで椅子を蹴り飛ばし、伊藤を見据えた。
 さぁ始まる。
「そうやって感情を剥き出しにするのは僕だけ。どれだけ僕という存在が得がたいか」
 山縣のネクタイを握り締めている伊藤。
 そして伊藤の肩を掴んだ山縣。
 聞き耳を立てている野次馬たちは必死に笑いをこらえている。
 こうしてつかみ合いの喧嘩から始まり、取っ組み合いの喧嘩をこの政府の最たる重鎮が繰り広げる。
 さてこの二人をして天敵。犬猿の仲。長州閥では「狐と狼の仲」といわれるが、
 この廟堂の誰もが知っている。
「あの二人って本当に仲がよいですよね」
「これのどこが犬猿なのか」
「世間ではひたすら天敵やら犬猿の仲とか書いているけど、真実は残さないといけないね」
「とてつもなぁく仲がよいって」
 その瞬間、扉が開き、伊藤と山縣二人がそろって顔を出し、
「僕たちは最悪きわまりのない仲だよ。仲がよいだって。そんなもの日記だろうが人にいったものは此処から追い出してやる」
「同感だ」
 廟堂には、この二人の重鎮の「意志」に逆らうものは誰一人としていない。
 こうして後生までこの二人は「犬猿の仲」として伝わることになる。



― 大久保利通の告白? ― (大久保さんシリーズ)

 ここは旧民部省を吸収した巨大官庁「大蔵省」
 大蔵卿の椅子に座す大久保利通は、今日も今日とて悩んでいた。
「村田君。木戸さんは、それほどに私のことを嫌っていようか」
 昨今、薩摩閥の誰もが頭を痛めている大久保の完全なる勘違いなる木戸孝允への恋心。
 誰もが「勘違い」と言い聞かそうとも、一度思い込むとなかなかに撤回はできない大久保は、「恋心」に未だに悩んでいる。
 これがどこぞの芸者か花魁かならば誰も心配はしないが、何をとち狂ったのか。
 相手は天敵に等しいにることも焼くこともできない厄介な木戸孝允である。
 確かに廟堂の花という名に相応しいくらいにきれいな容姿の色男ではあるが、どこをどう見ても男。しかもかつては江戸三大道場「練兵館」の塾頭だった男だ。
 薩摩人は相手を認めるときは、「武」をもって為すことがある。
 その点からいくと、兵の薩摩人を一人で竹刀をもって簡単に打ち倒す木戸は「男」として認められるが、
 なにゆえに一角の男に「恋」などと勘違いをするのか。
「大久保さん。そろそろその病をどうにかしたらどうですかね」
 薩摩閥の村田新八は大久保の片腕的存在であり、また薩人としては珍しい流暢な標準語を話す。
 この男もなかなかに過激派でもあり、西郷のとばっちりで島流しにあった過去などもある。
「五代がいう恋の病というやつかね」
 恋の指南をあの五代友厚から受けているというところが、大久保の一番の不覚かもしれない。
 あの五代なら、おそらくこの大久保を影で密かに楽しんでいる。
「村田君、頼みがある」
「なんでしょうか」
 ぞんざいな物言いをすると、大久保は僅かに眉をひそめたが、
「……木戸さんに、私が好きか嫌いか聞いてきてほしい」
「あのですね」
「それが気がかりでならない」
 いつもと代わらぬ淡々とした口調で呟きつつも、決して書類から目を離さない大久保はどこまでも「政治家」の目をしている。
 なぜ、気付かないのか。
 なにゆえ、こんなおかしな勘違いをしたのか。
 大久保は木戸に対して抱く感情は、どこまでも「政治家」としての見方でしかないというのに。
「聞いてきてくれたまえ」
 仕方ない、と村田は立ち上がり、重いため息をついて大蔵省を出た。
 それなりに長い付き合いの大久保だ。いつも一本筋を通した清濁併せ持つ大人物たる男だと尊敬に似た思いも抱いている。
 だが、だ。
 こんな頓珍漢なおかしな発想を浮かばせまわりを困らせる男とは思いもしなかった。
 これも隠された大久保の一面というものだろうか。
 村田はトボトボと廟堂に向かい、参議木戸孝允の一室に礼を尽くして訪問をした。
「村田君、いかがしたのかい」
 木戸という人は誰であろうと訪ねてきた人間は歓待する。穏やかに落ち着いた表情で微笑むのだ。
 この顔を見ると妙に落ち着くが、これから自分が言わねばならない言葉を思うと、村田は気が重い。
「木戸参議。大久保がいつもお騒がせして申し訳ない」
 すると茶を入れてくれた伊藤博文が、
「本当だよ。もう迷惑も迷惑。なにが頭でも打ったとしか思えないよ」
「確かに……アレは頭を打ったか熱でも出たかとしか思えない世迷言で……本当にご迷惑をおかけして申しわけない」
 一応薩摩の長たる大久保のことを詫びて後に、
「木戸参議」
 村田は伊藤の差し出した茶を飲みほして、木戸を凝視した。
「なにかな、村田君」
「大久保のことを好きですか、嫌いですか」
 瞬間、木戸はポカンとした。
「あぁあ。なんで薩摩の人ってこうも直球なんだろうね」
 伊藤がポリポリと頭をかく。
「す……すき? きらい? って」
 木戸は混乱中である。
「大久保に木戸参議が自分のことをどう思っているか聞いてくるように命じられました。単刀直入にお聞かせ下さい。好きですか、嫌いですか」
 このめまぐるしい一時は瞬き数度の時間でしかなかったが、
 おそらく木戸にとっては怒涛の如し時であったに違いない。
 これが長州の人間が尋ねたならば、何も迷うことなく「きらい」とにっこりと笑ったかもしれない。
 だが村田は薩摩人で大久保の片腕だ。
 即答で「嫌い」と返せば、薩長の仲に皹が入ると長州の首魁が考えないはずがない。
「き……木戸さん」
 呼吸すら荒くなった木戸を心配して、伊藤が顔を覗いている。
 伊藤を制して、木戸は今にも倒れるのではないか、というほどの真っ青な顔をして、
「す……す……すき……だよ」
 その一言が終わるとぜはぜはと呼吸を繰り返し、伊藤が必死に茶を飲ませている。
「木戸さん、気を確かに。大丈夫ですか」
 村田はスクッと立ち上がり、もはや意識も朦朧な木戸に深々と一礼をしてその場を去った。
 どんなに今の言葉が木戸にとっての「無理」をしすぎた結果だとしても、
 きちんと「すき」と木戸は言ったのだ。
 村田の役目は木戸に「好きか嫌いか」をただすことでしかなかった。
 それがどんな状況で呟かれた言葉かは、どうでもよいことだ。


