緑と月夜の物語

2章

「木戸さん」
 そう傍らにある木戸に声をかけた山県だったが、瞬きの後に目にしたのは暗闇の中にひとつ煌々と輝く月の姿だった。
 はっとした。
 己は今の今まで木戸の傍らにあり、大木の幹にもたれかかっていなかったか。それが今の月の位置からして、己はどうやら横になっているらしい。一瞬の間に己は倒れでもしたか。意識を失いでもしたか。
 山県には瞬時の後に、天地がひっくり返ったかのような……そんな感覚に苛まれる。
「たおれているの。体、いたいの」
 頭上にある月が不意に隠れた。
 己の目の前にヒョイと顔を出したのは小さな男の子。
「お腹いたいの。頭がいたいの? コゴのお家、おいしゃさんなの。いたいのいたいのなくしてくれるの」
 その男の子の瞳は涙の海になっていた。
 あぁ涙を拭わねば、と無意識に伸びた手を男の子はピクリとして避ける。怯えを含んだその目は、山県がよく知る人間に瓜二つだった。
「……木戸さん……」
 傍らにあった人間の名を呼ぶ。
 山県が身を横たえていた大木もない。風はあの皐月にしては冷ややかな空気が、妙に蒸す。梅雨時と同じ感覚だ。
「いっしょにくる? いたいのいたいのなくなるよ」
 そして目の前にあるのは四歳くらいの男の子。
 恐る恐る差し出してくるその手は、とても綺麗なものだった。
 この世の中とは不思議なもの。非現実も時には起きるものだ、と山県は思っていたりするが、これが夢ではなく現実とすればいかなる時の気まぐれか。
 男の子の差し出す手を握ると、「つめたい」男の子は僅かに笑んだ。


