福澤と大鳥の喧嘩

中篇



 さて天下の福澤。
 ぼたもち、大福、饅頭、金平糖が座敷に並び、ついには人力車で王子に向かい「厚焼き玉子」を手にした時、いったい自分は何をしているのかとため息を漏らした。
 家ではお錦が悩んでいる。
「トリさまはなぜ、お出でくださらないのでしょうか」
 自分が作るぼたもちに飽きたのか、としょげているのだ。
「お錦さんが作るぼたもちほど美味いものはない」
「ですが、だんなさま。もう五日でございます。出張以外でこんなに長くトリさまがお越しにならないことが今までありましたか」
「忙しいのだろう」
「きっとぼたもちが。私、これからさらに腕を磨いてトリさまに気に入っていただけるぼたもちをつくります」
「・・・母上、またぼたもち?」
 小さな子どもたちはすでに「ぼたもち」に飽き飽きしていた。
 たまに顔を出す長男の一太郎などぼたもちを見ると逃げ出す始末だ。
「今日はさらに甘く改良しますよ。八つ時にいただきましょう」
 それでも子どもとは甘いものが好きらしく、毎日毎日毎日がぼたもちでも嫌な顔はするがすべて食す。こういうところは福澤は本気で子どもとは偉いものだと感心していた。
 その日は大隈重信が酒びんを持って訪ねてきた。
 とある新聞社の対談以来、二人は意気投合をし酒を飲みあう仲となった。
「飲もうであるよ、福澤さん」
 大隈が二カっと笑った。自信に満ち溢れたこの笑顔を福澤は好む。
 大酒飲みの福澤はその日は飲みに飲んだ。
 甘い物がなかなかに好きらしい大隈は、お錦のぼたもちをつまみとしている。
「控え目なほどよい甘さがよいである。こんな美味いぼたもちは始めて食ったなぁ」
「お錦さんのぼたもちは最高だ。ほぼ毎日作っている」
「・・・毎日? 福澤さんは甘い物はさして好まないと思うであるが」
「トリがぼたもちは好物ゆえだ」
 グビッと酒を飲み、大きな吐息を福澤は吐いた。今日も大鳥は顔を見せなかった。
 本日でちょうど十日。お錦ばかりか子どもたちまで「トリのおじさんは」としょげ始めている。
 幼い子供たちは手習いを大鳥に習っていた。福澤が教えるとなぜか泣く。今年二十歳の長男一太郎は自らの勉学で手が回らず、といって館を訪ねてくる塾生に手習いを習う訳も行かず。
 大鳥は妙に子どもの扱いが慣れている。福澤のところ同様に大鳥の家も子だくさんだ。しかも子煩悩なところが大いにあり、子どもがとても好きである。
「トリのおじさんにアルファベットをおしえてもらう予定だったのに」
「・・・私はトリのおじさんに歌を」
 子どもたちはジッと福澤を見ては、いつ大鳥が来るのかと訴えていた。なんだか責められている気分となり福澤は居たたまれない。
「大鳥さんか。ここ数日は井上のところで見たであるよ」
「なっ・・・井上? 井上外務卿のところか」
「鳥居坂の本宅で井上が料理研究会を始めてな。その犠牲に大鳥さんがなっているんだなぁ。なにせ大鳥さんの口は天下一品。それに合う料理を作ると井上は大はしゃぎだったであるよ」
 ここ十日の大鳥の行き先が判明し、福澤は妙に苛々とした。
 よりによってゲテモノ料理で有名な井上馨のもとに顔を出しているとは。それも分からなくはない。井上の秘書にあの本多がついている。本多の顔を見に行っていたら、井上に捕まったというのが事の顛末だろう。
「井上料理よりもお錦さんのぼたもちの方が何百倍も美味いはずだ」
「それはそうであるよ」
「だというにあのトリはなにを鳥居坂などをうろちょろしている。トリだけに鳥居坂を巣にでもするつもりか」
「・・・福澤さん。どうしたであるか」
「どうしたこうしたも・・・腹が立つ」
 いつも以上に酒を飲みに飲み、大隈が止めるのも聞かずに飲み続けて、
「天下の福澤さん。頼むよ」
 福地が現れた時には泥酔して高鼾をかいていた。
「おや大隈さんじゃないか。すまんが新聞社にちょいと金貸してくれんか」
 福地は借金はすべて大隈に頼むことにしている。大隈は金には汚いと噂のある男だが、なんのポンと利子も取らずに貸してくれる。福地には良い男だ。
「福地くんは俺の顔を見れば金の無心ばかりであるよ」
「頼りにしているんだぞ、大隈さん」
 大隈が一つため息をつくのを見て、貸してくれそうだ、と福地は心底でにんまりとした。
「それにしても福澤さんはどうしたんだ。こんなになるまで飲むのは・・・なんかあったのか」
「大鳥さんが顔を出さないことを気にしているであるよ」
「まぁだあのトリ、顔を出さないのか。これは困ったな。評論を頼むどころじゃない」
 今日も評論を頼みに来た福地である。
「井上のところで料理の犠牲になっているである」
「うわぁっ。よくやるぞ。あのゲテモノ料理は一口で賽ノ河原が見える」
 これには散々に被害に合っている大隈も深く頷くのだが、
「俺はしばらく忙しくて動けん。大隈さん。もし井上さんのところに行ってトリと会ったら、こっちに顔を出すようにいってくれないか。この天下の福澤は・・・どうもトリがいないと評論一つ書こうとしねぇんだ」
「・・・よいであるが」
「飼い鳥とか知人以下とかいってるがよ。本当は自分が書いたものをトリに最初に見せたいのさ。あのトリ、福澤さんの書いたものはすごい集中力で読む。隅々まですべて読み切って気力を使い果たすほどさ。 トリがどんな感想を持つか。それを福澤さんは楽しみにしている」
 福澤という世紀の唯我独尊にして俺様の力量は、同様に非凡なる才覚を要する大鳥の目を通すと違った色合いが出てくるのかもしれない。
「飼い鳥か・・・。それは福澤さんならではの言い回しでの真の友という意味ではないであるか」
「俺もそうだと思うし、トリもきちんとわかっていたと思うんだ。だがついに切れたというか・・・」
「福澤さんに昔、鳥を飼っていたと聞いたことがあるであるよ」
 大隈の話を要約すると、
 近くには同い年ころの仲の良い友がおらず、家で飼っていた鳥や毎日餌をねだる雀を福澤は気に入っていた。
 鳥を相手に書を読み、鳥のさえずりで昼寝をし、時には鳥の羽ばたく姿を見て未来を夢見た。
 福澤にとって幼いころの親友は「鳥」であったのだろう。
「福澤さんは鳥が好きだからな」
「そうであるな」
「まぁ酒よりは好きじゃないだろうけど。トリには早く戻ってきてもらわんと俺の仕事が進まん」
 大隈が「なんとかなるであるよ」と笑ったが、福地はあの楽観的な大鳥が変なところで頑固なことを良く知っている。
「会ったら、カステラも牛鍋もついでに海老も蟹は食わしてやるからと言っておいてくれ」
 これでぴよぴよ顔を出してくれるなら実にありがたい。


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福澤と大鳥の喧嘩 - 2

福澤と大鳥の喧嘩 中篇

  • 【初出】 2013年6月30日
  • 【備考】