「すき、といわれていました」
 村田はその一言だけを大久保にきちんと告げた。
「そうか」
 大久保はそれ以外は何も言わずに、ただ部下になにやら耳打ちをし下がらせた。
 それから書類を何事もなく片付け、その部下がなにやら花束を持って戻ってくる。
 花束を受け取った大久保は、スッと立ち上がった。
「………」
 村田はあえてどこに向かうのか聞かなかった。
 扉がばたりと閉じる音を聞いて後、
「……まだ続くのだな」
 と、一言だけ呟き、重い吐息をつく。


 そして再び木戸孝允の一室では、
「結婚してくださいますよね」
 花束を差し出し、大久保は木戸にそう迫っていた。
「はぁ?」
 木戸は先ほどの衝撃より立ち直ったばかりである。
「私のことを好きと仰ったとのことで。善は急げと申しますし、貴公の求婚を」
「誰が?」
「私が」
「誰に」
「貴公に」
 くらぁ、と倒れそうになった木戸を、伊藤がどうにか支えた。
「どこからそんな腐った発想になるのです。大久保さん、それに私たちには妻がちゃんといるでしょう」
「互いに妻がある以上、正式にということは無理ですが、生涯大切にさせていただきます」
「あのですね……」
「そういえば薩摩の人って、奥方とは別に恋人っていうものができて一人前でしたよね。それも男の……」
「俊輔」
 伊藤の一言にさらに眩暈がひどくなってきた木戸は、一言で制した。
「大久保さん、貴殿は頭を打たれたのだ。それも相当に。お気の毒に。どうぞお仕事をお休みになってください」
「それでご返事は」
「あのですね」
「あまりにもごねられるとこの際は結婚前に既成事実というものを」
 瞬間、いつものように木戸は手をあげ、大久保の頬をピシャリと叩いていた。
「貴殿には付き合いきれません。出て行ってください」
 怒りのあまりに顔を真赤にさせた木戸を、またしても大久保は勘違いする。
「新婚旅行は洋行ですね」
 それだけを口にし、木戸の手に花束を握らせて大久保は去った。
 あとに残ったのは衝撃のあまり口をぱくぱくと魚のように開いている木戸と、その木戸を介抱しなくてはならない哀れな伊藤だ。
 大久保利通が木戸孝允に求婚した。
 政府の父が、ついに母たる人に、求婚をしたのだ。
 廟堂の大部分の人間は「これで薩長の提携は確固たるものに」と政治がらみで考えてくれたのがせめてものすくい。
 誰もが大久保が本気の本気で「求婚」したとは考えてはいない。


「村田君。私の頬を叩くのが、木戸さんの愛の表現なのだろうか」
 未だに大久保利通の勘違いは正されてはいなかった。



― 一降の雪 ― (長州)

 明治七年二月。
 その日は暗闇の空よりゆっくりと白い花が地に落ちていっていた。
 廟堂、参議木戸孝允の仕事部屋。
「……俊輔、狂介の子どもが生まれたと聞いたよ。今日あたりお祝いに行こうか」
 にこにこと穏やかに笑う木戸の顔を見て、正直伊藤はホッとした。
 昨今、かの明治六年の政変よりこの方、木戸の精神は平常どおりとはいかない。
 その最たる精神を揺るがしている原因と言えば、佐賀に降った江藤新平前参議のことなのだろうが……。