「小五郎、おまえは」
 家の中に入ると、長身の細長い男がすぐさま現れ、あからさまに子どもに手を上げる。
(まだ幼い子どもに)
 山県は無意識にその子どもを胸元に抱きしめ庇った。
「何者だ……その衣はなんだ」
「あにうえ、ごめんなさい。ごめんなさい。……体いたいの。だから」
「いつも言っているだろう。犬猫といい……おまえはついに人まで拾ってきたか」
 またしてもスッと手をあげる男を山県は睨み吸えた。
「なんだその目は」
 苛立ちのあまり山県に向けられる手を、あえて山県は掴みさらに眼光を鋭くした。
 男がひるんだ顔をする。
「コゴがごめんなさいなんです。コゴあやまります。ぶたないで……」
 山県の袖を握り締めて、ポロポロと涙する男の子。
 その涙も、ふと見せる表情もやはりよく似ている。
(貴兄とはじめて会ったは、貴兄が十歳ほどの時か。久坂さんとあの人の手を引いていた)
 それよりも数年幼かろうとも山県には分かる。
 この男の子が、自らを「コゴ」と呼ぶこの男の子が、在りし日の木戸孝允こと桂小五郎だ。
 非現実や不可思議なことに山県は慣れすぎている。とある木戸と親しい医者が非現実の申し子というべきか。人が小さくなる薬やら、人の記憶がなくなる薬。または「恋薬」に猫が人語ほ語る薬などさまざまな厄介なものを作り出す摩訶不思議な男であるため、山県も慣れた。
 冷静に考えると、おそらく己は時をさかのぼったのだろう。
 などと他人事のように思い始めた山県を、現に戻すのは怯え奮えながら己にギュッと抱きつく男の子の体温と言えた。
(木戸さん……)
 その小さな体を腕に抱き上げ、
「大丈夫だ。誰にも指一本触れさせぬ」
 青年は山県をねめつけるかのような形相だ。木戸の兄となれば、この男が文譲ということだろうか。
 木戸の実家「和田家」の婿。和田家長女捨子の夫であり、藩医和田家を相続した木戸の義兄。
 確か木戸が生まれたときには、二十歳年上の姉が婿を取り家を継ぐことが決まっていた、ということを耳にしたことがある。あれは木戸の幼馴染であった高杉が言っていたか。
『桂さんと姉上はかなぁり複雑な関係だったようじゃ。当然じゃ。自分が婿をとって家を相続すると決まっちょったのが、いきなり男の子、異母弟が生まれた。もしかするとこの異母弟にすべてを奪われるかもしれん。姉さんは焦ったんじゃろうな。 そこで隣家の桂家の当主が末期養子っちゅう感じで、桂さん引き取って養子にしたんじゃ。当主はすぐに死んでしまったから、桂さんは七歳で当主じゃった。養子になったことで武士になれたんじゃ』
 藩医という家柄の嫡子に生まれつつ、木戸には始めからあるべき家がなかった。
 養子に出たのも高杉の話しだと、幼いながらに義兄や異母姉を気遣った結果だとも言う。
「コゴ……おろして……コゴは……」
 人に抱きとめられることになれていないのか真赤になり、だが言葉とは異なりなにひとつ抗いがない。
 この子どもは人のぬくもりにおびえながら、もとめているのではないか、と山県はさらに抱きとめると、
 男の子は不思議そうな顔をした。
(やはり面影がある)
 その黒曜石の如し綺麗な瞳はなにひとつ変わりはしない。
 山県が毎日のように見ている瞳には多分に憂いが含まれていたが、今のこの目は哀しみが色濃く、この年頃の幼子としての覇気が見えない。
「あらまあ。小五郎さん、今度はお人を拾ってきてしまったの」
 現れたのは十四ほどの少女。腕の中にある男の子が「あねさま」と呼んだ。
「義兄上さま、よろしいではありませんか。小五郎さんがこんなに懐いている人ですもの。しばらくの間、家にいてもらいましょう」
「八重子、これは犬猫とは違う」
「そうでしょうけれど、けれどでございます。ねえ貴方? まるでこの国の人ではないお着物ですけど……この国の人ではないのかしら」
 無邪気な好奇心の瞳が山県に向けられる。
 いまだ維新もならず、国も開けていない時代だ。背広姿というのはやはりこの時代の人から見れば滑稽だろう。
 如何すべきか、と思いつつ、
「私は萩の生まれだ、と思う。だが……悪いことだが今までの記憶が私にはない」
 こうすることが一番の自然であり、この洋服などについて理由を説明することをはぶけると思ったが。
「まぁまぁ、それは大変なことでございます。私たちは眼科を専門としておりますので記憶を戻すことは無理かもしれませんが、これでも医者の家。これからの医学の発展のためにも記憶を戻す方法を編み出したいと思います」
 山県は人に知れずため息をひとつこぼす。
 やはりというか、この人は木戸の姉だ。頭の転換といい実によく似ている。だが一番大切なところが抜けているではないか。
 記憶喪失などそう一言で信じてしまう人の良さ。
「八重子」
「義兄上さま。小五郎さんが拾ってくる人ですもの。悪い人ではないですよ。この子の目は確かです。こんなに懐いて……私たちはおろか誰にも触れられることを拒むこの子が……それだけでもこの方にはここにいて欲しいです。人間嫌いが少しでも治れば、と」
(人間嫌いだと……!)
 驚いて腕元にある男の子を見据える。
 木戸がまさに縮んだかのような姿。見つめると見つめ返してくる瞳の黒さ。だがふんわりと微かに微笑むその表情は、実に人好きがする。
 木戸という人間はこちらが見ていて危うさを感じるほどに人が好きな男だった。人と見れば疑うことを知らず「善人説」を掲げているとまで思わせる。
 人を見れば信じ、信じぬくあの性格。
『私は人を裏切るよりは、裏切られる人間の方がいい』
 そう儚く微笑む人を、長州の人間は宝物にように思い大切にし、守ろうとしてきた。
 そのこの人が幼い時は人嫌い? 言葉を変えるならば人間不信といったところだろうか。
「小五郎さん、どうしましたの。あらあら……珍しいこと」
 その人は姉であろうか、それとも母であろうか。二十歳をわずかに過ぎた年のため、山県は異母姉か母親か判断に窮した。
 母さま、と小さな声をこの人は出した。
 そのあとに続くその母と同い年くらいの人を「姉さま」と呼んでいる。
「このお方、記憶がないとのことなのです。これは大変なこと。身なりはおかしな衣ですが上物のようでございますし、身分卑しきお方ではないと思います。小五郎さんがこうまで懐いているのですもの。しばらく我が家にいてもらおうと思いまして」
 義兄文譲など頭を抱えているが、母親はにこりと笑った。
「それはご不幸。この子がこうまで人に懐くのは珍しきこと。しばらく
……この人嫌いのこの子の傍にいてくださいませんか」
 この一族はどこか頭の詮が一本抜けているのではないか。
 人を警戒することを知らぬ。人を見てそれを「悪人」と思うよりも「善人」と思う家系であるようだ。
「ここの家の人間はどこかおかしい」
 文譲のため息も山県にはもっともだ、と思うのだが。
「小五郎さん」
 母が伸ばした手にビクリと震えるこの人の姿。
 哀しげな顔をした母はその手の行き場所がなく、だが触れることもできず、哀しみが色濃くにじんだその瞳はこの人の瞳と瓜二つだ。
「この子をどうぞよろしくお願いいたします」
 母親の一言で、どうやらこの家に居候することが決定した山県は、
「名だけ覚えている。私の名は山県有朋という」
 あえて実名を名乗った。
 おそらく木戸の年ならば己は生まれてはいまい。あえて諱を名乗ったのも、その名ならば記憶に覚えていられてもさして後々の己に被害が被ることもないと思ったからだ。
 あの時代……諱は使うことはほとんどなく通称を用いた。
「士分の方にしては曲げがないですが……お坊様かしら」
 八重子は首をひねり、
「私、こう見えても医者の娘です。貴方の記憶が戻られますように勉強いたします。……記憶が戻られるまで小五郎さんのお相手をお願いしてもよろしい?」
「この私からもお願いします」
 スッと進み出たのは一番上の姉だろう。見るからに気丈なるだが牡丹を思わせるほどに可憐で美しい。
(松子さん……)
 山県はハッとした。その姿も雰囲気もその声までも、上の姉の風貌は木戸の妻となる松子に瓜二つだったからだ。
「捨子と申します。……弟、小五郎さんのためにも少しは人に馴染ませたいと常日頃思っていました。人が怖いのか……私たち身内にも怯えて。この子が怯えないで抱かれているなど……私たちには奇跡のようでございます。記憶が戻られるまででよろしいです。ご家族が探しているかもしれませんので、萩中にご家族がいないか私どもで触れ回ることもお約束いたします。それまで……弟を……」
「承知した」
 行き場などあるはずがない。ましてや何十年も時を遡っているのだ。
……そのことに意義があるならば、きっとこの人の傍にあるために己は飛ばされたのだろう、と山県は結論づける。
「ありともさん」
 この人はそう己を呼んだ。
 通称の「狂介」か「山県」としか呼ばない木戸だ。そう呼ばれると不思議な感覚がするが、
 幼いこの人を、人に怯えるこの人を、せめてこの腕で守っていこう、と山県は抱きとめる。
「しばらく世話になる。よしなにお頼みする」
 文譲以外、一家の女たちはにこやかに笑った。


 幼い貴兄は、やはり思い描いたとおりに可愛く、
 そして思いもよらないほどに人に怯え、哀しい目をする子どもだった。


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緑と月夜の物語-2

  • 【初出】 2006年ごろ
  • 【修正版】 2012年12月16日(日)
  • 【備考】木戸孝允命日追悼・山県有朋誕生日記念作品