 長州閥に大打撃を与え続けた江藤のことなど、伊藤としては一刻も早く木戸の心から追い払いたいことと言えた。
 そんな中で同郷の山県有朋におめでたい話題がおきた。
 結婚して七年。ようやく始めての子を授かったというのだから、喜びひとしおだろう。
 普段は犬猿の仲と言われる伊藤だが、昔なじみは昔馴染み。祝いは何がいいかな、などと考えていたりした。
「おーい、桂さん」
 そこへ、江藤により政府より追い出される形になった井上馨が顔を出した。
「色紙にサイン描いてくれよ」
 大きなフロックコートに体を包んで「さむさむ」といっている井上は、開口一番でそんなことを言う。
「聞多のサインは引き受けないよ。売りさばくと聞いているからね」
「そんな殺生な。アンタのサインは俺様の財源としては最たる……」
「書かない」
 あまりにも大量なる色紙を渡され「サイン」というものを書かされた木戸である。
 それも疲れ、見かねたその日訪れていた友人が代筆を申し出たほどだ。
「描いてくれよ。おい俊輔、半分はおまえの七不思議でいいぞ」
「嫌だよ。僕も何度もさせられて疲れているのだから」
 伊藤には人の字を真似て書く天性の才能があった。
「そんなこと言うなよな。親友の窮地だ。代筆くらいしろよ」
「なにが窮地なのかな。これから益田と会社をつくるとかいっていたよね」
「そうそう。そのためにはどんな金でも必要ということでな」
「三井の番頭」
 伊藤はからかうように言うと、
「言ったな。政界の風見鶏」
 井上もニヤリと笑って伊藤の頭を小突いた。
「二人とも……。そうだ、聞多。山県のところに子どもが生まれたみたいなのだよ。祝いは何がいいかな、と俊輔と話していたのだけど」
 井上の顔から唐突に笑みが消え、場が一点して寒々しさに染められる。
「聞多?」
「やめときな。この話題はここで終わりだ。……桂さん、山県の子どもな。男の子だったのだが、死んだよ」
 木戸は目を見開き、伊藤は「えっ」と思わず頼りない声をあげた。
「結婚七年目。最初の子どもが待望の男子。……けどな、産声から数日後に死んだ。山県も……だから言わないのさ」
 生まれたときから、ひ弱で、おそらく数日持たない、といわれていたようだ。
 山県はともかく子ども好きな妻の友子が悲嘆にくれ、一時は産後の肥立ちも良くなく危うい状態になったともいう。
「まぁあの男は女は友子さんだけ。そこらの遊郭の女よりも、庭石が好きな男だ。恋女房とこれから子どもはできるだろうけどよ。少しばかり……辛いな」
 おめでたい、という雰囲気は一変して消え去り、
 木戸はおもむろに立ち上がり、窓辺に立った。
 空よりゆっくりと降り立つ雪が、今はどことなく哀しい。
「名前は?」
 木戸は聞いた。
「あの山県だから、子どもにちゃんと名前をつけたと思う」
「あぁ。余一と名づけたと聞く」
 今、空から降り立つ雪のように。
 ただ降り立ち消え失せる儚い命と同様に。
 雪ならば、白く、ただ白く。そして地に落ちて消えるその時が生きた証ならば、
 その子どもは、ただ「余一」という名だけが生きた証なのかもしれない。
「ちゃんと山県にお悔やみを言うよ。その子は……生まれてきたのだから」



― 大久保利通の贈り物? ― (大久保さんシリーズ)

 その日、普段は多忙な大蔵卿大久保利通が、珍しくゆとりがとれ、気分転換も兼ねて外を歩くことにした。
 廟堂より少しばかり歩くと、いろいろな店が立ち並ぶ。
 その中に、先日開店したばかりの古物商があった。
「………」
 さして骨董品の類に興味はない大久保だったが、店の前で足を止める。
 それは店内に入らず、店前に飾られている一服の絵をジッと眺めている人間に見覚えがあったからだ。
 声をかけようとしたのだが、その絵を見るさまがあまりに真剣で、大久保はついその横顔にのまれた。
 あいも変わらずきれいな男だと思う。そして今、絵の前で何か迷う表情を惜しげもなく見せるこの男は、実に隙だらけだ。
 声をかけるにかけられず、仕方ないとばかりに大久保は少しばかり離れた場所で見守ることにした。
「………」
 おそらく同様に気晴らしで廟堂より出てきたのだろう。
 参議木戸孝允は、絵画の前でいったりきたり、といった風情であぁでもない。こうでもない、と一人うなっている。
 そんなさまは普段の「長州の首魁」と比較すると多分に可愛らしく、無邪気さを思わせて、大久保には何もかもが珍しかった。
「………」
 そして木戸はため息をつき、そのまま肩を落として廟堂の方に向かっていく。
 少しばかり大久保は気になり、その絵を近づいて凝視し、そして店内に入った。
「ちとお尋ねしたいのだが」
 白髪の店主は大久保をジトッと睨み、そしてフッと老獪な顔を見せた。
「あなたさまにお売りするものは、ここにはありません」
 じろりと睨まれ、大久保としてはその目に潜む剣の強さと老いを感じさせない光に只者ではない、と思ったのだが。
「先ほど、この店の前に出されている絵を見ていた御仁なのだが」
「あぁ……あの方がいかがされたかな」
「よくここにあの絵を見にこられますか」
 主人はニッと笑い「来る」と一言いった。
「あの絵が相当に気に入ったようじゃて。あなたさまには分からぬかもしれないが、ここにあるものはすべて主人を選ぶ。 付喪神になっとるものばかりじゃ。あの絵とて同様。そして……あの絵は主人にあの御仁を選び、あの……御仁もきにいっとるのじゃが……」
 なぜか毎日見にきてはいるが、ため息ばかりで踏ん切りをつけん。
「あの絵はしあわせを呼ぶ絵といわれている。あの御仁は……私にしあわせは許されないから、とどうも自分では買うことができんようじゃ」
「……そうですか」
 木戸という人間らしい。
 たとえ迷信だろうがいわくだろうが「幸せ」を呼ぶものを、自らは望んではならないという心。
 悲しいまでに頑ななあの心は、どうやら徹底しているらしい。
「それでは、私からあの人にこの絵をおくらせていただけませんかな」
 現在、大久保は木戸へ勘違いでしかない「恋わずらい」中である。
 数日前には「求婚」をし、その返答は平手打ちだったが、悪いことにその平手打ちを愛情の裏返しだと認識している始末だ。
 その後は、毎日のように「求婚」をしているのだが、木戸からの返事は変わらぬ平手である。
 ついには、
「大久保卿はどうやら史上最大級にお疲れのようだ。ゆっくりとしばらくご静養されるといいですよ。大蔵省のことは大輔の井上がしっかりとつとめあげますから」
 と、にっこりと微笑まれたばかり。
 これを「テレ」などと考えるのは、この広い廟堂の中でも大久保一人に違いない。
「……まごうことなく、この絵をかの御仁に贈られようか」
 不信さを全面に出している店主に、大久保は憮然といった。
「私には絵の趣味はない。……あの人になにか良いものを贈りたいと思っていたところです」
「ほぅ」
「喜ぶものを贈りたい」
 店主はニッと笑い、表よりよいしょと額縁の絵を両手に持ち、
「持っていきなはれ」
 大久保の腕にその絵を渡した。
「それは付喪神じゃて。もしもあの御仁に渡されねば大いなる災いがおきる。忘れぬように」
「お代は」
「……そうじゃのう。あなたのそのポケットの中にある懐中時計をいただこうかね。何百年もすればそれも列記とした付喪神になりそうじゃ」
 迷信やら不可思議な非現実的なことは信じない大久保は、その絵を受け取り片腕に抱えた後、異国製の懐中時計を店主に放った。
 この絵にどれだけの価値があるかは知れないが、木戸が喜ぶならば懐中時計など惜しくもない。
 廟堂に戻った大久保と、すれ違う人間はみな、大久保が抱えている絵が気になるらしく一瞬だけ凝視する。
 だが大久保はかまわず歩き、木戸の仕事部屋の前にたった。
 三度ノックすると「どうぞ」という柔らかな声が聞こえてくる。
 扉を開け、中に入ると、
 見るからにビクリと体を浮かし、今日はなんだ、という瞳を向けてくる木戸に、
「貴公に差し上げます」
 抱えてきた額縁に入った絵を、木戸の目の前に差し出す。
 すると木戸は一瞬だけ茫然とし、そして束の間。ほんの僅かなときだが、嬉しげに笑ったのだ。
「……ありがとうございます」
 どうやら花を贈るよりも効果があったらしい。
 その鳥が記された絵をジッと見てにこにこと笑い、木戸は心から喜んでいる顔をしたが、
 ふと大久保の存在を思い出したのか、絵を下に置いて後、
「大久保さん」
 今度は不気味なにっこりをあえて見せてきた。
 大久保はこの顔を何度も見てきた。ゆえに察して一歩引いた時にはすでに遅い。
 ばちん、といういつもながらの音が部屋にこだました。
「叩かれる意味が分かりません」
「私はいつも散歩がてらにあの絵を見つめるのが好きでした。それを奪ったのですから当然の報いです」
「そうは言いますがね。あなた、今とっても嬉しいのでしょう」
 木戸はフッと笑う。
「借金だらけの大久保さんに贈り物をされては、私はむしろ気にかけてしまいますよ」
 そこへ扉がノックされ、返事を待たずに現れたのは兵部大輔の山県有朋だった。
 山県はその暗闇の瞳でジロリと大久保を見据えて後、
「先ほど見つけたものだ。貴兄によくあう」
 と、山県は手にしている浮世絵を木戸に差し出す。おそらく名のある物だろう。
 一瞬ぼんやりとし、その後、木戸はにこりと笑って、
「ありがとう、狂介」
 よほどに嬉しいのと山県に抱きついた。
(この扱いの差はなにか……)
 大久保はようやく自分が全く「大切」にされていないことに気付く。
 そしてわずかに山県を見て、この男は「敵」だと認識した。
 大久保よりの贈り物は、その後木戸の仕事部屋に長らく飾られることになる。
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  • 【まとめ】 2013年1月16日
  • 【備考】 4話収録